16人目の助聖女
聖堂協会病院は、土地勘の乏しい康正でさえ知る、ここ王都でもっとも巨大な総合病院だ。
「大聖堂の倉庫にある在庫の飴が、勝手にここへ移されていた。アスカさんと助聖女しか食べないはずの飴が。アスカさんか助聖女がこの病院にいるからでしょうか」
「医者が必要なのは妊娠している飛鳥の方です」
「ヤスマサさんは、工場の方からは何も知らされていないんですか?」
康正は首を振った。
「工場長か社長に確認するのを忘れてました。でも二人も知らないと思いますよ。知ってたら言うだろうし。あの警備員が知っていたのは聖堂の脇の甘さだとして、聖堂側は、あの飴を必要とする誰かが、この病院にいることを知られたくなかった……とか?」
「行ってみる価値はありそうです」
意気込むアリアナの足は、病院の建物へ入るなり真っすぐ受付へ向かった。康正もその背を追ってゆくが、簡単に通してもらえるわけもなく。
「申し訳ありません。そのような方はこちらには入院しておられないようです」
そういった看護婦の表情に、康正は強張りを見た。どこか不自然な硬さを感じる。アリアナは普通に訊ねただけだというのに、何を苛立つことがあるのか。
アリアナが腕章をちらつかせ、小声で、
「急を要する事態なのです。アスカさんに合わせてください」
「そう言われましても……」
康正はアリアナから離れ、ある廊下の奥へと歩いた。すると人気の途切れた曲がり角の先に、半ば開いた扉があるのが見えた。『関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートが掛かっている。
傍の扉の隙間から白い布の塊が見えていた。部屋のなかを覗くと、それは洗濯用のカートだった。金属製の枠に、まとめられたシーツや衣類が積まれている。
「……リネン室でしょうか」
受付前にいたはずのアリアナが傍に立っていた。いつの間に話を切り上げたのか。
康正は返事をせず、カートの中を見る。白い布の隙間に、折りたたまれた白衣が混ざっていた。
康正は白衣を引き抜いて、
「これ、使えませんか」
アリアナは辺りを気にしつつ受け取る。
「短時間なら」
彼女は軍服の上から白衣を羽織った。丈の長さが都合よく軍服を隠した。
思い付きだった。康正はカートの中へ片足から入った。
「しょ、正気ですか」
「他に方法もないでしょ」
数秒の沈黙のあと、アリアナは小さく息を吐き、
「すぐ行きますよ」
康正は頷き、カートの中に身体を滑り込ませた。冷たい布の感触が首元に触れ、視界が白で塞がれる。上からシーツが被せられた。
「私がいいと言うまで動かないでください」
「すぐそこに『関係者以外立ち入り禁止』とプレートのある扉があります」
「そこへ行けということですか」
「……任せます」
やがて、カートが動き出す。金属の軋む音と、床を転がる車輪の振動。視界は洗濯物に満たされているが、進んでいることだけはわかった。
誰かとすれ違った気配がした。
「遅れてますよ」
男の声だった。
「すぐ行きます」
アリアナが短く答える。カートは止まらない。
やがて方向を変えるように揺れ、空気がわずかに変わった気配を康正は感じた。受付のざわめきが遠のいた気がした。
アリアナの足音が止まった。
「ヤスマサさん、確かめてもらえませんか」
布がめくられ、光が差し込んだ。康正は、カートの上で立ち上がる。
生活感のない部屋だった。清潔すぎるほど白く、整っている。最小限の機材しかない。
窓には白い布が垂らされ、外の様子は遮られている。光だけが均一に落ちている。影が薄い。
室内は静まり返っていた。人の出入りがある場所に見えない。
部屋の中央に、ベッドがひとつだけ置かれていた。周囲には余計なものがない。椅子も、私物も見当たらない。
その上に、ひとり。
白いシーツに包まれた身体が横たわっていた。胸元のわずかな上下だけが、かろうじて生を示している。
康正はカートから降り、ゆっくりと歩み寄った。枕元に立ち、顔を覗き込む。
乱れた髪が頬にかかっている。額には乾ききらない汗。血の気は薄いが、意識が完全に途切れている様子ではない。
