【おまけ】*番目の子供
これは、アリアが生まれる前のお話だ。最初の話。彼女の物語の始まりであり、『彼女』の人生の忘れ難きひとかけら。
「姫様、小姫様でございます。奥様と同じお色ですよ」
そう言って婆やが渡してくれた、おくるみに包まれた赤子の重さを、今でも覚えている。
「―――奥様。残念ながら……あの赤子は『聖魔法拒否症』です。なんとも惜しい。魔力量も申し分なく、黒魔法適性すらある。病さえなければ、御当主にもなりうる資質を持っているというのに、あのように珍しい病を患うとは。おお、軍神さま。どうか哀れな赤子にご加護を」
産後の診断のために赤子を渡した神官は、手に何も抱えずに帰って来た。
嫌な予感が胸を走った。息が浅くなる。重々しい沈黙の後、神官が話す診断結果は、最悪のものだった。
―――ああ、あの子は、あの小さくて愛おしい、私の可愛い赤子は、もう、私の子でなくなってしまった。貴族の子として、神殿に認めてもらえなかった。生まれたことすら、記録に残らない。なんてこと。
白くなるほど両手を握りしめて、神官に尋ねた。
「も、もう一度だけ、あの子に会わせては」
「なりません」
最後まで言い切る前に、侍女長に遮られた。長年夫の家に仕える忠実なる家臣に。
「……会えば、手放せなくなります。本来ならば、出産後に目通りさせることもなりませんでした。これまで奥方様の側仕えが勝手をするのを許してまいりましたが、次回からは、神官さまの認定が下りてから、お会い頂く形にいたします」
ああ、だから婆やが部屋から出されたのか。手から力が抜けるのが分かった。
「先代の大奥様は、五歳の討伐披露目が無事済むまでお会いにもなりませんでした。心身のご負担を軽くするためです。……情が移れば、お辛くなるばかりでございましょう」
そこで初めて、それまで能面のような表情であった侍女長の声に、揺らぎが生まれた。それが、どういう感情なのかは分からなかった。だが、分かった。この女性もまた、魔獣戦線を維持する貴族家の使用人として、感情を殺してきた、ただの人間なのだと。削ぎ落したはずの感情に、胸を搔きむしられる―――我ら貴族が庇護すべき、愛しい民草だ。
「……分かりました。配慮、有難う存じます。……あの赤子はどうなるのかしら」
それでも聞かずにはおれない私に、彼女は答えた。間髪入れず、慣れた口上を述べるように。これまでこの貴族家でいくども繰り返されたのだとわかる、滑らかさで。
「信のおける平民夫婦に実の子として養育させます。一生生活に困らぬだけの職と金銭を与え、魔獣被害の少ない領地に住まわせることになっております」
「そう、それは……よかったわ」
全然よくなかった。何一つよくなかった。だが、私にはそれ以外の言葉が許されなかった。ここで喚いたところで、誰も悪くないのだから。
侍女長と神官は悪くない。彼らは職務を全うしただけだ。婆やは悪くない。私が会いたいと言ったからなのだから。赤子は悪くない。悪いはずがない。私だって―――いったい私が、何をしたというのだ。
白い寝具に、赤い血がポタリと落ちた。嚙み過ぎた唇から血が伝ったらしい。俯いたまま、その赤を見る。ああ、憎い。数多の同胞が、この赤を流して死んでいった。そして今も、死地と知って魔獣戦線に身を投じ、軍神の御許に召されている。
魔獣が、憎い。
奴らを倒せぬ子から、人類生存圏の存続に貢献できぬ弱者から貴族の資格を奪う、魔獣が憎くてたまらない。
私に、貴族家の妻に、我が子を捨てさせる、我らが怨敵。
―――ああ、神よ。軍神よ。我が子にどうか、偉大なるご加護を! 罪なき赤子に、魔獣と戦えぬ、それだけで放逐される、あの、小さな手をもつ、愛おしい命に、とびっきりの加護を下さいませ。
強く瞑った目から、ポタポタと落ちていく熱い雫を両手で抑えて、神に祈った。
――――私のこれからの人生全てを、魔獣討伐に捧げます。軍神の信徒に相応しい武功をご覧に入れましょう。だから、どうか、どうか、寛大なる御慈悲を、あの子に。
そう祈った夜を、私は今でも覚えている。あの小さな掌と軽くて暖かな重みと共に。
***
帝都本邸には、片隅に小さな墓がある。夫が当主になってすぐ、彼に願って作らせた無名墓だ。色とりどりの花が墓石を囲む、その小さな花園に、デルフィニウムの花束を供えた。あの子の髪と同じ色の花を。
―――結局あの子は、ベビーブルーの瞳が色変わりする前に、軍神の御許に召されてしまった。
侍女長が、大奥様には私がお教えしたことは内密に、と前置きして伝えたのは、哀れな赤子の末路だった。
『預けた平民夫婦が移住するための旅路のさなかに魔獣の大量発生に巻き込まれました。赤子が生き残れる戦況ではなく、夫婦からの連絡が途絶えたタイミングから見て、彼ら共々、あの赤子もおそらくは……』
教えてくれてありがとう、と伝えた声は、もはや震えていなかった。そうか、としか思わなかった。
―――やはり世界は、魔獣は、私から奪っていくのだ。
―――いいだろう。
―――貴様ら魔獣を駆逐することこそ、我ら帝国貴族の誉。
―――この身の最後のひとかけらまで魔獣戦線に殉じる、その理由がまた一つ増えた。それだけだ。
初夏の風に揺れる青灰の花弁を撫でて、私は立ち上がった。今日、魔獣戦線から本邸に次女が帰ってくる。何か報告があるらしい。夫と長男も同席するそうだが、いったいどんな話なのだろうか。
***
次の辺境伯夫人たるリオンさんに、あの墓の話をした。そして、貴族の奥方として避けられぬ現実を。彼女は大いに動揺し、何かを言おうとしては口を閉ざした。気持ちは痛いほどわかる。我が子を諦めねばならぬ痛みは、私自身、身に染みて理解していた。それでも、帝国貴族として避けて通れぬ道なのだ、と説き伏せた翌日、何故か、今いる辺境伯領にあるリオンさんの居室を改築したいと言われた。
彼女が、以前から親交があり信をおく人物だと紹介した建築家は、名をアリアと名乗った。帝都本邸の別邸建築の担当者だったらしい。生憎私は辺境伯領に入れ違いで戻っており、別邸建築時には、会うことができなかった。
青灰色の髪と瞳を持つ、背の高い、体格のしっかりとした、大きく育った女性だった。きっと、もう、私が抱き上げることはできない。
そして、私は初めて知った。
―――ああ、この子の瞳は、こんな色だったのか。
髪色と同じで、私と同じ瞳の色だった。
だからかもしれないし、そうではないかもしれない。だが、事実として、彼女は≪豪運のアリア≫だ。




