闇夜の灯台
また、嫌な夢を見た。夢の中で市松が俺を振った回数は、もう五回は超えている。悩み過ぎだな、俺。
目が覚めると、携帯電話にメールが届いていた。駿河だ。
駿河は、相変わらずたくさんメールをしてくる。返信が早い。どうやって打てばそんな早く返事が書けるのだ。もともとテンプレートでも用意して……そんなわけないか。
今日は土曜日か。訓練校は休みだった。
『どこか行きませんか?』
駿河のメールにはそう書かれていた。そう言えば、駿河は明後日から就職だったな。
一時一五分。俺は駿河との待ち合わせのため、ハローメイツの近くにある喫茶店に入っていた。
「お待たせ」
聞き慣れた声が聞こえたので視線を移すと、駿河だった。約束の時間を一五分も過ぎていることを悪びれる様子もなく、笑顔を輝かせている。駿河は以前と違う感じがする。何がどう変わったかと、具体的に浮かんでくるわけじゃない。たぶん二人の距離が変わったせいだろう。
「行こうか」
それは、一緒に歩くときの距離でもよく分かる。常に腕が当たるような距離ではあるのだが、それ以上引っ付くわけでもなく、離れるわけでもない。恋人かと勘違いしてしまいそうな距離ではあるが、確約も無ければ、体を絡めた関係でもなかった。
そう言えば、昼間にこうして駿河と出かけるのは初めてだったな。俺達は、街中をふらついたり、ウィンドウショッピングを楽しんだり、この街で遊べる色々なことを楽しんだ。
話す割合は、七割が駿河で俺が残り三割。駿河のお陰で楽しい時間が過ぎていく。
だが、時々、目線を変えて埃っぽい街を見ていると、ふと、市松のことを思い出してしまっていた。心の奥が笑っていない自分に気がつく。どこか浮ついたような感覚がずっと残っている。そう思ったとき、横で笑う駿河の幸せそうな顔が、苦痛に感じるようになっていた。
それは、夜になってはっきりと色が濃くなっていた。俺達はすっかり暗くなった街で夕食をとるため、お洒落な居酒屋に入った。程よい照明と気の利いた雰囲気で、和と洋を上手く組み合わせているようにも見える。食べ物の味がどうこうよりも、見た目がいちいちお洒落だ。食べるのを少し躊躇ってしまう。
駿河は夜になっても元気だ。よく喋る。だが、昼間の話とは言葉の色が違う。それは、良い方に向かえば良かったのだろうが、残念ながらそうならない場合もある。
「そういえば、あの二人ってどうなったのかな」
あの二人。市松と熊田のことか。駿河は、このお絞り暖かいね、と同じ口調でサラッとそう言った。何でそんな話をし出したのかは分からない。別に会話のネタが切れたわけでは無いことくらいは分かるが、今は出来るだけ市松の話はしたくなかった。ただでさえ、ふとしたことで考えてしまうというのに、あの二人の話なんてしてしまったら、頭の中が市松でいっぱいになってしまいそうだ。自己防衛的だけでなく、駿河と一緒に居るのに市松のことを考えてしまうなんて、駿河に悪すぎる。
適当に流せば済むだろう、そう思ったが遅かった。頭の奥で、市松の鼻を通ったような声が聞こえ、気味の悪い笑顔が目の奥に浮かんでくる。完全に市松のことを考えてしまっていた。
告白して以来、俺は市松を避けていた。厳密に言えば早く忘れたくて逃げていただけなのだが、よくよく思い出すと、市松はクラスの中で一人きりだった。誰と話す訳でもなく、チャットも参加するわけでもない。
あいつ、一人で寂しさに耐えていたのかもしれない。今頃何をしているのだろう……。いや、駄目だ。今は考えないようにしないと。
「まぁ、いいんじゃないかな。それよりさ、これ、美味しいな」
「高井さんって、市松さんの話しをすると、すぐに話しを反らすよね」
そうでもない、と言いたいが、駿河を誤魔化すのは容易ではない。
「いやいや、折角、駿河とデートしてるんだから、他の話しをしたいだけだよ」
「……高井さんの弱点見つけた」
駿河は笑いながらそう言って、目の前にある料理を食べていた。
「――勘弁してくれよ」
俺も、その笑いに釣られるように軽く微笑んだ。
「ねぇ、あの二人が抱き合っていたことは知ってるの?」
何故だ。何故、駿河はそのことを知っているんだ。情報源は熊田本人なのか。というより、何でこうも強制的にあの二人の話を続けるんだ。俺に対しての制裁か何かなのか。駿河を怒らせるようなことしたかな……。
「いいや、知らない。聞いたことも無い」
実は見て動揺しました、なんて言えるわけがない。駿河は俺を試しているのか?