腹部はすでに大きくなかった。だが、張りの抜けた輪郭がわずかに残っている。シーツの下で、身体は重たげに沈んでいた。
康正はわずかに目を細める。
「……飛鳥です」
短くそう言った。それは紛れもなく飛鳥だった。
背後にアリアナの近づく気配がした。康正は視線を外さず、そのまま口を開いた。
「飛鳥」
呼びかけた。肩をゆするのではなく、とんとんと叩いた。
まぶたが、わずかに持ち上がった。焦点の定まらない視線が室内を彷徨い、やがて康正のところで止まる。
「……康くん」
かすれた声だった。
「どうして、ここに……?」
「飛鳥こそ、何でこんなところに」
飛鳥の視線が、ゆっくりと横へ滑る。
「……その人は?」
「アリアナといいます」
アリアナは一歩前へ出た。
「アスカさん、力を貸していただけませんか。ユウタが大変なんです」
康正はすぐに口を挟んだ。
「待ってください。飛鳥は起きたばかりなんです」
「しかし……時間がありません」
「裕太が、どうかしたの?」
飛鳥が康正とアリアナを交互に見る。
「ユウタは来週、処刑されます」
間を置かずにアリアナは答えた。
飛鳥は、わずかに口元を歪めた。困ったような、理解が追いつかないような笑みだった。
「……どういうことですか」
アリアナが一歩、ベッドに近づく。
「アスカさんのお腹の子の父親が、ユウタなのではないかと疑われています。大聖女の処女を奪い……力を奪ったことで、反逆罪を掛けられています」
言葉を選ぶように、一拍置いてから続けた。
「教えてください。あなたはその……ユウタと肉体関係を持ったのですか」
飛鳥は答えなかった。
ただ、ゆっくりと首を横に振る。そして視線を、康正に向けた。康正はその視線を受け止めたまま、何も言わなかった。
「これを見てください」
アリアナが日記を開く。
「時間がありません。単刀直入にお聞きします。六月一〇日に、何かいつもと違うことはありませんでしたか」
「六月一〇日……」
飛鳥は目を細めた。
「昨年のことです。ユウタは一カ月ものあいだ、自身の爆撃魔術の弱体化について悩んでいました。その最初の異変が――」
「六月一〇日……」
飛鳥が、先回りするように呟いた。
「妊娠が発覚したのは、いつだったか覚えていますか。だいたいで構いません」
「昨年の……七月八日」
ほぼ即答だった。
康正は、アリアナの視線が一瞬こちらに向いたのに気づいたが、応じなかった。視線は飛鳥に据えたままだった。
「七月八日は、ユウタの力が完全に弱体化した日です」
アリアナはページを見せる。
「六月一〇日は、その二十八日前にあたります。飛鳥さん、その日、何かありませんでしたか」
短い沈黙のあと、
「……眠ってたんです」
飛鳥が言った。
「眠っていた?」
「いつも通り、祈祷を上げるために礼拝堂に集まって……それで、気づいたら」
言葉を探すように、視線が揺れる。
「眠ってたんです」
「どういうことですか」
「目が覚めたら、助聖女たちもみんな眠っていて……起こしました。本当は、駄目なんですけど」
「駄目?」
康正が口を開いた。
「助聖女には話しかけちゃいけないんです。彼女たちは白い礼服に、フードと仮面でいつも顔を隠してます」
「そういう決まりなんです」
飛鳥が小さくそう頷き、
「その日……ひとり、来てなかったんです」
「来てなかった? その、助聖女がですか?」
「はい。寝坊したと、あとで聞きました」
「誰からですか」
「エミリアです。私の身の回りの世話をしてくれていました」
「エミリア……」
アリアナが小さく繰り返す。
「でも変なんです」
飛鳥は続けた。
「始める前、助聖女は確かに十六人いました。私は毎回、数を確認してから祈祷を始めるので」
「助聖女の数は十六人と決まっているのですか」
「はい」
「始める前は十六人。目が覚めると十五人。そのひとりは寝坊していたと説明された」
「そうです」
康正はそこで、ようやく口を開いた。
「飛鳥、妊娠してたんだろ?」
康正の視線はシーツの上にあった。膨らんでいない、飛鳥の腹のあたりに。
