第十話
女神謁見の間は、酷い有様だった。
魔法の中心地として選ばれてしまったそこでは、魔力の本流があらゆるものを薙ぎ倒し、保護魔法がかかっていたはずの天窓は割れ天蓋は破れ去り、女神と謁見する者が祈る祭壇はそこにあったはずの王家の紋章ごと薙ぎ倒されていた。
最早普段の面影の欠片もありはしない。聖域とは思えぬ程に荒らされた広間の中。
そして、女神謁見の間には黒い魔力の本流が渦巻いていた。
そう、黒い魔力が。
「これは……!!」
「まさか、ネクロヌース!?」
父と母がすぐにその名を叫ぶ。
それもそのはずで通常、魔力とは無色透明で色のないものだ。
だが、それは魔法によって色を変え、炎なら赤、水なら青と魔法を授ける精霊や妖精によって染まりやすい性質をしていた。
しかしそんな色とりどりの魔力の色の中でも、精霊や妖精が授けることのない色があった。
……それはかつて女神が奪われた色。
精霊や妖精を捕え自らの原動力として利用した者たちによって、理ごと奪われてしまったその色こそ、黒。
今やネクロヌースが魔法を使う時にしか現れないその色が、そこには充満していた。
「嘘だろ……」
ガラルドはこの時始めて、ネクロヌースの魔力と言うものを見た。
まだ魔法としては完成し切っていない未完成な構築段階のそれなのに、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。
ここにいては危険だと、今にも体が逃げ出しそうなほどに悪寒が止まらない。
それを必死に押さえ込んで、何とか立っている状態だった。
「ガラルド……」
兄の心配そうな声が聞こえた気がした。
だがここで震えている訳にはいかないことは分かっている。
顔色はとうに青ざめているだろうが、ガラルドは気丈なフリをして母に手を伸ばした。
「母さん、ティナを。俺が守る」
「……ああ、頼んだよ」
母もそんなガラルドの意図を汲んでくれたのか、ラウレンティーナをガラルドに預けた。
それはもしかしたら、この広間に自分たち以外は来ないことを分かっていたからなのかもしれないけれど。
それでも任された自分と一つ違いの妹を、ガラルドはしっかり抱きしめた。
これだけの魔力の本流にあっても、まだ穏やかに寝ている妹。
この妹だけは、何としてでも守りたかった。
穏やかな微笑みのままガラルドがラウレンティーナを抱き止めたのを確認した母。
だが、ガラルドたちに背を向けるようにして振り返った時には、いつもの母の顔はなかった。
それはかつての女傑の顔。
歴戦の戦を制してきた戦士の姿だった。
母はそのまま父の側に行くと、名将として指揮官の指示を仰ぐ。
「総指揮官、指示を」
「中将。君はこの魔力の本流を切り裂き、道を作れ。指揮官代理、君はこれより魔法師団としての役割を全うせよ。楔は私が受け持つ。これは決定事項である。
この禁呪の魔法を破り、全ての民を私たちの手で守るぞ!!」
「はっ!!!」
父の号令に、母と兄が応答する。
この時……否もっと前から気づくべきだっったが……父の言葉にガラルドはやっと、今の状況がおかしいことに気がついた。
何故か、軍も神官も誰も王城の危機に対して動きがない。
なんなら城の中が、ガラルドたち以外は誰も居ないかのように静寂に満ちていたことを……。
普通なら、常駐の騎士や軍人がいるはずなのだ。なのに、それらすらいない。
つまり全員が裏切ったか、別の脅威によって進行を遮られているのだと、漸くガラルドの思考が追いついた。
しかし恐らくだが、前者はない。
でなければ、こんな禁呪を発動する必要もなく王家は叛逆によって滅びるだろう。
で、あればきっと後者。
何者か……否、ネクロヌースによって全ての防衛に当たるべき人々が足止めを食らっているのだ。
そして、この時のガラルドの予測は正しかった。
城内と軍部にのみ現れた脅威。
要人たちを帰し終わった直後の出来事だったと言う。
城内や軍部の至る所に、魔物が現れたのだ。
それらは、何故か城下町のオーデンでは姿を捉えることすら叶わず、声も聞こえない。通信機器の全てが妨害され、外部から援軍を呼ぶことも出来ない軍人や騎士たちは全て、全力でその処理に追われなければならなかった。
つまり、これは王家が禁呪を解かなければならないようにする為の罠。
だからわざわざ禁呪の呪文をサンドール国王一家に聞かせ、この女神謁見の間までくるように仕向けた。
だがそんな企みを、分からぬジャスパードではなかった。
それは、中将であった妻も、その一番上の子供も同様であった。
