第14章:絶望の止血(ヘモスターシス)
#犬神家 #腐った愛の解剖学 #サイコスリラー #医学サスペンス #なろう小説 #創作
「ファンタジーの世界なら、敵を排除したければ死の呪文を唱えるだけで事足りる。だが悲しいかな、医学的現実はそれほど単純ではない。佐藤のような警察官を殺せば、我が家の玄関先に包囲部隊を招き入れるだけだ。だからこそ、僕はここにいる――獲物の息を繋ぎ止め、生かしたまま囚人とするために『緊急手術』を強いられた東大生として。しかし、この血の海の中で、貞人の冷徹な指示が響き渡る。脱出こそが、僕が大学で唯一学び損ねたカリキュラムであることを思い知らせるかのように」
さっきまで無菌状態だった地下室の床は、今や屠殺場と化していた。僕は崩れ落ちた佐藤に向かって突進した。血に染まったナイフを手に立ち尽くす朱里など眼中にない。
「朱里! 血管クランプと縫合セットを今すぐ持ってこい!」僕は叫んだ。その声はもはや礼儀正しい学生のものではなく、外傷センターを仕切る指揮官のそれだった。
僕は佐藤の頸動脈を掌で圧迫した。指の間から温かく粘り気のある液体が滲み出す。血圧が下がり始めている――命を脅かす低血圧性ショックの兆候だ。もし彼がここで死ねば、数時間以内に警察の特殊部隊がこの屋敷に送り込まれるだろう。直ちに止血を行わなければならない。
「はい、江戸くん」朱里が震える手で器具のトレイを差し出した。彼女の瞳には依然として恐怖と高揚が入り混じっている。
十分な麻酔もないまま、僕は引き裂かれた血管にクランプをかけた。佐藤の体がびくりと跳ね、痛みで目を見開いたが、抵抗するにはあまりに衰弱していた。僕は東大の試験基準を遥かに上回る速度で、損傷した組織を縫い合わせた。思考はただ一点、彼を人質として生かし続けるための脳灌流を維持することだけに集中していた。
「そこまでだ、江戸。縫合糸の無駄使いだ」
吸引機の音を切り裂くような、落ち着いたバリトンボイスが響いた。
犬神貞人がそこに立っていた。まるで仕事机の上のコーヒーの染みでも眺めるかのような冷ややかな目で、その惨状を見つめている。彼の手には小さな黒いアタッシュケースと、数通の偽造パスポートが握られていた。
「父さん……」僕は顔を上げ、息を呑んだ。
「この男の血が、私が三十年かけて築き上げた名声を汚したな」貞人は躊躇なく血溜まりを跨いで歩み寄った。「階上では、佐藤が戻らないことに相棒が疑念を抱き始めている。すでに佐藤の携帯から本部に偽のメッセージを送っておいた。容疑者を追って横浜港へ向かうとな。これで三十分は稼げる」
父は僕を見つめ、それから朱里に視線を移した。「秘密のガレージにある車を出せ。GPSに設定した座標へ向かえ。そこには犬神家の古い『患者』のコネがある。日本国外への脱出を助けてくれるはずだ」
「父さんはどうするんですか?」僕は問いかけた。
「私はここを片付ける。外科部長ともなれば……医療廃棄物の扱いには慣れている」貞人は朱里の手からスカルペルを取り上げ、彼女を一歩後ずさりさせるほどの鋭い視線で睨みつけた。「行け。私が授けた教育が、無法の世界で生き延びる術となることを証明してみせろ。もし捕まったら、二度と犬神の名を口にするな」
僕は、いまだに飢えたような目で佐藤の体を見つめる朱里を引っ張った。僕たちは裏のガレージに直結している地下避難路へと走った。
車のエンジンをかけたとき、佐藤の血で真っ赤に染まった自分の右手が目に入った。僕は今、父からの最後の試験に合格したのだ。それは「いかに治すか」ではなく、「いかに失敗した手術の後始末から逃げ延びるか」という試験だった。