飛鳥はわずかに息を吸い、
「そうだった! 康くん、今日、生まれたんだよ」
飛鳥がそう言って弱々しく微笑んだときだった。
「あそこです!」
扉が開いて誰かの声がした。
アリアナが即座に振り返る。続いて足音。複数。こちらへ近づいてくる。
「行きましょう」
アリアナが言った。
康正が飛鳥を見つめたまま動かなかった。
「逃げないと」
康正の腕をアリアナが掴む。
引かれるままに、身体が動く。
入ってきたのとは反対側の扉へアリアナは向かった。別の扉が乱暴に開く音がした。警備が入ってくる。
病院から少し離れた路地へ入ると、人通りは途切れていた。石壁に囲まれた細い道に、二人分の足音だけが残る。
アリアナはすぐに足を止めた。呼吸はほとんど乱れていない。対して康正は肩で息をしている。胸の奥が熱い。
ふと振り返った康正は、遠くの、白い外壁の建物を見つめた。聖堂協会病院がここから見えていた。
「大丈夫ですか」
アリアナの声で、視線を外す。
「……平気です。一応、肉体労働者なので」
「違います」
アリアナは一拍置いて、
「アスカさんのこと、好きなんですか」
不意打ちだった。康正は眉をわずかに動かす。裕太が好きか、彼女に訊ねたことを思い出した。
「仕返しですか」
「そういうわけでは」
アリアナはそれ以上追及せず、
「整理しましょう」
誤魔化すように言った。指で順に数えながら、
「まず、助聖女は十六人。ですが、アスカさんが目を覚ましたときは十五人だった。ひとりは“寝坊”」
間を置く。
「そのことを伝えたのが、エミリアという世話係。おそらくは聖堂協会から派遣された職員でしょう」
康正は黙って聞いた。
「六月一〇日、アスカさんは礼拝堂で意識を失った。その間の記憶はない」
アリアナの声が、わずかに低くなる。
「……そして、そのあとに妊娠が発覚している」
沈黙が落ちた。
「つまり」
言いかけて、言葉が止まる。
康正は横目で見た。言い切るかどうか、彼女が迷っているのがわかった。
「その間に、アスカさんは──」
結局、アリアナは濁した。康正も何も言わなかった。
アリアナは小さく息を吐いた。
「修道院へ行きましょう。寝坊して来なかった、十六人目の助聖女から話を聞く必要があります」
「無理だと思いますよ」
「なぜですか」
「言ったでしょ、顔を隠してるって。誰が助聖女かは秘匿されてるんです」
アリアナは一瞬だけ黙り込んだ。すぐに頷く。
「ではエミリアという人物を探しましょう。聖堂協会の職員で、アスカさんの身の回りの世話をしていると言っていました」
「いつまで続けるつもりですか」
「はい?」
「その人に会って、助聖女から話を聞いて、そこからどうやって裕太を助けるつもりですか」
「それは……」
「処刑、来週ですよ? 今から動いても、間に合う保証なんてない」
アリアナの表情が張り詰めた。
「ヤスマサさんは、ユウタの同郷のご友人では? よくそんなことが言えますね」
「想いは通じるとか思ってる口ですか?」
アリアナの唇が震える。
「アリアナさんの上官が言ってましたよね、上が決めることだって。いくら想ったって、裕太の処刑日は変更されない」
「……ユウタを見捨てるということですか」
「合理性の話をしてるんです。仮にその助聖女を見つけられたとして、何の役に立つんです?」
アリアナの口元が笑った。
「わかりますよ。アスカさんの近くにいたいのですよね」
「……違うといったはずです」
康正は抑揚なく言った。
「本当は喜んでるんじゃないんですか?」
アリアナが煽るように畳みかけ、
「ユウタが処刑されれば、アスカさんを独り占めできますもんね。その方が都合いいですよね」
康正は相手にしなかった。許すような顔だった。真一文字に結んだ口元を、わずかに笑みがあるかどうかというところで留めた。
沈黙があった。アリアナの口元が痙攣している。
「生産性のない問答です」
康正は静かに応えた。
「仮にそうであったとしても、飛鳥が好きなのは裕太です。裕太も飛鳥が好きです。アリアナさん……僕とあなたには、何の番も回ってきません」




