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第三話「彼女の登場」

 社交界というのは、記憶が役に立つ場所だ。

 誰がどの派閥にいて、誰と誰が表向き仲良くして裏では牽制し合っているか。どの令嬢が今季売れ残りそうで、どの令息が跡目争いの渦中にいるか。二度分の記憶があれば、地図を持って歩くようなものだった。

 だから今日の夜会も、怖くない。

 怖くない、はずだった。

 セシリア・ラ・モーアが会場に入ってくるまでは。

 私は給仕が運んでくるグラスを受け取りながら、視界の端でその瞬間を捉えた。扉が開いて、白いドレスの裾が揺れて、黄金色の髪が燭台の光を受ける。会場の空気が、ほんのわずかに変わった。

 来た。

 胸の奥で、何かが固くなった。

 一度目の人生で、セシリアと殿下が初めて出会ったのは、この夜会だった。二度目は、出会いこそ春の茶会と少し早かったけれど、二人の距離が急速に縮まり始めたのは、やはりこの夜会から。

 つまり、どちらの記憶でも——今夜が「始まりの夜」だ。

 分かっていた。分かっていて、来た。逃げられる場ではないのだから、せめて心の準備だけはして。

「エリナ様」

 隣に立っていたリムが、小声で囁いた。

「見ています? あの方」

「見ていないわ」

「嘘おっしゃい。三秒に一回視線が行ってます」

 図星だった。

 私はグラスを口に運んで、視線を正面に戻した。落ち着け。今夜何が起きるかは、知っている。知っているなら、見届けるだけだ。心の準備なら、二度分ある。

 そう考えていたそばから、会場の奥の扉が開いた。

 アルノルド殿下が入ってきた。

 ——記憶のとおりに。

 心の準備は、二度分あっても足りなかったらしい。

「エリナ様、顔色が」

「大丈夫」

「全然大丈夫じゃないお顔をしています」

「大丈夫だって言ってるでしょう」

 声が少し尖った。リムは何も言わなかった。長い付き合いだから、私の「大丈夫」がどういう意味かを知っている。

 私は自然な動作を装って、会場を流し見た。

 殿下は側近たちと挨拶を交わしながら、ゆっくりと会場を進んでいた。セシリアは逆側の壁際で、令嬢たちのグループに囲まれている。まだ、気づいていない。

 一度目の記憶では、ここで目が合った。二人の視線が重なって、殿下が先に近づいていった。セシリアが少し驚いたような顔をして、でもすぐに微笑んで——

 私は記憶を、そこで止めた。

 見なくていいものを、わざわざ思い出すことはない。これから嫌でも、目の前で見ることになるのだから。

 そう決めたのに、次の瞬間、視界に動きがあった。

 殿下が、動いた。

 まっすぐに、会場を横切るように。どこへ——と目で追って、私は息を呑んだ。

 殿下が向かっていたのは、セシリアのいる方向ではなかった。

 私のいる、この場所だった。

「エリナ」

 グラスを持ったまま固まっている私の前に、殿下が立った。周囲の視線が集まるのが分かった。

「少し、いいか」

 返事をしようとして、声が出なかった。一度目も二度目も、夜会でこんなふうに真っ先に来られたことはなかった。いつも殿下は義務的な挨拶をひと通り終えてから、形だけ私のそばに立ち寄った。

「……もちろんです、殿下」

 なんとか答えた。

 殿下がさりげない動作で私の隣に立った。会話をしているように見せながら、実際はほとんど正面を向いている。

「今夜の顔ぶれは把握しているか」

「大体は」

「セシリア・ラ・モーアが来ている」

 さらりと言われた。私は表情を動かさないように注意しながら、「ええ」とだけ答えた。

「知っているのか」

「お顔は存じております」

「それだけか」

 その問いの意味が、少し分からなかった。

「……殿下は、ご存知なんですか。彼女のことを」

「いや」

 殿下が短く答えた。そのとき、一瞬だけ——殿下の視線がセシリアの方へ流れて、微かに眉が寄った。初対面のはずの相手に、理由の分からない引っかかりを覚えているような、そんな表情。

 瞬きの間に、それは消えた。

「知らない。ただ」

 そこで少し、間があった。

「君が彼女を見た顔が、気になった」

 心臓が、一拍分おかしな動き方をした。

 見ていないと思っていた。気づかれないくらい、さりげなく視線を向けていたつもりだった。なのに殿下は、会場を移動しながら、私の表情を見ていた。

「……そんな顔をしていましたか」

「していた」

「どんな顔ですか」

「怖いものを見た顔だ」

 私はグラスを両手で包んだ。指先が、少し冷たかった。

 怖い。怖いか、そうか。自分では怖いとは思っていなかった。警戒、とか、緊張、とか、そういう言葉を使っていた。でも殿下から見たら怖い顔に見えたのか。

 それはつまり——私はそれだけ、この出会いを恐れていたということだ。

 二度分の記憶があって、結末を知っていて、それでもまだ、怖い。

 滑稽だと思う。本当に。

「大丈夫ですよ」

 私は言った。笑顔を作りながら。

「ただの、知らない方ですから」

 殿下はしばらく私を見ていた。何かを言いたそうな間があった。でも結局、

「そうか」

 とだけ言って、視線を前に戻した。

 それからしばらく、二人並んで立っていた。会話はほとんどなかった。でも殿下は、行かなかった。他の令嬢たちの方へも、側近たちの元へも戻らず、私の隣にいた。

 会場の向こうで、セシリアがこちらを見た。

 目が合った。

 セシリアが、微笑んだ。

 私は反射的に微笑み返して、それからすぐに視線を切った。

 変だ、と思った。

 一度目も二度目も、セシリアが私に向ける視線は——もっと別の種類のものだった。敵意というほどではないが、値踏みするような、あるいは気にしていないふりをしながら意識しているような、そういう目。

 でも今の笑顔は違った。もっと穏やかで、それから何か——困っているような。

 気のせいかもしれない。

 気のせいだと思おうとして、でもその笑顔がどうしても頭から離れなかった。

 夜会が終わって、馬車に乗り込んだ。

 リムが向かいに座って、お茶の入った水筒を差し出してきた。受け取って、一口飲む。温かかった。

「エリナ様」

「なに」

「殿下、ずっと隣にいましたね」

「社交上の立ち位置として、自然でしょう」

「……そうですね」

 リムは何かを我慢したような顔をして、窓の外を見た。

 私も窓の外を見た。夜の街が、馬車の速度で流れていく。

 殿下がずっと隣にいた。セシリアの方へ行かなかった。始まりの夜のはずだったのに、何も始まらなかった。それだけのことだ。偶然かもしれない。今夜だけかもしれない。一度目も二度目も、最初からすぐに別れを告げられたわけではなかった。

 分かっている。全部分かっている。

 なのに、馬車の中で一人、さっきの夜会を思い返している自分がいる。殿下が真っ先に歩いてきた瞬間を。隣に立ち続けていた時間を。

 やっている、またやっている。

 私は水筒を両手で持ったまま、小さく息をついた。

 三度繰り返して、学んだことは色々ある。罠の躱し方も、笑顔の作り方も、傷の深め方も——そして、自分がどれだけ諦めが悪いかということも。

 それくらいは、もう分かっていた。

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