第五話「君の顔が浮かんだ」
執務室の扉の前で、私は三回、深呼吸をした。
落ち着け。手紙にあったのはただの実務の相談だ。東部の穀物のことなんて、王太子であれば把握していて当然。偶然が重なっただけ。
そう自分に言い聞かせて、扉を叩いた。
「エリナ・フォン・セルバンテスです」
「入れ」
中に入ると、殿下は机に向かっていた。書類の山に囲まれている。夜の面会のときとは違って、燭台ではなく窓からの日差しが部屋を満たしていた。明るい光の下で見る殿下は、少しだけ若く見える。
「座ってくれ」
促されて、机の前の椅子に腰を下ろす。殿下がペンを置いて、書類を一枚こちらに滑らせてきた。
「東部三領の、今期の作付け報告だ。目を通してもらえるか」
受け取って、視線を落とした。
見覚えのある数字が並んでいた。二度分の記憶の中で、私はこの紙を——正確には、この紙の一年後の結果を——知っている。
「……いかがでしょう、と伺うべきでしょうか」
「率直な感想でいい」
率直な感想。困った。
率直に言えば、この報告書には嘘がある。作付け面積の申告と、あとから出てくる収穫量が合わない。合わないのは不作のせいだと説明されるが、実際は収穫前から横流しの計画があったからだ。
でもそれを、今の私が知っているはずがない。
「……気になる点が、一つだけ」
慎重に、言葉を選んだ。
「リンドル伯爵領の作付け面積が、去年より一割ほど増えています。それ自体は良いことですが——増えた分の労働力は、どこから来たのでしょう」
殿下の眉が、わずかに動いた。
「続けて」
「東部は昨年、流行り病で人手が減っています。人が減ったのに畑が増えるのは、少し妙です。書類上だけ増やしているのでなければ」
言ってしまってから、少し言いすぎたかと思った。
でも殿下は、私を止めなかった。それどころか、身を乗り出した。
「なぜ、東部の人手不足を知っている」
心臓が跳ねた。
「……父の商会が、東部に取引先を持っておりますので」
嘘ではない。実際、セルバンテス家は東部と縁がある。一度目にこの話を知ったのも、元をたどれば父の帳簿からだった。
「そうか」
殿下は納得したように頷いた。あっさりしすぎているくらいに。
むしろ私の方が戸惑った。伯爵令嬢が領地経営の書類を読んで、申告の矛盾を指摘する。普通なら、生意気だと思われても仕方がない。少なくとも一度目の殿下なら、そう聞いていた。
「……殿下は、驚かれないのですね」
「何にだ」
「私が、こういうことを申し上げることに」
殿下は少しの間、私を見ていた。それから、書類の山の中から別の一枚を抜き出した。
「これも見てくれ」
「あの、殿下」
「君に見せるつもりで用意した。三日前から」
三日前。手紙が届いた日だ。
「なぜ、私に」
聞いてしまった。
聞くつもりはなかったのに、口が勝手に動いていた。深入りしない。期待しない。あの誓いは、たった四日で何度目の危機を迎えているのだろう。
殿下はペンを持ち上げて、指の中で一度、回した。
初めて見る仕草だった。二度分の記憶の中に、この動作はない。落ち着かないときの癖だ、と気づくのに少し時間がかかった。
この人が、落ち着かない。
「……分からない」
やがて、殿下が言った。
「分からない、とは」
「君に相談すべきだと思った。理由は説明できない」
私は何も言えなかった。
「妙な話だと思うだろう」殿下が続けた。「私もそう思う。だが、東部の報告書を読んでいて最初に浮かんだのが、君の顔だった。君なら気づくと。——なぜそう思ったのかは、自分でも分からない」
窓の外で、風が木を揺らす音がした。
この人は、いま何を言っているのだろう。
分からないのに、確信している。理由がないのに、私を選んだ。そんなことが、あるのだろうか。
——中途半端に知ってる、とか?
三日前のリムの言葉が、頭の中で鳴った。
「……買いかぶりです、殿下」
やっとの思いで、そう言った。
「私はただ、たまたま東部の事情を耳にしていただけで」
「そうかもしれない」
殿下はあっさり認めた。それから、少しだけ口角を上げた。
「だが、たまたまでも当たったのなら、価値は同じだ。——引き続き、意見を聞かせてほしい」
その言い方は、ずるいと思う。
逃げ道を全部塞いだうえで、こちらの逃げたい気持ちには気づいていないふりをする。いや、気づいていないのかもしれない。だとしたらもっと質が悪い。
「……承知いたしました」
私は書類を受け取った。
二枚目は、東部の物流に関する記録だった。どの領地からどこへ、どれだけの荷が動いたか。数字を追っていくうちに、私の指が一箇所で止まった。
中継地の欄。
モーア家の名が、あった。
「……殿下」
「どうした」
「この中継地の名義は」
「モーア侯爵家だ。東部と王都を結ぶ街道沿いに、いくつか倉庫を持っている」
声が出なかった。
モーア。セシリア・ラ・モーアの家。
一度目にも二度目にも、この名前を穀物の件で見た覚えはない。私が知っていたのはリンドル伯爵の横流しだけで、モーア家がどこに関わっていたかなんて、考えたこともなかった。
考える理由が、なかったから。
あの家は私にとって、婚約を壊した相手の家というだけの存在だった。それ以上を見ようとしたことが、二度とも、一度もなかった。
「モーア家がどうかしたか」
「いえ」
私は書類を膝の上に置いた。
「ただ——倉庫を持っている家は、荷の中身も把握できるのだろうかと思って」
「できるだろうな」
殿下が事もなげに言った。
「知っていて黙っていれば、共犯にもなる」
そう。そうだ。
あの夜会での、困ったような笑顔。値踏みでも敵意でもなかった、あの表情。
もし彼女が、何かを知っていたのだとしたら。知っていて、言えない立場にいたのだとしたら。
——いや。
私は思考を止めた。
これは同情ではないし、期待でもない。ただの情報の整理だ。整理の結果、たまたまそこに行き着いただけ。そういうことにしておく。
「エリナ」
顔を上げると、殿下がこちらを見ていた。
「はい」
「無理はしなくていい」
「無理など」
「していないなら、それでいい。ただ——」
殿下が言葉を切った。それから、ゆっくりと続けた。
「君が一人で何かを抱え込む顔を、私は知っている気がする」
膝の上の書類が、かさりと鳴った。私の手が動いたせいだ。
知っている気がする。
知っている、ではなく。
この人はさっきから、その言い方ばかりする。断定しない。でも否定もしない。輪郭のはっきりしない確信だけを、こちらに差し出してくる。
やめてほしい、と思った。
いっそ「全部知っている」と言われた方が楽だった。そうすれば怒れる。二度分の恨みをぶつけて、それで終わりにできる。
でもこの人は、そうしてくれない。
「……お気遣い、ありがとうございます」
私は笑顔を作って、頭を下げた。完璧なはずの笑顔だった。二度分の練習がある。
殿下はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、机の上でペンをもう一度、指の中で回した。
部屋を出て、廊下を歩きながら、私は気づいてしまった。
さっきの一時間、私は一度も、婚約破棄のことを考えていなかった。
書類のことと、東部のことと、モーア家のことと——それから、目の前の人のことだけを考えていた。
三度目にして初めての、一時間だった。
廊下の窓から差す光が、やけに眩しかった。




