第七話「取り返しに行けない」
次の日から、私は殿下をよく見るようになった。
観察と呼べば聞こえはいい。実際は、確かめたかったのだと思う。
焼き菓子の一件以来、頭の中に居座っている疑いがある。この人は、覚えているのではないか。全部ではないにしても、どこかで。
確かめる方法は、たぶんある。リムがやったように、記憶の中から何かを引っ張り出して、目の前に置けばいい。それだけのことだ。
それだけのことが、四日経っても、できなかった。
怖かったからだ。
もし何も起きなかったら。焼き菓子はただの偶然で、この人は何ひとつ覚えていなくて、私だけが二度分の記憶を抱えて勝手に期待していたのだと分かってしまったら。
——そのとき私は、たぶん立ち直れない。
だから見ているだけにした。見ているだけなら、何も壊れない。
臆病を観察と呼び替えているだけだということは、四日目の朝には自分でも分かっていた。分かったうえで、五日目もそうした。
調査は続いていた。
東部の記録は五年分では足りず、十年分に増えた。木箱が二つになり、三つになった。ユリウス卿が「執務室が倉庫になりました」と嘆いて、殿下が「倉庫の方が仕事が進む」と真顔で返していた。
書類の山と向かい合ううちに、私は殿下の癖をいくつか覚えた。
考え込むときは、左手でこめかみを押さえる。行き詰まるとペンを指で回す。数字を追うときだけ、唇がわずかに動く。頭の中で読み上げているらしい。
どれも、二度分の記憶にない。
当たり前だ。一度目も二度目も、私はこの人が仕事をする姿を見たことがない。婚約者として社交の場に並んだだけで、書類を挟んで向き合ったことなど一度もなかった。
私はこの人の何を知っていたつもりでいたのだろう。
二度分の記憶があると威張っていたくせに、その記憶の中に、こめかみを押さえる姿ひとつ入っていない。
私が知っていたのは、この人の「結末」だけだ。
過程は、何ひとつ。
「エリナ」
顔を上げると、殿下がこちらを見ていた。
「は、はい」
「さっきから、私を見ているな」
帳簿を取り落としそうになった。
「……失礼いたしました。ぼんやりしていただけです」
「そうか」
殿下はペンを置いて、少し首を傾けた。
「ぼんやりしている人間は、まばたきの回数が減る。君は増えていた」
どこを見ているんですかこの人は。
「……お詳しいのですね」
「人を観察するのは仕事の一部だ」
それから殿下は、何気ない調子で付け足した。
「君も、そうだろう」
心臓が、小さく鳴った。
見ていたことを咎められたのではない。見ていたことに、気づかれていた。しかも「君もそうだろう」と、まるで同類を見つけたような言い方で。
この人は時々、こういうことをする。
距離を詰めてこない。ただ、こちらが立っている場所を正確に言い当てて、それきり黙る。逃げ道を塞がないのに、逃げにくくなる。
「……ええ。癖のようなものです」
私はそう答えて、帳簿に視線を戻した。
文字が、しばらく頭に入ってこなかった。
その晩、私が気づいたときには、もう遅かった。
燭台の火が半分ほど落ちていた。窓の外は完全な闇で、王宮の庭にも人の気配がない。ユリウス卿はとうに退がっていて、部屋には私と殿下だけが残っていた。
そして殿下は、机に突っ伏して眠っていた。
私は帳簿を持ったまま、固まった。
王太子が、婚約者の前で寝落ちしている。
どうすればいいのか、二度分の記憶は何も教えてくれなかった。当然だ。こんな場面、一度もなかった。
起こすべきだろうか。いや、起こすのも失礼な気がする。侍従を呼ぶ? この時間に人を呼べば、明日には王宮中に噂が回る。
考えているうちに、殿下が身じろぎした。
顔が少しこちらに向いた。
私は、息を止めた。
燭台の残り火に照らされたその顔は、起きているときの半分も硬くなかった。眉間の皺がない。口元も緩んでいる。灰色の目が閉じているだけで、こんなに幼く見えるものかと思った。
二十二歳。
そうだ、この人はまだ二十二歳なのだ。
一度目の私は、この人を「完璧な王族」だと思っていた。二度目の私は「私を選ばない男」だと思っていた。どちらの記憶にも、机で力尽きて眠る二十二歳はいない。
右手が、まだペンを握ったままだった。
指の間から抜き取ってやろうかと思って、やめた。触れたら起きる。それに——触れる理由が、私にはない。
婚約者です、と言えばいいのかもしれない。三度目の。
でもその肩書きは、二度とも最後まで持っていられなかったものだ。私はそれを、自分の権利のように使うことができない。
「……間に合わ、」
殿下が、何か言った。
寝言だった。低く、かすれた声で、言葉になりきらない音。
「……ない、」
それきり、静かになった。
私は動けなかった。
間に合わない。
何に。
聞き返せるはずもない。眠っている人の口から零れた、意味も文脈もない音だ。誰かの名前ですらない。
なのに私は、その四文字を胸の底に落としてしまった。
——落とすな。拾うな。
自分に言い聞かせながら、私は立ち上がっていた。
肩に掛けていたショールを外して、殿下の背に掛けた。
やってしまってから、自分の手を見た。
何をしているのだろう、私は。
深入りしないと決めた。期待しないと決めた。観察だけだと決めた。決めたことを全部並べても、今この手がやったことの説明にはならない。
説明できないなら、逃げるしかない。
私は帳簿を机に置いて、足音を殺して扉に向かった。
廊下に出たところで、ユリウス卿と鉢合わせた。
「……エリナ嬢」
卿は私を見て、それから開いたままの扉の向こうを見た。眠っている主君と、その背に掛かった見慣れない布を。
私は、たぶん、ひどい顔をしていたと思う。
「あの、これは」
「三日ぶりです」
卿が言った。
「え」
「殿下がお休みになるのが。ここ三日、椅子に座ったまま夜を明かしていらっしゃいました」
眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。
「あなたが来られてから、少し眠るようになりました」
「……私は関係ないかと」
「そうかもしれません」
卿はあっさり認めた。それから、静かに扉を閉めた。
「ですが、あの方が誰かの前で眠るのを、私は初めて見ました」
言葉が出てこなかった。
「お送りいたします」
卿はそう言って、先に歩き出した。
私は自分の部屋に戻って、扉を閉めて、それからようやく気づいた。
ショールがない。
当たり前だ。掛けてきたのだから。
取りに戻れるわけがない。今から戻れば、眠っている人を起こすことになる。明日の朝、侍女が回収するだろう。そして誰かの目に触れる。婚約者のショールが王太子の背に掛かっていた、という事実が、私の意思とは無関係に人の口に乗る。
やってしまった。
私はベッドの端に座って、両手で顔を覆った。
そこにあったのは、後悔ではなかった。
もっと悪いものだった。
——取り返しに行けない。
その一言が、妙に正確に、今の私を言い当てている気がした。
ショールのことではなく。
まだ返してもらえるうちに引き返せばよかったものが、もう手の届かないところへ行ってしまった。そういう感覚だった。
三度目にして、私は初めて、自分から一歩踏み出してしまったらしい。
しかも眠っている相手に対して、こっそりと。
情けなさで、少し笑えた。
笑いながら、私は明日の朝のことを考えていた。
あの人はショールに気づくだろうか。気づいたら、何と言うだろうか。
——ほら。
もう、明日のことを考えている。