「自分から『抱きしめて』って言うなんて、市松さんも大胆よね」
あの日の記憶が頭を巡る。いや、正確には巡らされている。俺は、全く気にしていないぞ、というアピールをするために、目の前にある唐揚げを口に送り込んではいるのだが、味の無くなったガムを噛んでいるようだった。
あの市松が『抱きしめて』と頼んだなんて……。安らかに眠っている墓を掘り返され、無理矢理叩き起こされた気分だ。今の俺には耐えられる内容ではない。やばい、何も言えない。
「――やっぱり、市松さんが好きなんだ」
駿河の言い方で、眉毛を読まれている気がした。図星だな。空気は当然のように悪い。
「…………」
駿河は椅子にもたれかかり、口を閉ざしたまま微笑んでいる。
このほほ笑み、何も気にしてないようにも見えるし、怒りを隠しているようにも見える。素直に話したほうが良いのだろうか。いや、余計な刺激を与えない方が良いような気がする。触らぬ神に祟り無し……だな。
「もう関係ないよ。親心? みたいなものだし」
「あの娘は、自分を好きだと言ってくれる人を側に置いておきたいだけよ」
記憶を辿った。確かに駿河の言うとおりかも知れない。反論が出来なかった。俺は無意識に膝頭を掴んでいた。
駿河は恐らく、市松なんてやめておけ、そう言いたいのだろう。出来ることなら俺もそうしたい。だが、何故か考えてしまう。俺の意思とは関係なく。
「そうかも知れないね。それでも、彼女が喜んでくれるならと思った……」
一瞬、言ってしまった、という後悔が胸をよぎったが、駿河は表情を崩さず、軽く肩をすくめるような仕草をしただけだった。
二つに重なった何かが混ざり合うこと無く少しずつ剥がれていく。それが分かった。
沈黙、そしてまた沈黙。駿河の沈黙記録がどんどん更新されていく。注文したビールと酎ハイが届いても、まだその沈黙は続いた。
「……帰ろうか」
俺がそう言うと、駿河は返事をすること無く荷物を取り、グレーの上着に腕を通した。
俺達は言葉をかわすこと無く店を出た。それは、互いの分かれ道がくるまでそうだった。
「じゃ、ここで」
「また、すぐ会いましょうね」
そう言った駿河の目は、残念ながら笑みが無かった。
「そうだね」
表情には出していないが、きっと怒っているのだろう。もしかすると、何度も市松のことを思い出していたことを、駿河は気づいていたのかもしれない。そりゃ、怒って当然か。
俺はほんと、ダメな奴だ。痛切に思ったのは、離れて行く駿河の背を見たときだった。
駿河と共に時間を過ごすのなら、市松への想いを全て消さなくてはならないのかも知れない。果たして、今の俺にそれが出来るとは思えないが。
家に帰っても、駿河の言葉が頭から離れなかった。
「やっぱり、市松さんが好きなんですね」
そう、分かっている。自分のことだから嫌でも分かる。ずっと忘れようと努力しているつもりだ。だが、いつも頭から離れない。
星は夜しか輝かない、だから、夜にしか見えないものもある。市松から離れようとすればするほど、市松のことが好きな自分に気付かされてしまっていた。
駿河の言っていたことは本当なのだろうか。市松は自分から抱きしめてと願い出たのだろうか。俺は気になって仕方がなかった。俺には関係無い話のはずなのに。
だめだ、確かめたい。そう思い、パソコンの電源を入れた。運が良いのか悪いのか、市松はログイン状態だった。
[高井]:なぁ、熊田に、『抱きしめて』って頼んだって、本当?
[市松]:誰がそんなことを?
[高井]:駿河から聞いたんだ。本当なの?
