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第十話 戻れない席 2

天城はカウンターの端に立った。


「……瀬尾さんですか」


声を抑えて言う。


男は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を戻した。


「そうだ」


手は止めない。包丁の音が一定の間隔で続いている。


「依頼の件で」


「ああ」


短い返事だった。


それ以上の言葉はない。だが、視線だけが一度、店の奥へ滑る。


例の席だ。


天城も同じ方向を見る。


「あの客ですか」


瀬尾は小さく息を吐いた。


「そうだ」


少しだけ間を置く。


「騒ぐわけじゃないんだ」


包丁の動きが、ほんのわずかに遅れる。


「注文もする。返事もする」


音が戻る。


「でも……進まない」


天城は黙って聞いていた。


「最初はな、疲れてるだけかと思ったんだ」


瀬尾は鍋に手を伸ばし、火を弱める。


「でも、三十分だ」


「ずっと、あのまま」


視線を上げずに言う。


「席が空かない」


一拍置く。


「……それだけなら、まだいい」


その言い方が、少しだけ引っかかった。


天城は何も言わない。


瀬尾が続ける。


「なんか、おかしいんだ」


ようやく、手が止まった。


「他の客もな」


小さく顎をしゃくる。


「長居しない」


「食って、すぐ出ていく」


「会話も続かない」


包丁を置く音が、やけに乾いて聞こえた。


「回ってるはずなのに、回ってない感じがする」


天城はゆっくり頷いた。


「……分かりました」


それだけ言って、カウンターを離れる。


店の中へ、一歩踏み込んだ。


空気が、少しだけ重くなる。


さっきと同じはずなのに、違う。


意識した途端に、輪郭が浮かび上がる。


匂い。


出汁の香りはある。だが、やはり抜ける。鼻に入って、残らない。油の匂いが、わずかに浮いている。


音。


皿の触れる音。椅子の軋み。どれも遅れて届く。ほんのわずかだが、揃っている。


温度。


暑くはない。だが、空気が動いていない。


呼吸が、浅くなる。


天城は足を止めた。


視線を、あの席に向ける。


男は、同じ姿勢のままだった。


箸を持った手が、わずかに震えている。だが動かない。皿の上の料理は、冷めきっている。


湯気は消え、表面に油が薄く浮いていた。


水の入ったグラスに手を伸ばす。


一口飲む。


喉が動く。


だが、それだけだった。


表情は変わらない。


天城は少し距離を詰めた。


足音を抑える。


男の横に立つ。


反応はない。


「……」


声はかけない。


まず、見る。


呼吸。


浅い。間隔が短い。


胸だけで吸っている。


唾液。


口元が乾いている。舌が動いていない。


瞬き。


遅い。


だが、止まってはいない。


視線。


皿に落ちている。


焦点が合っているのか、分からない。


天城は、皿を見る。


料理は、きちんと作られている。


崩れてはいない。


だが、温度が死んでいる。


冷えた油が、表面に膜のように広がっている。


匂いは、ある。


だが、ここでも同じだった。


掴めない。


「……」


天城はわずかに息を吸う。


身体に、入ってこない。


原因は、一つではない。


水か。


空気か。


この男か。


それとも、全部か。


断定はできない。


だが、はっきりしていることが一つだけあった。


――止まっている。


時間が、ではない。


この男の中の順番が。


食べる、飲む、呼吸する。


その繋がりが、どこかで途切れている。


天城は視線を外し、店内を見回した。


他の客は食べている。


会話もある。


だが、続かない。


一つの話題が、すぐに途切れる。


誰も長く留まらない。


視線は、あの席を避けている。


関わらない。


踏み込まない。


空気が、そこを中心に歪んでいる。


天城はもう一度、男を見た。


動かない。


だが、壊れてはいない。


「……」


小さく息を吐く。


まだ、触らない。


もう少し、見る必要がある。


何を戻せばいいのか。


それを間違えれば、壊す。


天城は一歩だけ距離を取り、カウンターの方へ視線を戻した。


瀬尾がこちらを見ていた。


何も言わない。


ただ、待っている。


天城は、わずかに頷いた。


まだ、分かりきってはいない。


だが、方向は見え始めている。


この店の中で、


何かが、噛み合っていない。

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