聖堂懐胎
内部は、想像していたものとは異なっていた。閉ざされた洞のような空間ではない。むしろ、上へと開かれている。
高い天井が、幾重ものアーチを描きながら奥へと連なっている。石を削り出して造られたそれは、意図的に組み上げられた人工物なのだろうが、自然のものであるように康正には感じられた。左右には柱が並び、その上を回廊が走っている。二階部分にも、人影がある。助祭たちが、同じように列を成している。
光は、蝋燭だけだった。
床の両脇、柱の根元、壁の窪み。至るところに置かれた炎が、ゆらぎながら空間を満たしている。高所までは届かず、天井は暗がりに沈んだまま、その分だけ下層の明かりが濃く見えた。
助祭の列は、一階へと流れ込む。
中央の通路は広く取られており、その奥に、数段の階段を上げた祭壇があった。
助祭たちは自然とその周囲へ散っていく。胸の前で両手拳を握ると立ち尽くし、誰一人として声を発さない。
康正とアリアナも、流れに紛れる。
フードを深く被り、視線を落とす。正面を見れば、祭壇がある。
その中央。
台座の上に、白布に包まれたものが置かれている。
赤子だった。
その傍らに、司祭が立っている。動かない。だが、そこに立っているだけで、この場の中心がそこにあることが分かる。
距離を測る。
一歩。さらに一歩。
周囲の助祭の動きに合わせて、わずかに位置を変える。祈りの所作に紛れ、身体の向きをずらす。視線は下げたまま、足だけを進める。
咎める者はいない。
誰も見ていないのか、止める者はいなかった。
蝋燭の熱が、頬に近づく。祭壇は、もう手の届く距離にあった。赤子は動かない。静かに眠っている。呼吸のわずかな上下だけが、布越しに分かる。
アリアナの動きが変わった。止まる、というより、重心が前へ落ちる。次の瞬間、身体が滑るように前へ出る。
音はなかった。白布ごと、アリアナは抱え上げた。
迷いのない動きだった。腕の中で、赤子がわずかに身じろぐ。
アリアナは振り返らず、そのまま半歩下がる。遅れて前に出た康正は、差し出されたそれを受け取った。
軽い。だが、確かな重さがある。温もりが、掌に残る。
祭壇の脇に立つ司祭が気づいて、勢いよく振り返った。最初は、動きに対する反応だった。次に輪郭を捉え、視線が定まる。まっすぐに、康正へ向けられる。
「おや……確かきみは、異世界の」
康正は目を細めた。
「あのときの……」
見覚えがあった。
異世界に召喚された直後――玉座の間。
国王と王妃、その周囲に並ぶ人間たちの中で、飛鳥の力が“寵愛の加護”であると進言した男。
それが、いま目の前にいる司祭だった。
「どうしてきみがここにいるのかね」
司祭はわずかに首を傾ける。
「町工場の仕事を与えられたはずだろう。能無しは、あれしきのことも全うできなかったか」
その声音には、露骨な嘲りが混じっていた。
「ヤスマサさん、その子と逃げてください」
アリアナが言う。短く、迷いのない声。
「私も、あとで追いつきます」
司祭の視線が、わずかに移る。
「自分が何をしているのか、わかっているのかね」
「アスカさんの子です。ここにいてはいけません」
「……なるほど」
司祭の口元が、わずかに歪む。
「それをわかっていて、か」
乾いた音が、ひとつ鳴った。司祭が指を鳴らした。
周囲の助祭たちの列の隙間から、影が四つ、滑り出る。東西南北を塞ぐように、間合いを取って立った。身のこなしが軽やかだった。
顔は覆われ、装束も黒い。
それぞれの手には、短い刃が握られていた。中央の握りから左右へと枝分かれした、三叉の鉄器。蝋燭の光が鈍く反射している。