[市松]:そんなこと言いませんよ。あれはサッカー選手の抱擁みたいなもので……
要するにハグだと言いたいのか? 日ノ本で生まれ育ったキツネ顔の女が道端で抱き合っていたら、ハグと呼べるわけ無いだろう。
どうやら、駿河の話はデタラメだったようだ。俺を動揺させようとしていたのだろう。俺は胸をなでおろし、市松に駿河との会話を説明した。
[市松]:駿河さんは、高井さんに叶わぬ想いを抱いてたのに、私が熊田さんのことをくっつけようとしてたとしたら……すごく残酷なことをしていました
俺は、何故、市松が好きなのかを、一つ一つ考えていた。思い当たるフシがどんどん出てくる。市松が誰かのことを悪く言っているのを聞いたことが無い。そう、市松は、不器用だけど誰に対してでも真っ直ぐで、彼女なりの思いやりを持って生きている。俺とは正反対の女だった。もしかすると、彼女とは離れなれないのかもしれない、と思うと、会いたいという気持が強くなり、気づけばキーボードを叩いていた。
[高井]:知ってた?
[市松]:知りませんでした
[高井]:明日、ダンスを踊るイノシシが土城駅に来るらしいよ
[市松]:二時以降なら大丈夫です
[高井]:分かった。じゃおやすみ
[市松]:おやすみなさいです
市松はどれくらい熊田のことを想っているのだろうか。そんなことばかりを考えていたが、結局何を考えていても最後の結論は、市松に会いたいとなってしまう。
俺は、昼過ぎの電車で土城駅へと向かっていた。あいにく、今日は曇っているうえに、時々雪が降っている。
予定より早く駅に着いた俺は、彼女を待つ間、舞い降りている雪を掴もうと必至になっていた。意地悪な風が邪魔をする。雪は右へ左へと風に揺れ、思うようにつかめない。やった、掴めたぞ。そう思い手の平を見ると、雪はあっという間に溶け、ただの水滴になっている。俺の手の熱で溶けてしまっていた。まるで、市松との恋を思わせる。
結局、雪を捕まえるのを諦め、柵に肘を乗せ、頬杖を付きながら見ているだけだった。
この雪がいっぱい降り続ければ積もるように、この恋も降り続ければ、俺の心に積もりゆくのだろうか。いや、結局、こうして頬杖を付いて見ているだけになるのだろうな。
舞い散る雪を眺めていると、自転車でこっちに向かってくる市松が見えた。白い肌に雪が似合う。昔話に出て来る雪女って、こんな顔をしているのかも知れない。
市松は、駐輪場に自転車を止め、酸っぱいものでも口に含んでいるような顔をしながら歩いてきた。何かを食べているのか? あぁ、雪が邪魔なのか。
「お待たせしました」
「ほんと、待たせたな」
「えー。二時って言ったじゃないですか」
「五分も過ぎてるぞ」
二人は笑った。俺は市松の笑顔を見て心が踊り始めた。この情けない笑顔に会いたかった。会えてよかった。
とりあえず、何もないこの駅を離れ、俺達は三川駅へと向かった。雪がちらつく中を少し歩き、ファミレスに入る。そこしか行くところがないから仕方がない。
俺は、一杯目の珈琲を飲み終えるまでに、市松に全てを話した。市松に対する気持も、駿河と居る時の虚しさも全て。
「――このままじゃ、ダメな気がする」
「そんな状態なら、駿河さんが悲しむだけになりそう」
市松のことが好きだという理由で悩んでいるということを、本人に話すなんて変な気分になるが、なんでも素直に話せることがとても心地いい。神の前で跪き、全てを告白するのって、こういう気持になるのかもしれない。
大きなガラス窓の向こう側では、雪が風に煽られ、舞い踊っている。俺はいつまで、こうして降りゆく雪を見ていられるのだろうか。
そう思っていると市松は、まるで猫の手のように指を内に側に曲げ、テーブルの上でリズミカルに動かしていた。手が踊っているようにも見える。
そして、市松の手は、俺の手の上でも踊りだした。手の甲で小粋なステップを刻んでいる。まるで、一緒に踊りませんか? と手が語っているようだ。
俺は初めて、市松の手が柔らかいということを知った。
市松の手は、恐らくサンバを希望しているようだが、俺はチークが踊りたくなり、市松の手を恋人同士のように密着させたが、どうやらチークはお断りのようで、市松はすぐに手を引いた。そして、しばらくすると、また俺の手の甲でステップを刻みだす。
もしかして、コイツなりに慰めようとしてくれているのか。そういえば、今日の市松は何処かが違う。とても優しい目をしている。子供を優しく見ている母を思わせるような、温かみのある目だった。俺が悩んでいるからだろうか……。
「雪がすごい」
