第八話「同じ笑い方」
翌朝、ショールは畳まれて自室に届いていた。
机の上に、皺ひとつなく。添え状も、言伝もなかった。
「よかったですね、戻ってきて」
リムが着替えを整えながら、何気ない調子で言った。
「ええ」
「どなたが持ってこられたんでしょうね」
「侍従の方でしょう」
「そうですねえ」
リムの返事が、やけに平坦だった。
私は畳まれたショールに手を伸ばして、それから引っ込めた。触れると、何かを認めてしまう気がした。
結局その日は、一度も身につけなかった。
昼過ぎ、王宮の東回廊で足を止めた。
窓の外に中庭が見える。薔薇の季節にはまだ早く、葉ばかりが茂っていた。
執務室へ向かう途中だった。急ぐ用があるわけでもないのに、私はしばらくそこに立っていた。
昨夜のことを考えていたのだと思う。
考えないようにしよう、と決めていたのに、決めた端から考えていた。
「——エリナ様、でいらっしゃいますね」
声をかけられて、振り返った。
黄金色の髪が、廊下の光を受けていた。
セシリア・ラ・モーア。
二度分の記憶の中で、この人と二人きりになったことは一度もない。いつも遠くにいた。会場の反対側か、殿下の隣か、そのどちらかだった。
「……ごきげんよう、モーア様」
私は完璧な笑顔を作った。三度分の練習がある。
「突然お声がけして、申し訳ありません」
セシリアが小さく頭を下げた。近くで見ると、思っていたより背が低かった。夜会の壇上ではもっと大きく見えたのに。
「いえ。何かご用でしょうか」
「用というほどのことでは」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
私は待った。
セシリアは中庭の方を見て、それからもう一度こちらを見た。何か言おうとしている。言葉を選んでいるのではなく、言っていいかどうかを迷っている顔だった。
「エリナ様は」
「はい」
「……お変わりありませんか」
変な質問だった。
初対面に近い相手にする質問ではない。体調を気遣うにしても唐突すぎるし、社交辞令にしては間が長すぎた。
「ええ、おかげさまで」
「そうですか」
セシリアは頷いた。安心したような顔だった。
安心。
なぜこの人が、私のことで安心するのだろう。
「……不躾なことを伺いますが」
セシリアが、少し声を落とした。
「殿下との婚約は、エリナ様がお望みになったことですか」
息が、止まりかけた。
二度分の記憶の中で、誰にも聞かれたことのない質問だった。
当たり前だ。王太子との婚約は名誉であって、望むか望まないかを問われる筋のものではない。両家が決め、王が認め、私は頷く。それだけの話として、誰もが扱ってきた。
「……光栄なお話をいただきましたので」
私は、いつもの答えを返した。
二度分の練習がある、完璧な答え。
「そうですよね」
セシリアが微笑んだ。
その笑い方に、私は覚えがあった。
鏡の中で、何度も見た笑い方だ。
「あの、モーア様」
私は踏み込んでみた。
「私たち、どこかでお会いしたことが」
セシリアの肩が、跳ねた。
小さな動きだった。見逃していてもおかしくない。でも私はそれを見てしまった。
「……いいえ」
「そうですよね。失礼いたしました」
「いいえ、こちらこそ」
沈黙が落ちた。
中庭で鳥が鳴いた。誰かが遠くの廊下を歩いていく音がした。
私は、この沈黙を破る言葉を持っていなかった。二度分の記憶は、こういうときに何も助けてくれない。この場面が、記憶にないからだ。
やがてセシリアが、小さく息を吸った。
「エリナ様。ひとつだけ、申し上げても」
「どうぞ」
「殿下のことを——」
そこで、止まった。
言葉が途中で切れた。彼女の視線が、私の背後の何かに向いていた。
振り返ると、回廊の向こうに人影があった。侍女らしき女が一人、少し離れたところに立ってこちらを見ている。
セシリアが、笑顔を作った。
完璧な笑顔だった。私のものとよく似ていた。
「——失礼いたしました。つまらないことを申し上げるところでした」
「モーア様」
「本日はお会いできて光栄でした。ごきげんよう、エリナ様」
彼女は綺麗な礼をして、去っていった。
侍女らしき女が、その後ろについて歩き出す。並んで歩いているようで、少し違った。
あれは、付き添いではない。
監視だ。
私はしばらく、その場から動けなかった。
執務室に着いたとき、私はまだ整理がついていなかった。
殿下は既に机に向かっていた。昨夜のことなど何もなかったような顔で、書類に目を落としている。
「遅くなりました」
「ああ」
顔も上げなかった。
それでいい、と思った。何か言われたら困る。ショールのことも、寝顔を見たことも、触れられたくない。
私は自分の席について、帳簿を開いた。
開いてから、数字が全く頭に入らないことに気づいた。
セシリアの声が、まだ耳に残っている。
殿下のことを——。
あの続きは、何だったのだろう。
二度分の記憶の中で、あの人は殿下に選ばれた側だった。勝った側だった。私はずっとそう思っていた。
でもさっき見たのは、監視をつけられた令嬢だった。言いかけた言葉を、他人の目で引っ込めた令嬢だった。
勝った人間は、あんな顔をしない。
「エリナ」
名前を呼ばれて、我に返った。
「はい」
「今日は、帳簿を逆さに持っている」
慌てて持ち直した。
顔が熱くなった。三度分の練習を積んだ完璧な令嬢が、帳簿を逆さに持っている。
「……申し訳ありません」
「何かあったか」
書類から目を離さないまま、殿下が聞いた。
私は少し迷った。
言うべきだろうか。モーア家は調査対象だ。その令嬢と私が話したことは、報告すべき事実かもしれない。
でも。
あの人が言いかけてやめたことを、私が代わりに口に出していいものだろうか。
「……いえ。少し、考え事を」
「そうか」
殿下はそれ以上聞かなかった。
しばらくして、ペンを置く音がした。
「エリナ」
「はい」
「私に言えないことは、無理に言わなくていい」
私は顔を上げた。
殿下はこちらを見ていなかった。書類を見たまま、続けた。
「ただ、言えないことがある、ということは言ってくれ。それだけで、こちらの動き方が変わる」
——ずるい。
本当に、この人はずるい。
問い詰めもしないくせに、逃がしもしない。
「……言えないことが、あります」
私はそう言った。
「分かった」
それきり、殿下は何も聞かなかった。
その夜、自室に戻って、私は机の上のショールを手に取った。
畳み方が、丁寧すぎた。
侍従の仕事なら、こんなに角を揃えない。もっと事務的に、もっと早く畳む。これは、慣れていない人間が時間をかけて畳んだ形だ。
私はショールを膝に置いて、しばらくそのままでいた。
今日、二人の人間が、言いたいことを飲み込んだ。
セシリア・ラ・モーアと、私だ。
そして殿下は、どちらのことも聞かずに済ませた。
三人とも、何かを抱えている。
——なんて面倒な三度目だろう。
私は少し笑って、それから笑えなくなった。
一度目も二度目も、たぶん、同じだったのだ。
私が気づかなかっただけで。