康正とアリアナは囲まれた。
アリアナが、ゆっくりと剣を抜いた。金属が擦れる音が、空間にわずかに響く。
「その赤子はな」
司祭が言った。
「次なる戦場の英雄を生み出す要だ。下賤が触れてよいものではない」
「ユウタは無実です」
アリアナが言い切る。
司祭が、眉をわずかに動かす。
「ユウタ?」
「彼は無精子症です。子を作れません。アスカさんの夫にはなり得ない」
「ああ……」
思い出したように、司祭が小さく頷く。
「あの不良品のことか」
わずかに首をひねる。
「それで、ここへ来たのか」
アリアナは答えない。
代わりに、剣を持つ手をわずかに上げた。もう一方の手を、刀身の上に滑らせる。なぞるように。その軌跡に沿って、赤い光が走る。
刃の表面を舐めるように、炎が揺らめく。
「……軍の魔術師か」
司祭が呟く。
「この子の血液を調べます」
アリアナは言う。
「すぐにわかるでしょう。ユウタの子ではないと」
「不良品の周りには、不良品が集まるものだな」
司祭は、わずかに肩をすくめた。
「中に入ったかどうか――それだけだ。交接からひと月で加護は失われる。そして寵愛の加護は、子へと移る」
司祭は、片手を上げた。わずかな仕草だった。
それで十分だった。
「血の繋がりなどなくとも──勇者ユウタは有罪である」
その言葉と同時に、四つの影が動いた。
床を蹴る音がしなかった。一直線に、アリアナへと迫る。その瞬間。
アリアナの剣が振り抜かれた。炎が、弾ける。地を這うように伸びた火は、蛇のようにうねりながら、迫る影へと食らいつく。
空気が焼ける音が、遅れて響く。
「ヤスマサさん、逃げてください!」
火の蛇が地を這う。身をくねらせ、一直線に突き進む。最初に飛び込んできた影を、呑み込むように絡みつき、そのまま焼き潰した。
女の悲鳴が響いて消え入る。
間髪入れず、その勢いのまま祭壇の脇へ向かう蛇。
司祭の顔が歪み、声にならない叫びが喉で裂ける。蛇が食らいついた。衣が燃え、肉の焼ける匂いが立ちのぼる。
康正は赤子を抱えて走った。腕の中で、かすかな動き、温もりが重さとなる。
助祭たちが、悲鳴を上げていた。静まり返っていた空間が、一瞬で崩れ去る。誰もが一斉に動き出す。押し合い、ぶつかり合い、方向も定まらないまま出口へと殺到する。康正は、その流れに紛れた。人と人の隙間を縫うように、前へ出た。
振り返らなかった。振り返れば、足が止まりそうだ。
視界の端に赤い閃きが走る。アリアナの魔術だろう。刃が交差する音、何かが倒れる気配。
それ以上は、見えなかった。
出口の暗がりを抜けた瞬間、空気が変わった。
夜だった。冷えた風が、頬を打つ。
外は砂と岩の地帯。黒く沈んだ地面の上を、蝋燭の明かりから解き放たれた人影が、ばらばらに走っていく。誰もが逃げていた。
康正も、その中に混ざった。砂に足を取られ、身体がぶれる。それでも止まることはできない。ただ前へ、前へ。
岩の裂け目へ向かって、人の流れが集まっていく。そこへ入れば、道は細くなる。
逃げ切れるかもしれない。そう思ったときだった。
背後で、空気が揺れた。反射的に、康正は身体をひねる。振り返る余裕はなかった。だが、何かが迫っているのは分かる。
足音が、ひとつだけ違う。速い。
追ってきている。
そのまま走り続ける。腕の中の赤子を、さらに抱き寄せた。息が荒くなり、視界が狭まる。止まれない。
背後から刃の気配が走った。
届く。
そう思ったとき、横合いから衝撃が入る。金属のぶつかる音──弾かれた気配が、背後へ流れる。
