第四話「食い違い」
夜会から三日が経った朝、私は自室の机に紙を広げていた。
「リム、扉に鍵をかけて」
「かけました。窓も確認済みです。……始めますか、作戦会議」
リムが向かいの椅子に座って、身を乗り出してくる。長い付き合いの侍女は、こういうとき妙に張り切る。
三度目が始まった日の夜——婚約の打診が屋敷に届いた、あの日の夜に、私はリムに全部話した。一度目のことも、二度目のことも、自分が記憶を持ったまま繰り返していることも。
信じてもらえるとは思っていなかった。頭がおかしくなったと泣かれる覚悟までしていた。
なのにリムは、話を最後まで聞いて、たっぷり十秒黙って、それからこう言ったのだ。
「道理で。エリナ様、五歳のときから妙に老成してると思ってました」
「それは元からよ」
「じゃあ三倍老成してるんですね、今」
そういう子だ。だから話せた。この秘密を一人で抱えたまま三度目をやり直すのは、たぶん、無理だった。
「まず、整理しましょう」
私はペンを取って、紙に線を引いた。
「一度目。殿下と婚約して、二年後に破棄された。理由は『愛する人ができた』。相手はセシリア・ラ・モーア」
「はい」
「二度目。同じ年に婚約して、一年半で破棄。理由は『君とは価値観が合わない』。破棄のあと、殿下の隣にいたのはやっぱりセシリア様」
「はい」
「つまり結末は同じ。過程が少し違うだけ。——ここまでが、私の知っている『歴史』」
紙の上に、二本の線が並んだ。どちらも同じ場所で途切れている。
我ながら、ずいぶん簡潔にまとめたものだと思う。この二本の線の中に、どれだけの夜があったか。眠れなかった夜、期待して裏切られた夜、何が悪かったのかを数えて過ごした夜。
全部、線一本に押し込んだ。そうしないと、整理なんてできないから。
「それで、三度目の方針です」
リムが真面目な顔になった。
「深入りしない。期待しない。適当にやって、静かに退場する。——でしたよね、当初は」
「当初は、じゃなくて。今もよ」
「本当ですかぁ」
「リム」
「だってエリナ様、この三日間で『また明日』って言葉を何回思い返しました?」
ペンが、止まった。
「……数えてないわ」
「数えてないのは回数が多すぎるからでは」
「作戦会議を続けます」
私は咳払いをして、新しい紙を引き寄せた。リムはにやにやしている。この侍女、忠誠心と遠慮のなさが同じ器に入っているのが問題だ。
「三度目で確認できた『歴史との食い違い』を書き出すわ。……ここからが本題」
私はひとつずつ、書いていった。書きながら、口にも出した。声にすると、少しは冷静に見られる気がしたから。
「一つ。婚約の儀で、殿下が『ずっと探していた』と言った。一度目にも二度目にも、なかった」
「ありましたね……女官たちがひと月は騒ぎそうな台詞」
「二つ。同じ日に『この婚約を何度目だと思っている』と聞かれた」
書いた文字を、自分でしばらく見つめた。
これが、一番大きい。ほかの食い違いは全部「殿下の気まぐれ」で説明がつく。でもこれだけは、つかない。何度目、なんて言葉は、繰り返しを知らない人間の口からは出てこない。
「エリナ様は、殿下も覚えてると思いますか。その、繰り返しを」
「……分からない」
正直に答えた。
「覚えているなら、どうして黙っているの。私みたいに全部覚えているなら、あんな遠回しな聞き方はしないはず。でも、何も知らないなら、あの言葉は出てこない」
「中途半端に知ってる、とか?」
リムが何気なく言った。
中途半端に知っている。
その言葉が、妙に胸に引っかかった。知っているのに、知らない。確信があるのに、説明できない。——そんな状態が、ありえるのだろうか。
ありえるとしたら、あの儀式の日の眼も、疲れたような笑顔も、少しだけ辻褄が合う気がして。
私は首を振った。やめよう。これ以上は推測ではなく、願望になる。
「三つ目。夜会で殿下は、セシリア様のところへ行かなかった」
「エリナ様のところへ一直線でしたねえ」
「四つ目。セシリア様の様子が、記憶と違う。……あの方、私を見て笑ったの。困ったような顔で」
「困ったような、ですか」
「値踏みでも敵意でもなくて。なんというか——謝っているみたいな」
自分で言って、自分で否定したくなった。考えすぎだ。たった一度、目が合っただけ。でもあの笑顔は、一度目と二度目のどの記憶とも重ならなかった。私は二度分、あの人の表情を見てきたのに。
「……食い違いが、多すぎるのよ」
紙の上には、四つの項目が並んでいた。