それでも乗るしかないのだ。
城の内部、それも聖域にまで踏み込まれてしまっている以上、ここは相手の戦場。
放っておけば禁呪が発動し、この国は王都を中心として大規模な損害を受ける。
そしてここでユートロピア王国が大打撃を受ければ、これまで抑圧されてきた強大国が戦争を始めるだろう。
その時餌食になるのは、戦争の相手となる国なのか、それとも数百年の檻を課していたユートロピアなのか。
その中で、どれだけ多くの人々の命が失われてしまうのか。
どれだけ精霊や妖精の住まう場所が消えてしまうのか。
考えただけでもゾッとする光景だった。
ネクロヌースが、どれほどの期間準備していたのかは分からない。
もしかしたら、それこそ数百年前からの計画だったのかもしれない。
ネクロヌースが仕掛けていた全てを地獄へと突き落とすその引き金が、今ここで引かれようとしている。
女神を崇拝し平和を掲げる国家としても、一人の世界を愛する人間としても、引き下がる訳にはいかなかった。
全ては、愛する者たちの為に……そして、長きに渡りこの国を守り続けてきた人々の意志に、報いる為に。
「父さん!母さん!兄さん!!」
ガラルドの叫びが響き渡った瞬間、母の放った剣撃が広間の魔力を切り裂いた。
大きく開いた魔力の壁の間から、その禁呪の魔法陣が覗く。黒く光るその魔法陣は既に自身の魔法を八割ほど形成しながら、禍々しい光を発していた。
父がすかさず魔装銃を構え、陣の真ん中を迷いなく撃ち抜く。他の魔力の干渉を受けて、僅かに陣の形成が遅れを見せた。
そして魔法陣の端に杖を突き立てた兄が、詠唱を始める。
《我、此れを持って干渉する。力よ流れ、我に従え。森羅万象、元ある姿を冠する全ての万物よ。根源に帰り、今全てを正せ。
クロノス・ノア・アルケー!!》
そして耳を劈くような轟音と共に、迅雷が迸る。
兄がしようとしているのは、魔法の解呪。
それは形成され切っていない魔法陣に干渉し、魔力の流れを魔法陣から外界に変更しその魔法の完成を阻止すると言うもの。
相手に魔力を押し返す解呪の方法もあるが、今回の相手はネクロヌース。
彼らは魔法を精霊や妖精を原動力としてそのまま使用し、魔力に至っては自らの生体エネルギーではなく自然界の理そのものに精霊たちを介して干渉し、自らのものとして使用する。
つまり、彼らの魔力に枯渇はない。
ありとあらゆるものから略奪し、自身の力として破壊の為だけに使う。それがネクロヌースだ。
だがそんな彼らでも、禁呪のルールは破れない。呪文の詠唱が終わっても魔法陣が未完成のまま魔法を構築すれば、魔法は展開することは出来ないはずだ。
だからこそ魔法陣を形成する為の魔力を、詠唱が終わるまで外界に流し続ける。
それこそが王家の策。
ネクロヌースと言えど、無敵ではないのだ。
しかし、この魔法には一つ大きな問題があった。
「ぐっ……!がはぁっ……!!!!」
父が、胸を押さえて血を吐いた。
息は上り、手足も震え、本当なら立ってすらいられないのだろう。
それでも魔装銃を突き立て支えにすることで、何とか立ち続けている父。
「父、さん……」
本来魔法陣に向かうはずの魔力に干渉し外界へと押し流すこの魔法には、パイプとなる人物が必要となる。
その人を媒介にして、魔法陣から自然界へと新たな道を掛け、魔力を外に流していくのだ。
本来ならそれは魔法を使う魔法使い自身が受け持つことが多いが、その対象を承認を受けた相手ならばパイプ役を受け持つことが出来る。
そしてこの魔法の媒介を受け持った父が、今ネクロヌースの魔力を一身に受けているのだ。
魔力の総量に個人差はない。
つまり人の持てる生体エネルギーには限りがある。
しかしネクロヌースにその制約はない。
暴力的に奪った自然界そのもののエネルギーを直接魔法陣にぶち込んでいるのだ。
それは、本来数人以上で構築される禁呪を相手取る以上の、数十人以上の魔力をたった一人の人間の体に受け止めているに等しい。
それを詠唱が終わるまで、受け止め続けると言うのは正気の沙汰じゃない。
しかし父の判断に母も兄も意を唱えずに、ただ従った。
それが、総指揮官の判断だったからだ。
それが、父の覚悟だったからだ。
あっという間に血まみれになっていく父の足元を見て、ガラルドは再び口を固く結ぶ。
父のそんな姿を見ても、兄は魔法を止めることなく魔力の制御に集中し、そんな兄の魔力が途切れぬように母は兄に魔力を注いでいた。
ただこの事態を収束させるために、それぞれが己のなすべきことをしていた。
