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第九話 戻れない席 1

タブレットが、短く震えた。


音ではなく、指先に伝わる振動だけで通知を知らせる仕様らしい。天城はカウンターの内側で手を止め、視線を落とした。画面はすでに点灯している。


表示は簡素だった。


――――――

店名:食堂 しろがね

依頼者:瀬尾

時刻:18:40

場所:藍庭地区 外縁

状況:客一名、滞留。営業に支障あり。

優先度:中

――――――


それだけだった。


症状の記載はない。年齢も性別もない。ただ「滞留」という言葉だけが、妙に引っかかった。


「……滞留」


小さく呟く。


病気でも、怪我でもない。だが放置できない状態。昨日聞いた説明が、頭の中で重なる。


――壊れる前に戻すもの。


天城はタブレットの画面を消し、コートを手に取った。時間はまだ余裕がある。だが、こういうものは遅れていい種類ではない気がした。


店を出ると、藍庭の空気は落ち着いていた。灰坂のような濁りはない。風は通り、匂いも軽い。だが、その分、音が妙に残る。足音が一拍遅れて耳に届くような感覚があった。


通りを抜ける。店が点在しているが、どこも過剰に主張してこない。灯りも控えめで、客の気配も薄い。静かすぎるわけではない。ただ、均されていない。


指定された場所はすぐに見つかった。


「食堂 しろがね」


看板は古いが、手入れはされている。暖簾が揺れていた。中から、出汁の匂いが流れてくる。昆布と鰹、それに少しだけ油の匂いが混じっている。食欲を引くはずの匂いだった。


だが、天城は一歩手前で足を止めた。


匂いは正しい。だが、どこか輪郭が曖昧だった。鼻に入ってくるのに、奥に残らない。掴めないまま抜けていく。


一瞬だけ考えて、やめる。


判断するには材料が足りない。


暖簾をくぐる。


中は、想像していたより狭かった。カウンターと、テーブル席がいくつか。客は数人いる。会話はあるが、どれも短く、すぐに途切れる。笑い声もあるが、広がらない。


音が、少しだけ鈍い。


食器が触れ合う音が、ほんのわずかに遅れて耳に届く。気のせいかもしれない。だが、気のせいで片付けるには、妙に揃っている。


「……いらっしゃい」


カウンターの奥から声がした。中年の男だ。瀬尾だろう。手は動いているが、視線だけが天城を一瞬だけ捉え、すぐに外れた。


忙しい、というより、余裕がない。


天城は軽く頷き、店内を見回した。


そのとき、視界の端に引っかかるものがあった。


テーブル席の一つ。


男が一人、座っている。


姿勢が崩れているわけではない。背筋は伸びている。だが、動きがない。手は箸を持ったまま止まっている。皿の上の料理は、半分ほど手つかずで残っていた。


湯気は、もう立っていない。


横に置かれた水だけが、少し減っている。


視線は皿の上に落ちているが、焦点が合っているのか分からない。瞬きの間隔が、少しだけ長い。


周囲の客は、それを見ていない。


いや、見ないようにしている。


店主の手元が一瞬だけ乱れた。すぐに戻る。だが、その一瞬で十分だった。


空気が、そこで止まっている。


天城はゆっくり息を吸った。


匂いが、やはり掴めない。


出汁のはずなのに、身体に落ちてこない。


理由は、まだ分からない。


ただ、何かが噛み合っていないという感覚だけが、確かにあった。


天城はその席に視線を残したまま、一歩だけ店の中へ進んだ。

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