康正は足を止めた。振り返るとエミリアの姿があった。装束の上から、盾と剣を構えている。低く身を沈め、刺客との間に割って入っていた。
「エミリアさん!」
「行ってください。その子をお願いします」
エミリアと追手の刃と刃が交じり合う。
礼を告げる時間もなかった。康正は走り出し、岩の裂け目へと入る。両側を挟まれるような狭い道を、他の助祭たちとともに駆け抜ける。
息せき切った喉に、砂が入ってくる。
やがて裂け目を抜けると、視界が開けた。遠くに、夜の街並みの灯りが見える。かすかな光が、救いのように輝いている。
そこへ向かって走った。砂の上を、必死に。
そのときだった。
振り返るより早く、衝撃が来た。身体が前に跳ねる。背中を蹴り飛ばされたのだとわかった。前へ投げ出される。
腕から、赤子が離れた。転がる。
小さな布の塊が砂の上で止まると、泣き声が上がった。鋭く、夜を裂くような声が。
「……っ」
康正は這うようにして手を伸ばす。抱き寄せた。腕の中に戻る温もりに、わずかに息をつく。
その背中へ、気配が迫っている。刃が振り下ろされようとしている。振り返らずともわかった。気配だけで。
寸前、横合いから影が飛び込んできた。──蹴り。
鋭い一撃が、刺客の身体を横へ弾く。康正と、敵との距離が開いた。
立っていたのは、アリアナだった。彼女は息が荒く、装束は裂け、血が滲んでいる。だが立っている。
剣を構えると再び火が灯った。夜の闇に、赤い光が揺れる。火の蛇が地を這う。踊るように、うねりながら、刺客へと迫る。
刺客は、それを躱す。速い。人の動きではない。踏み込み、間合いに入ると短い刃が閃く。
剣で受けるとアリアナの身体が揺れ、血が散った。
応酬が始まった。
そこへ火の蛇が牙を剥く。
ぶつかる。弾ける。砂が舞う。何度も。
刺客の細い針のような刃が突き込まれる。そのたび、アリアナの動きがわずかに鈍る。火が消えかける。
アリアナが歯を食いしばる。再び火が灯った。強引に押し戻したようだった。
炎が膨れ上がる。蛇の頭が割れ、二匹に分裂した。
刺客の視線がそちらへ向いた一瞬、アリアナが動く。彼女の剣が、まっすぐに突き出されていた。そのまま、相手のふところへ踏み込んだ。
腹部を深く貫いた刃は、背中へ抜けていた。
刺客の動きが止まる。腕が項垂れ、二本の短剣が砂に落ちる。アリアナが剣を引き抜くと、膝から崩れ落ちた。
アリアナの身体も前へと傾いた。砂の上に、彼女は倒れた。火の蛇が、ほどけるように消えていく。
砂漠に静けさと元の闇が戻る。きらめく街並みを背景に、助祭たちの無数の黒い小さな影が見えている。
康正は、アリアナの傍まで歩いた。走らず、ゆっくりと。
彼女の傍で膝をつく。
「この子だけでも……」
アリアナが震える手を持ち上げた。康正の腕の中の赤子、その頬にそっと指先で触れ、弱々しく、かすかに笑った。
「……ユウタの子なら、よかったのに」
ぽつりと言った。視線が赤子に向いたまま。
「……よくないことを、思ってしまいました」
息が乱れる。咽て、吐血する。途切れ途切れの言葉で、
「……すみま、せん。もう、あの人を、助けられない気がして」
そこまで言って、赤子から手が離れた。
沈黙が落ちる。助祭たちの足音も、もう聞こえなかった。風音と、地面を砂が流れる音する。
その間を断つように、康正は言った。
「僕なんだ」
抑揚のない声だった。
一拍ほど遅れて反応し、アリアナが康正を見る。しばらく目を合わせ、また沈黙が流れる。間の抜けた蒼白な顔が、凍結する。
数秒遅れて、その目がわずかに見開かれると、彼女は小刻みに震えだし、呼吸は乱れはじめる。
康正は、それを見て小さく頷く。