それを傍らで眺めることしかできないガラルドは、ラウレンティーナを抱きしめながら、ただ呆然とする。
いつか軍人になって、この国を守ろうと思っていた。
いつか軍人になって、家族を支えて守っていけたらと思っていた。
そんな幻想を吹き飛ばすように、現実はただただ容赦なく、身内を捨ててでも国を守る家族の姿をガラルドに見せつける。
まるで夢物語などありはしないと、その道の厳しさをありありと突きつけるように。
だが、その時ガラルドが感じたのは……失望や恐怖ではなかった。
ガラルドの胸中を埋め尽くしたのは、ただ自身の家族に対する、恐ろしいまでの畏怖だったのだ。
そこにいる全員が、絶対的な信頼を持って、自らの役割を全うしていた。
高潔な精神で、死さえも恐れぬ覚悟で、現実に抗っていた。
どれほど危険な状態であっても、決して諦めず、決して折れず、全ての命を守るために自らの命を燃やしていたのだ。
それが、ガラルドの家族だった。
それが、偉大な王族の姿だったのだ。
ガラルドはそんな彼らの恥にならぬように、もう一度強く妹を抱きしめる。
負けてはならない。この絶望的な状況であっても、絶対にラウレンティーナは守り抜いてみせる。
そんなガラルドの決意が届いたように、黒い魔力は次第に晴れていき、魔法陣の光も弱まっていく。
そして、どれほど時間が経ったのか。
魔法の光はその輝きを失い、代わりに女神謁見の間には月明かりが差し込んでいた。
荒れ果てた有様ではあったが、それまでの薄気味悪さは何処にもなく、ただ父の足元にある血溜まりだけが、一連の出来事を物語っていた。
その血溜まりに、父が倒れ込む。
「貴方!!」
「父上!!」
「父さん!!!」
母と兄が慌てて駆け寄るのを、ラウレンティーナを引き摺る訳にもいかずに見つめるガラルド。
自身が吐き出した血の上に倒れ込んだため、父の為に仕立て上げられた服も、父の髪も顔も、全てが血に塗れた。
けれどそんな父を、自分が汚れることも気に留めず、誰よりも先に抱きしめ呼びかける母。
「貴方!貴方!!」
「……王、妃」
弱々しくだが、確かに聞こえた応えにガラルドたちはホッと息をつく。
「はは……。今回、ばかりは……骨が、折れたな……」
「当たり前ですよ。こんな無茶して」
ボロボロなのに、寧ろ周りを慰めるように笑ってそう言う父に、母が泣きそうな顔でそう返した。
いや、泣きそうなのは母だけではない。
「父上、申し訳ございませんでした」
兄もまた、泣きそうな顔をしてそう言っていた。
指示に従ったとは言え、魔法の対象に父を選んだのは兄だ。内心、不安で仕方なかったのだろう。
しかし、そんな兄を父は寧ろ誇らしげに言うのだ。
「いいや……。お前が、居な…ければ、もっと……取り返しが、つかな…かった、だろう。お前の、魔法が……あって、よかった」
「父上……」
兄は涙を堪えるように、グッと両目を瞑る。
そうやって兄が泣きそうになるのも、泣くのを我慢しているのもガラルドは初めて見たが、その気持ちはわかるような気がした。
「……ガラルド、こっちに、おいで」
だが父にそう声を掛けられ、ガラルドはハッとする。
少し戸惑ったが、呼ばれたからには大事な話なのだろう。ラウレンティーナを引き摺るようにして、抱えながらも三人の居る所まで近寄った。
全員集まったことを確認し終えた父が言う。
「僕は、しばらく、表に…立てない。僕が……完全に、回復、するまでは、第一王子に……全て、の、指揮権、を、任せる。王妃、は……その、補佐を任せ、た。ガラル、ド、と、ラウ、レン……ティーナ、は、引き、続き、勉学と、鍛錬に……励む、こと。全て、学び終えたら、第一王、子を……手伝って、くれ」
それは、政権や自治権、軍指揮権、全てを第一王子に一時的にも引き継ぐことを、王命によって宣布された瞬間だった。
父が完全に回復するまでは、兄が王の代理であり、実質的な国王になる。
しかし、それに否を唱えるものは誰も居なかった。
「はい、しかと拝命いたしました」
「後は任せて下さい」
「……はい」
兄も母も、そしてガラルドも父の言葉に従った。
父が完全に癒えるその日まで、この国を民を家族を守る。
そして最後には、回復した父を再び王座に迎えるのだ。
その日までは決して、誰にも家族を害させはしない。
そう、確かに誓った。
その時だった。
「うっ……!!ガァッ、ア……!!!」
父の体から、黒い魔力が迸ったのは。
「父さん!!!」
ガラルドは叫んだ。
もしかしたら、母や兄も叫んでいたのかもしれない。
