第二話「夜の執務室」
執務室の扉は、思ったより重かった。
侍従が静かに押し開けると、暖色の燭台の光が廊下まで漏れ出してくる。室内には人の気配がなかった。いや、正確には——一人だけいた。
アルノルド殿下が、窓の外を向いて立っていた。
私は深呼吸を一つして、足を踏み入れる。
「失礼いたします、殿下」
「……来たか」
殿下はすぐには振り返らず、窓枠に手をついたまま言った。いつもより少し硬いその声は、どこか強張っているようにも聞こえた。
この人はいつも、こうだっただろうか。一度目も、二度目も。隙がない、と思う。どんな場面でも、どんな状況でも、何かに動揺した姿を見たことがない。完璧な王族の仮面を被ったまま生きているような男だ。
——でも今日の婚約の儀式で、あの目をしていた。
まるでやっと見つけたとでも言うように。
私は心の中でその記憶を、そっと蓋のある箱の中に押し込んだ。考えない。深読みしない。期待しない。それが三度目の、私のルールだ。
蓋のある箱に入れておかないと危ないと分かっている時点で、そのルールがどれだけ頼りないかも、私は知っている。
「お呼びとのことでしたが」
部屋の中央あたりで立ったまま声をかけると、殿下はようやく振り返った。燭台の光の中で、銀髪が揺れる。いつもの冷徹な表情のようでいて、その灰色の瞳はどこか所在なげに見えた。
「……座れ」
「は、」
「立ったままでは疲れるだろう。掛けてくれと言っているんだ」
言葉尻こそ硬かったが、そこには不器用な気遣いが滲んでいた。促されるまま、応接用の椅子に腰を下ろした。殿下はすぐに向かいには座らず、部屋の中をゆっくりと歩き始める。まるで必死に、何か考えを整理するように。
私はその様子を、警戒しながら観察した。
一度目の殿下は、こういう人ではなかった。二人きりになるとすぐに用件を切り上げ、いつも他の場所へ向かっていた。私との時間を最小限にしようとしていた。それが伝わるから、私も傷ついた。
でも今夜の殿下は——明らかに、違う。
「エリナ」
不意に名前を呼ばれて、背筋が伸びた。
「はい」
「君は、怖くないのか」
予想外の問いだった。
「……何がでしょうか」
「私のことだ」
殿下が足を止めて、こちらを見た。真っすぐな、灰色の瞳。燭台の光を受けて、その目がわずかに揺れているように見えた。
「王太子の婚約者など、なりたい者ばかりではない。政治の道具にされると分かっていて、笑顔で儀式に臨める令嬢がどれほどいるか」
「…………」
「君は今日、一度も表情が崩れなかった」
それは、練習の成果だ。二度分の。
でもそんなことは言えないから、私は笑顔を作った。三度分の練習が入った、完璧な令嬢の笑顔を。
「光栄なお話をいただきましたので。緊張はいたしましたが」
「嘘だ」
笑顔が、僅かに固まった。
「殿下」
「緊張していなかった、という意味ではない」殿下の声は静かだった。責める色もない。ただ、妙に確信めいた響きがあった。「君は——慣れていた。あの場に」
心臓が、跳ねた。
気づかれた? そんなはずはない。私の演技は完璧なはずだ。一度目も二度目も、誰にも「違和感がある」とは言われなかった。
「おかしなことをおっしゃいます。初めての儀式に慣れているはずがないではないですか」
「そうだな」
殿下はあっさりと引いた。でもその顔に、納得した様子はなかった。
「……失礼ながら、殿下」私は話題を変えようと口を開いた。「今夜お呼びの理由を、伺っても? 婚約の儀を終えたばかりで、こうして呼び出されるとは思っておりませんでしたので」
「ああ」
殿下がようやく椅子を引いて、正面に座った。向かい合うと、改めてその目の力を感じる。どこか、剥き出しの、余裕のない目。
「今後のことを話したかった」
「今後、とは」
「婚約期間中の立ち回りについてだ。君には表向き、王太子妃候補として動いてもらうことになる。社交の場でのこと、他家との折衝、そういった実務的な話を今夜のうちに共有しておきたかった」
それは、まあ、分かる。実務的な話なら呼ばれても不思議はない。
でも。
「それだけでしょうか」
口から出た言葉に、私自身が少し驚いた。
殿下も、わずかに目を細めた。
「何か、他に聞きたいことがあるか」
「……いいえ」
ある。聞きたいことなら山ほどある。「ずっと探していた」とはどういう意味だったのか。なぜ婚約初日からそんな目で見るのか。三度目の今回、何かが違うのは気のせいなのか——。
でも聞けない。聞いてはいけない。
期待するから、傷つくのだ。
……本当は、違う。
聞けないのではない。聞いて、欲しい答えが返ってこなかったときに、自分がどうなるかを知っているだけだ。二度、見てきたから。
「では、実務的なお話を伺いましょう」
私が笑顔で言うと、殿下は一瞬だけ——本当に一瞬だけ——何か言いたそうな顔をした。
でもすぐに、いつもの無表情に戻った。
「分かった。まず来月の茶会についてだが——」
話は続いた。一時間ほど、実務的な内容だけが。
私はメモを取りながら、殿下の声を聞いていた。低くて、静かで、よく通る声。この声も、知っている。一度目から知っている。
なのに三度目の今夜は、どこか違う響きがあるような気がして——
やめろ、エリナ。
私は心の中で自分を叱った。
気のせいだ。違わない。どうせ同じだ。
扉を出るとき、「また明日」と殿下が言った。
一度目も二度目も、言われたことのない言葉だった。なんでもない言葉のはずなのに、どうして私はそれを、まるで大切なものみたいに胸に仕舞い込もうとしているのだろう。
私は振り返らずに「おやすみなさいませ、殿下」と答えて、廊下を歩いた。
歩きながら、さっきの言葉を反芻した。
また明日。
なんでもない言葉だ。婚約者なのだから、また明日顔を合わせるのは当たり前だ。
なのに。
王宮に与えられた自室に戻って扉を閉めた瞬間、待ち構えていたリムが飛びついてきた。
「エリナ様! どうでした、どんなお話を!?」
「実務的な話よ」
「え、それだけですか」
「それだけ」
「殿下のご様子は!? 今日の婚約の儀、なんか様子が違ったって女官たちがざわついてましたよ! エリナ様に、何か言いましたか?」
私は少し考えてから、答えた。
「……また明日、って」
「え?」
「帰りに。また明日、って言われた」
リムがぽかんとした顔をして、それから何か言いたそうに口を開いて、また閉じた。
「……それって」
「気のせいよ」
「でも」
「気のせいだって言ったでしょう」
声が、思ったより強く出た。
リムが黙る。私も黙った。
……ほら。
本当に気のせいだと思っているなら、こんな声は出ない。
私はリムに背を向けて、窓の方へ歩いた。夜の庭が見える。風が木の葉を揺らしている。
どうせ同じだ、と思いながら。
三度繰り返して、諦め方だけは上手くなったつもりでいた。
上手くなっていたのは、諦めたふりの方だった。
——また明日。
その四文字が、今夜もずっと、耳の奥に残っていた。