「一つや二つなら、偶然で済ませられる。でも四つ。しかも全部、婚約が始まってからたった三日で」
「それって、つまり」
リムが少し声を落とした。
「三度目は、同じ結末にならないかもしれない——ってことですか?」
部屋が、静かになった。
言われた言葉を、私は頭の中でゆっくり眺めた。同じ結末にならないかもしれない。三度目は違うかもしれない。今度こそ——
そこまで考えて、胸の奥がふっと温かくなりかけたのが、自分で分かった。
分かったから、蓋をした。
「……その考え方が、一番危ないの」
「エリナ様」
「一度目もね、途中までは『うまくいくかもしれない』と思っていたのよ。二度目は学習して期待を減らしたつもりで、それでも最後は同じだけ痛かった。期待の量と、痛みの量は、ちゃんと比例するの。二回分の実験結果よ」
リムは何か言いたそうな顔をした。でも言わなかった。代わりに、小さくため息をついた。
「エリナ様のそういうところ、賢いなあと思うのと同じくらい、切ないです」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「半分しか褒めてません」
知っている。私だって、自分のこの理屈が半分は鎧で、半分は強がりだと知っている。食い違いを四つも書き出しておいて、「でも期待はしない」なんて、我ながらよく言えたものだ。期待していない人間は、そもそもこんな表を作らない。
作ってしまう時点で、答えは出ているようなものなのに。
——それでも書かずにいられないのだから、本当に、つくづく諦めが悪い。
「方針を言うわ」
私はペンを置いて、リムを見た。
「期待はしない。でも、観察はする。食い違いの理由が分かるまでは、迂闊に心を動かさない。……いい? これは撤退のための観察よ。前に進むためじゃなく」
「はいはい。撤退のための観察、ですね」
リムの返事は、あからさまに信じていない声だった。聞かなかったことにする。
「それと、もう一つ。記憶の使い道」
私は三枚目の紙を引き寄せた。ここからは、感傷の入らない話だ。だから少しだけ、息がしやすくなる。
「恋だの婚約だのと関係なく、この記憶には実用的な価値があるの。この先一年に起きることを、私は大体知っている」
「おお。予言者エリナ様」
「予言じゃなくて記憶。……たとえば、そうね。二か月後の収穫期に、東部の穀物の値が急に跳ね上がる。一度目も二度目も起きたわ。表向きは不作のせいにされたけど、あとから、リンドル伯爵が備蓄を横流ししていたことが発覚した」
「うわ。悪いやつだ」
「発覚したのは翌年よ。被害が出て、暴動寸前までいって、それからやっと。……でも私は、今の時点で知っている」
リムが、ぱちぱちと瞬きをした。
「それ、先に手を打てるってことですか」
「打てる。ただし、問題は打ち方よ。『知っているはずのないこと』を知っている令嬢が、どうやって不自然にならずに動くか」
これが、三度目の記憶の使い方だと思っている。恋の結末を先読みして傷を避けるためじゃなく——もっと実のあることのために使う。誰かの損を、減らすために。
そのほうがずっと、健全だ。少なくとも、夜中に「また明日」の四文字を反芻しているよりは。
「それで、どう動くんですか?」
「まだ考え中。ただ、穀物の流通に関わる話となると、いずれ王宮の耳にも入れる必要が——」
言いかけたところで、扉が叩かれた。
リムと顔を見合わせる。紙を裏返してから、リムが扉を開けた。廊下に立っていたのは王宮の侍従で、恭しく一礼して、銀の盆に載った封書を差し出した。
王太子の封蝋。
受け取って開くと、短い文面が目に飛び込んできた。
『明日の午後、執務室に来てほしい。東部の穀物の件で、君の意見が聞きたい』
——東部の、穀物の件で。
私は文面を、三回読み直した。
今、この瞬間まで、私はその話を誰にもしていない。この部屋の外では一度も口にしていない。一度目にも二度目にも、殿下がこの時期にこの問題に気づいていた記憶は、ない。
なのに。
「エリナ様? 顔が白いですけど、何て書いてあったんですか」
リムの声が、遠くに聞こえた。
偶然。偶然かもしれない。殿下は王太子なのだから、領地の穀物事情に目を配っていてもおかしくない。そうだ、それだけのことだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は今朝書いたばかりの紙を、裏返したまま指先で押さえた。
食い違い、五つ目。
書き足す手が、少しだけ震えていた。