けれどその言葉が出る前に、父から漏れ出す黒い魔力は、質量を伴って母と兄を父から引き剥がすようにして吹き飛ばした。
「母さん!兄さん!!」
目の前で何が起こっているのか分からなかった。
だが弾き飛ばされ、床に叩きつけられた兄が、父を見て信じられないものを見るようにして、こう言った。
「ま、さか……『呪刻』……なのか?」
呪刻、それは魔法とも呼べない呪われた禁術。
対象に魔力を持って干渉し、その生体エネルギーによって直接刻印を刻み込み、対象を破壊するとされる、ネクロヌースにおいても使用者は歴史上僅かしかいない呪い。
それが、父の体を蝕むようにしてジワジワと黒い魔力で染め上げていっているのだ。
恐らく、これこそが罠の正体だった。
禁呪を放って置けない王家は必ず禁呪を解こうとする。
解呪が成功せず禁呪が完成すれば、城は聖域ごと吹き飛び、ユートロピア王国は主戦力を失い他国への抑止力もなくなる。
だがもし禁呪の解呪に成功したとしても、その魔力を受け止めた者に呪刻を施す仕掛けがなされていたのだ。
だが、それが分かったところで何になると言うのか。
呪刻を使うネクロヌースは歴代でも数は僅か。
つまり魔法でもないそれの解呪の仕方など、伝わっている訳もない。
仮にあったとしても、魔法を使える兄も母も既に魔力を限界まで使い果たした後。
ガラルドはまだ、妖精を呼び出してもいない、ただの無力な子供だ。
何も出来ることは、ない。
たった今目の前で破壊されようとしている父を救う術は、何一つありはしないまま、ガラルドたちは一人の家族を、この国は王を失う。
はず、だった。
「お、父様……?」
彼女が、目覚めるまでは……。
「ティナ……?」
疲れ果てて眠ってしまっていたラウレンティーナは、よりにもよってこんな最悪な時に目を覚ました。
強く抱きしめていて苦しくなったからだろうか、それともこの時既に、何かに突き動かされていたのだろうか。
ラウレンティーナは、ぼうっと眺めるように黒く染まりつつある父を見ていた。
彼女は、その黒い魔力の方に手を伸ばすと、徐ろにその口を開く。
《止まりなさい》
瞬間、何かに萎縮したようにネクロヌースの魔力は動きを止めた。
それはまるで時間そのものが静止したかのよう。
あまりの出来事に呆然と目を見開くガラルドは、自身の腕からラウレンティーナが離れていくことに気が付かなかった。
彼女は、尚も言葉を紡ぐ。
《女神の祝福に則り、この地に仇なす者たちよ。
お前たちに問う。
何故此処に居る》
それはよく知る妹の喋り方ではなかった。
けれど、ネクロヌースの魔力はその言葉を受け、まるで苦しむようにうねり始める。
彼女が一歩、先へ進む。
《此処は女神によって祝福された女神の領域。
再び問う。
何故此処に居る》
母も兄も、ガラルドも驚いて身動きも取れない。
否、取ることが出来ない。
ラウレンティーナが言葉を発する度、まるで空間そのものが作り替えらえたかのように神秘的な静謐へとその重みを増していくようで。
彼女以外の誰も、動くことができなかった。
彼女がまた一歩、先へ進む。
《お前が踏み入るは女神によって与えられし聖女の庭。
三度問う。
何故此処に居る》
三度目の問い、それにどんな意味があるのか分からない。
しかし確かにその言葉を受けた黒いネクロヌースの魔力は、まるで生き物のように苦しみ踠くようにして、父の体から這い出てきた。
父の肌は少しずつ元の色を取り戻していき、代わりに黒い魔力だけが行き場を失い散り散りになり始める。
だが、それだけで終わることもなかった。
それは最後の足掻きだったのかもしれない。
黒い魔力はその身を刃のように変え、父の体から追い出したラウレンティーナへと標的を変えた。
「ティナ!!!」
母の声が聞こえた気がした。
その時、ガラルドはどうしてそんなことをしたのか、しようと思ったのか分からなかった。
例えるなら、本能。もしかしたら、この世界の住人に備わっているのかもしれない、直感だったのかもしれない。
ラウレンティーナに迫る黒い魔力を、ガラルドの短剣が彼女に迫る前に切り裂いた。
そして、彼女が最後の言葉を発する。
《去れ。
此処はお前のものではない》
それがきっと、最終通告だったのだろう。
真っ二つに切られた黒い魔力は、その言葉に逆らう術を持たぬように霧となって、今度こそ完全に消滅した。
驚きの事実が一つずつ明らかになっていきます。
ラウレンティーナが『特別』だった訳です。
このことは本人は勿論、家族さえも知りませんでした。