「僕なんだ」
もう一度言った。諭すように。確認するように。
アリアナの唇が、かすかに動く。
「あなたは……彼女を……」
最後まで言い切れないようだった。
康正は、少しだけ視線を落とした。否定せず、ただほんのわずか首を縦に動かす。
空気が、重く沈む。
「……どうして……」
喉を締められたような声で、アリアナが言う。
赤子を抱き直し、康正は立ち上がった。砂を踏み潰す音がする。
「好きなんだ。飛鳥が」
小さく言いながら背を向けた。
それだけだった。
アリアナが何か言った気がした。振り返らず、康正はそのまま歩き出した。
振り返ることもなかった。
それから一週間後。
晴天の広場には、人が溢れていた。石畳の上に設えられた処刑台を囲むように、幾重にも群衆が重なっている。
怒号が飛び交っていた。
「殺せ!」
「冒涜者が!」
「よそ者め!」
「何が勇者だ!」
誰が叫んでいるのかも分からない。声は重なり、形を失い、ただの熱として場に渦巻いている。
建物の陰から、康正はそれを見ていた。壁に背を預けるでもなく、ただ立っている。
ローブを深く被り、顔は影に沈んでいる。その胸元で、赤子が身じろぎした。外套の内側に抱き寄せるようにして、布で覆う。
ざわめきが一段、強くなる。
処刑台へ、男が引き出されてきた。
裕太だった。
両腕を拘束され、膝をつかされる。抵抗する様子は見えなかった。何か言おうとしているようにも見えたが、ここまでは声は届かない。
顔が上げられる。表情は、距離のせいか、はっきりとは分からない。
視線だけが、わずかに動いたように見えた。群衆の方へ向いたのか、それとも別の何かを探したのか。判別はつかなかった。
すぐに、首が台に固定される。
罵声がさらに膨らむ。
「殺せ!」
「早くやれ!」
「罪を償え!」
誰かが石を投げた。
それを皮切りに、小さなものがいくつも飛んだ。何が当たっているのかは、遠目には分からない。
やがて、執行人が位置につく。一瞬、場の熱が揺らいだ。
刃が落ちる。
乾いた音が、遅れて届いた。
群衆がどよめく。歓声に近いものと、叫びが混ざる。何が起きたかは、見なくても分かった。
康正は動かなかった。ただ、その場に立っていた。
赤子が、わずかに声を上げる。布越しに押さえるように抱き直す。しばらくして、康正は身を引いた。
広場の喧騒から離れるように、路地へ入る。石造りの建物が並ぶ通りに出ると、人の気配はまばらだった。
通りの一角、店先にテーブルと椅子が出ている。年嵩の男が一人、腰掛け、紙を広げていた。
新聞だった。風にめくれかけた紙面の一部が、視界の端に入る。
小さな見出し。
町工場の飴から、薬物が検出されたとする記事。
被害の有無は不明とだけ書かれている。
詳しい内容までは読めない。
康正は足を止めず、そのまま通り過ぎた。
建物の中は、静かだった。
白いカーテンが、窓からの風に揺れている。光が柔らかく拡散し、室内を満たしていた。
ベッドの上で、飛鳥は枕に背を預け、上体を起こしていた。その傍に、エミリアの姿もあった。椅子に座り、彼女の様子を見ている。
扉の開く音に、二人が顔を上げた。
康正は何も言わずに近づいた。ベッドの脇へ回り、腕の中の赤子を飛鳥へと差し出した。
言葉はなかった。
飛鳥の抱き寄せる動きは、ゆっくりとしていた。赤子を見下ろすと、彼女の口元がわずかに緩む。
視線が上がり、康正へ向けられる。
何も知らないままの笑みだった。
康正はそれに応じた。
そのまま、立ったまま見下ろす。
赤子を抱く飛鳥を、ただ康正は見ていた。
カーテンが揺れる。




