第十一話 戻れない席 3
天城は、もう一度だけ店内を見回した。
視線は自然と、あの席に戻る。
男は変わらない。
だが、完全に閉じているわけではない。
呼吸はある。反応もある。
止まっているのは、ほんの一部だ。
天城はゆっくりと歩み寄った。
今度は、声をかける。
「……食べられますか」
男の目が、わずかに動いた。
焦点が合うまで、ほんの一拍遅れる。
「……はい」
返事は明確だった。
だが、箸は動かない。
天城は、少しだけ間を置いた。
「味は、分かりますか」
男は視線を皿に落としたまま、答える。
「……分かります」
「どういう味ですか」
数秒、沈黙が落ちる。
「……普通、です」
その言葉に、温度はなかった。
天城は、グラスに目を向ける。
「水は」
男は、ゆっくりと視線を動かした。
「飲めてますか」
「……はい」
「どんな感じですか」
また、止まる。
考えている。
だが、言葉が出てこない。
「……水、です」
それだけだった。
天城は小さく息を吐いた。
理解はしている。
認識もある。
だが、それが“繋がらない”。
天城は、皿に視線を落とす。
男の前に置かれた料理。
すでに冷えきっている。
表面に浮いた油が、薄く固まりかけている。
湯気はなく、匂いも弱い。
だが、完全に消えているわけではない。
「……」
一歩だけ下がる。
店の空気を、もう一度吸う。
やはり同じだった。
入ってくる。
だが、残らない。
身体に、落ちない。
カウンターの方へ戻る。
瀬尾が、すぐに口を開いた。
「どうだ」
天城は答えず、先に聞く。
「……水、ずっと同じですか」
瀬尾が一瞬だけ眉を寄せる。
「水?」
「はい」
「……ああ。配管そのままだ。変えてない」
「温度は」
「特に調整はしてない」
短い沈黙。
天城は続ける。
「出汁は、今日のものですか」
「ああ」
瀬尾は視線を外した。
「……時間は、少し短い」
それ以上は言わない。
天城は頷く。
店内をもう一度見る。
客はいる。
料理も出ている。
だが、どこかで止まっている。
流れが、繋がっていない。
天城はゆっくりと息を吐いた。
原因は、一つじゃない。
水。
匂い。
空気。
そして、この男。
どれか一つではなく、
全部が、少しずつ噛み合っていない。
「……」
視線を、男の皿へ戻す。
「瀬尾さん」
振り返らずに言う。
「……この人の料理、少し味見してもいいですか」
一瞬だけ、店の音が遠くなった。
瀬尾は何も言わない。
止めもしない。
天城は箸を取る。
男の前に置かれた、冷めきった料理。
それを一口分、すくい上げる。
わずかに立ち上る匂いを、もう一度確かめる。
やはり、軽い。
抜ける。
掴めない。
そのまま、口元へ運ぶ。




