第3話 レベル一からの再出発
頬に、冷たいものが触れた。
一度ではない。一定の間隔で、ぽつり、ぽつりと落ちてくる。
「……雨?」
声を出した瞬間、喉がひどく乾いていることに気づいた。
重い瞼を開く。
最初に見えたのは、幾重にも重なった枝と緑の葉だった。その隙間から灰色の空が覗き、細い雨を落としている。
土と草の匂いが濃い。
背中には湿った地面の冷たさ。右の肘には小石が食い込み、首筋を小さな虫が這っていた。
「うわっ!」
跳ね起きて虫を払い落とす。
そこで、ようやく周囲を見回した。
森だ。
太い木々が果てしなく続き、根元には腰まで届きそうな草が茂っている。さっきまでいた王都も、世界樹も、召喚獣たちもいない。
「ログアウト……してないのか?」
右手を振り、メニューを呼び出す。
半透明の画面が現れた。
一瞬だけ安心しかけ、すぐに異常へ気づく。
ログアウトボタンがない。
運営への連絡、設定、フレンドリスト、現実時刻。いつも表示されていた項目が、きれいに消えている。
残っているのは〈ステータス〉〈スキル〉〈契約〉〈収納〉の四項目だけだった。
視界の端へ指を伸ばすと、画面には触れられた。指先に薄い膜を押すような感触まである。
念じるだけでも操作できるが、表示を消しても意識すればすぐに戻る。
夢にしては規則的すぎた。
試しに近くの木の葉を一枚ちぎり、匂いを嗅ぐ。青臭い。葉脈を爪で押せば汁が滲み、口へ入れずとも苦そうだと分かる。
靴底で土を踏む。沈み方、湿気、小石の硬さ。そのすべてが現実と変わらない。
むしろ、都会の部屋で機器を通していたときより情報量が多かった。
「まさか、サービス終了後もサーバーに取り残された?」
そんなわけがない。運営がサーバーを停止すれば、強制的に接続は切れるはずだ。
現実の身体に何か起きた可能性が頭をよぎる。
事故。機器の故障。意識障害。
考え始めると呼吸が浅くなった。
「落ち着け。確認できることからだ」
独り言を口にし、ステータスを開く。
《名前:ユーマ・クロセ》
《種族:人間》
《年齢:二十》
《職業:テイマー》
《副職業:サモナー》
《レベル:1》
《固有スキル:魂約テイマーⅠ/幽界サモナーⅠ/万象適応Ⅰ》
《称号:■■の方舟候補》
「レベル、一……?」
サービス終了直前の俺はレベル百二十七だった。
限界突破クエストを何度もこなし、テイマーとサモナーの両方を最終職まで育てていた。それが初期状態どころか、能力値のほとんどが一般人と変わらない。
装備欄も空だ。
身につけているのは、麻に似た布のシャツと黒いズボン、革の靴だけ。最高級素材で強化した〈万象の外套〉も、杖も、短剣もない。
シャツの縫い目を確認する。
ゲームの初期装備によく似ているが、布目は不均一で、裾には手作業らしい歪みがあった。量産された画像を貼りつけた質感ではない。
ポケットも探したが空だった。せめてナイフ一本、火打ち石一つあれば生存率は大きく違う。
「運営、転送特典くらいつけてくれてもいいだろ」
文句を言う相手すら存在しない。
収納を開く。
《収納物はありません》
「嘘だろ……」
回復薬も食料も、金も、帰還石もない。
次に契約一覧を開く。
胸が締めつけられた。
名前は残っていた。
黒竜ディアス。
月狼ルカ。
機巧妖精ティア。
その下にも、俺が契約した召喚獣たちの名前が並んでいる。
だが、すべて灰色だった。
《所在不明》
《召喚経路が確立されていません》
《魂紋反応:微弱》
完全に消えたわけではない。
そう思いたかった。
「ディアス。聞こえるか?」
返事はない。
「ルカ、ティア。誰でもいい。返事をしてくれ」
森に自分の声が吸い込まれていく。
召喚を試す。
《幽界サモナーⅠを発動します》
《有効な契約対象が存在しません》
《召喚に失敗しました》
魔力だけが身体から抜けた。
急激な眩暈に襲われ、近くの木へ手をつく。
ざらついた樹皮が掌へ食い込んだ。
痛い。
頬をつねってみる。やはり痛い。
ゲームには痛覚制限があった。攻撃を受けても衝撃があるだけで、本物の痛みを感じることはない。
それなのに、今は冷たさも、空腹も、喉の渇きも、すべてが鮮明だった。
「ここは、本当にゲームの中なのか?」
次回「ここはゲームではない」。レベルも装備も失った悠真は、目の前の痛みから一つの事実を思い知らされます。




