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第六話「懐かしい味」

 紙の匂いというのは、三日も嗅いでいると鼻が慣れる。

 執務室の隅に運び込まれた木箱には、東部三領の過去五年分の記録が詰まっていた。作付け、収穫、出荷、納税。数字ばかりの紙が、腰の高さまで積まれている。

「エリナ嬢、これで六冊目です」

 側近のユリウス卿が新しい帳簿を運んできて、机に置いた。細身の眼鏡の青年で、殿下より二つ年上だという。

「ありがとうございます。……失礼ですが、卿」

「はい」

「私がここにいることを、皆さまは何と」

 聞いてしまってから、卑屈な質問だったと思った。

 でもユリウス卿は、少し笑っただけだった。

「『殿下がまた妙なことを始めた』と」

「それは、私のことですか」

「殿下のことです」

 眼鏡の奥で、目が細くなった。

「婚約者を執務に引き入れるなど、前例がありません。反対もありました。殿下は一度も譲りませんでしたが」

 手元の帳簿の、開こうとしていたページで指が止まった。

 反対があった。当然だ。伯爵令嬢が王太子の執務室に三日も出入りして、機密に近い記録を読んでいる。褒められた話ではない。

 なのに殿下は、譲らなかった。

 ——考えるな。

 私は帳簿を開いた。数字を見れば、余計なことは考えずに済む。

 二度分の記憶で、私はこう学んでいる。感情を鎮めたいときは、手を動かすのが一番だと。

 その日の午後には、行き詰まりがはっきりした。

「合っています」

 私は五冊目の帳簿を閉じて、そう言った。

「何がだ」

 向かいの机から、殿下が顔を上げる。

「全部です。リンドル伯爵領の申告、出荷記録、納税額。どこを突き合わせても矛盾がありません」

「作付け面積の話は」

「増えているのは事実ですが、書類上は開墾の記録があります。人手についても、隣領からの季節労働者を雇ったことになっています。契約書の写しまで揃っていました」

 殿下がペンを置いた。

「用意がいいな」

「……ええ」

 用意がよすぎる、と私も思った。

 思ったけれど、それを証拠として突きつけることはできない。「書類が完璧すぎるので怪しい」というのは、証明ではなく感想だ。

 私は知っている。この横流しは実在する。一年後に発覚して、東部の民が飢える。暴動寸前まで行く。

 知っているのに、証明できない。

 これが一番、こたえた。

 記憶があれば有利だと思っていた。地図を持って歩くようなものだと。でも地図があっても、道がなければ進めない。私が持っているのは「結末」だけで、そこに至る過程は誰も教えてくれない。

「エリナ」

「はい」

「顔が」

「……また怖い顔をしていますか」

「いや」

 殿下が少し考えるように黙った。

「悔しそうな顔だ」

 言い当てられて、私は帳簿の背表紙を撫でた。

「悔しいです」

 正直に言った。取り繕う気力が、少し落ちていた。

「私が見落としているだけかもしれません。でも、どこを見ればいいのかが分からない。……お役に立てず、申し訳ありません」

「三日で終わると思っていたのか」

「え」

「私は三か月かかると思っていた」

 あっさりと言われた。

「それは……ずいぶん気の長い話ですね」

「不正の調査など、大抵そんなものだ。書類は嘘をつかないが、嘘をつくために書類を作る者もいる。作った側が有能なら、時間がかかるのは当然だ」

 殿下は椅子の背にもたれた。窓の外は、もう暗くなり始めていた。

「君は、少しせっかちだな」

 心臓が、変な鳴り方をした。

 せっかち。そう見えるのだろうか。

 当たり前だ。私には期限がある。一年半後か、二年後か——どちらにせよ、この関係が終わるまでに片を付けなければ、私が知っていることは全部無駄になる。

 でもそんなこと、言えるはずがない。

「性分です」

 私はそう答えた。

 夜になって、リムが差し入れを持って現れた。

「お夜食です。エリナ様、三日連続でお昼を抜いていらっしゃるので」

「抜いていないわ」

「パン一切れは食事に数えません」

 籠の中には、包みが二つ入っていた。ひとつを殿下の机に置くとき、リムがやけに恭しく礼をしたのが視界の端に映った。

「殿下の分もあるの?」

「殿下も抜いていらっしゃると伺いましたので」

「誰に」

「ユリウス卿に」

 この侍女、いつの間に王宮に人脈を作っているのだろう。

 殿下は包みを開けて、中の焼き菓子を見て、少し目を見開いた。

「これは」

「セルバンテス家の台所で焼いたものです」リムが澄まして言った。「田舎風で、お口に合うかは分かりませんが」

 殿下がひとつ口に入れた。

 そして、黙った。

 私は少し身構えた。王族の口に合わなかったのだとしたら、リムの首が飛ぶ——ほどではないにしても、気まずい。

「……懐かしい味がする」

 殿下が、そう言った。

 部屋の空気が、一拍分止まった。

「懐かしい、ですか」

「ああ」

「殿下は、これを召し上がったことが」

「ないはずだ」

 殿下は自分の手元を見ていた。焼き菓子を持ったまま、少し眉を寄せて。

「ないはずなんだが」

 私は動けなかった。

 この菓子は、セルバンテス家の台所でしか焼かない。母が娘時代に習ったという、家伝でもなんでもない、ただの田舎の菓子だ。

 一度目の人生で、私はこれを一度だけ殿下に差し入れたことがある。婚約して半年ほど経った頃、緊張しながら渡して——「ありがとう」とだけ言われて、それきりだった。感想はもらえなかった。

 二度目では、渡さなかった。

 三度目の今、私は渡していない。リムが勝手に持ってきただけだ。

 殿下は「ないはずだ」と言った。

 嘘をついている顔ではなかった。むしろ、自分の言葉に自分で困っている顔だった。

「……お口に合いましたか」

 やっとの思いで、それだけ聞いた。

「合った」

 殿下が答えた。

「妙な話だが、初めて食べた気がしない」

 私は視線を落として、自分の分の包みを開けた。

 手が、少し震えていた。

 偶然。よくある味だ。似た菓子は他所にもある。人は初めてのものを懐かしいと感じることがある。デジャヴというやつだ。全部説明がつく。

 全部説明がつくのに、なぜ私はこんなに息が浅いのだろう。

 帰りの馬車で、リムが向かいから身を乗り出してきた。

「エリナ様。あの菓子、なぜお持ちしたと思います」

「あなたの気まぐれでしょう」

「違います」

 リムは真顔だった。

「一度目に殿下が召し上がったものだと、エリナ様が仰っていたので」

 私は、リムを見た。

「……試したの」

「はい」

「勝手なことを」

「叱ってくださって構いません」

 リムは膝の上で手を組んだ。

「でも、答えは出ました。殿下は覚えていらっしゃいます。少なくとも、舌が」

 馬車が石畳を跳ねた。

 私は窓の外を見た。夜の街が流れていく。三日前と同じ景色のはずなのに、何もかも違って見えた。

 食い違い、六つ目。

 いや——違う。

 これは食い違いではない。

 これは、証拠だ。


(第一章 終わり)

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