俺がそう言うと、市松は振り向き、窓の外を見た。
俺は、市松の手を包むように握った。ずっと触れたいと思っていた市松の手は、細くて柔らかい。その温もりを、俺の指が求めている。そうだ、俺がずっと求めていたものはこの温もりなんだ……。他の誰でもない、市松が好きなんだ。
市松は、しばらく俺の手を解こうとはしなかった。雪に見とれているふりをしてくれていたのだろう。
「――市松のくせに、気を使うから雪が振るんだよ」
「私は普段から、気を使ってますから」
「じゃ、もっと俺に気を使えよな」
市松は、笑いながら拗ねてみせた。
いつまでも、いつまでもこうしていたい。こうして、市松の笑顔を見続けていたい。心からそう思っていた。
交わす言葉は少なかったが、結局、三時間ほどファミレスに居た。市松はもうすぐ帰る時間だ。午後六時のシンデレラ・タイム、といったところか。
俺達はファミレスを出て、市松の住む土城駅に戻った。その頃には、もう辺りは暗くなっていた。本当なら、駅で別れる予定だったが、一秒でも長く市松と一緒に居たかったので、俺は自転車置き場まで市松を見送ることにした。
反対側のホームへと渡れる小さな歩道橋を登り、俺達はそこで足を止め、線路を上から眺めた。上りと下り、二本の線路がゆっくりとカーブを描きながら夜の闇へと消えていく。
「今日は会ってくれてありがとう」
「高井さんが、駿河さんのことで悩んでたみたいだから」
市松の優しさが、俺の心を捉えて離さない。先の見えない線路のように、自分がこの先どうなるのか、分からなかった。
市松の誕生日に花を贈ったあの日、純粋に市松の幸せを願っていたよな。だけど今はどうなんだ。市松を求め始めてからは嫉妬ばかりじゃないか。挙句、その苦しみから逃れるため、駿河の優しさに甘えようとしている。何をやっているんだ俺は。
あの頃は、闇夜の海を市松の光へと向かって進んでいた。何の迷いもなく、何の疑いもなく。だが、嫉妬や欲求がその光を遮ってしまい、気づいたときには、独り、海原に取り残されていた。
何とかしようと、がむしゃらに前へと進もうとしたが、足元さえも見えないような闇夜では、自分が何処に居るのかも分からなくなってしまい、力なく、俺はその場に跪いた。
震えているのは寒さのせいじゃない。先の見えない恐怖からだ。恐怖は、俺の臆病さを露呈させてしまっている。『助けて……。誰か助けて!』俺は何度も叫んだ。だが、どんなに大きな声を出してみても、闇夜は全てを吸い込んでいく。
そんな時、後方に光が見えた。その光はとても青白く、今まで信じて進んだ光とは違うとすぐに気がついたが、俺は夢中でその光へと舵を切った。今、この闇夜の海から逃れられるならそれでいい、そう思ったからだ。でも、今日、はっきりと分かった。この闇夜をまっすぐに進むには、市松の笑顔しかないということを。
俺は、市松から逃げることばかりを考えていた。そして、駿河の明るさに引かれ、恋人気分に癒やしを求めていた。だがそれは、ただ、自分に嘘をつき、誤魔化しているだけで、虚しさを伴うものなのだと。
市松という名の光が、闇夜の海を照らし続けてくれたなら、俺は迷うこと無く舵を切ることが出来るのだろう。
市松への恋が終わるまで――いや、せめて、もう少しの間だけでも、市松から差す光へと進み続けていたい。
俺は市松の方を向き、まっすぐに見つめた。暗闇が市松の顔を薄っすらと見えなくさせている。
「そういえば、あの花はどうなったの?」
「まだ綺麗に咲いてますよ。見る度に心が癒されます」
「あのさ、頼みがある」
「嫌な予感……」
「今、お前が見えなくなったら俺はもう、ここから這い上がれなくなる」
「どうしたんですか?」
「お前のことを好きでいさせてくれないか」
「――でも私、熊田さんのこと、まだ好きですよ?」
「分かってる、それでもいい。ずっととは言わない」
「…………」
「せめて、贈った薔薇が枯れてしまうまで、好きでいさせて欲しい」
俺はそう言い終え、市松に背を向け、ホームへと歩いていった。市松は、俺が電車に乗るまで動くことは無かった。
頭の中で結果が分かっているのに、止められないときもある。どんな事情があろうとも、人を好きでい続けられるということは、幸せなことなのかもしれない。人は、考え方を変えるだけで幸せになれる生き物だ。ただ、ずっとは無理だと分かっていた。片思いを続けるほど、強い男ではないことは俺が一番よく分かっている。だが、今だけは俺の光で居て欲しかった。市松が必要だった。心から必要だと思った。




