第七話 杯の仕事
朝、天城は一階の扉の前に立っていた。結局、継ぐことにした。行くあてもなく、住む場所もない。郊外での野宿は昨夜だけで十分だと理解したからだ。狙われるのは御免だった。鍵を回し、扉を押す。店内の空気は昨夜と変わらない。静かで、乾いた木の匂いが残っている。カウンターに手を置いた瞬間、背後でドアベルが鳴った。
振り向くと、黒いスーツの三人組が立っていた。男が二人、女が一人。表情は揃って穏やかだが、揃いすぎていて逆に不自然だった。
「天城さんですか?」
「……はい」
「お話があって来ました」
三人は当然のように中へ入り、カウンターの前に並んだ。女が小型のタブレット端末を取り出し、テーブルに置く。
「単刀直入に言います。現時点で、このバーは常時営業してはなりません」
天城は眉をひそめた。
「とある方からの紹介状を持った顧客の予約が、この端末に入ります。予約が入ったときのみ、開けてください」
「それ以外の時間は?」
「他店舗からの『助けて』に対し、あなたの“杯”で応えていただきます」
天城の動きが止まった。
「……杯?」
思わず聞き返す。
「杯とは? なぜ杯なんだ?」
黒スーツの女は、手元のタブレットから視線を上げずに答えた。
「医療は、壊れたものを直すための制度です。診断が必要で、病名が必要で、記録が必要になる」
男の一人が続ける。
「ですが郊外で起きている多くの事象は、“病気”ではありません」
「焦燥、過集中、恐慌、執着、衝動」
女は淡々と並べた。
「それらは、基準値からの逸脱ではあっても、診断名を持たない。つまり医療は介入できない」
短い沈黙。
「しかし、放置すれば暴発する」
別の男が言った。
「杯は、その介入のための例外措置です」
「薬は壊れてから使うもの。杯は壊れる前に戻すもの」
「診断も、記録も不要です」
「味覚、嗅覚、体温、代謝。複数の経路に同時に作用する」
女がタブレットを軽く叩いた。
「制度外の調整手段。それが杯です」
天城は黙ったまま、それを聞いていた。
「休みたい日は、理由を明記して申請してください。承認されます」
男の一人が軽く笑う。
「決まりを破った場合、お仕置きがあります」
「……お仕置き?」
三人が一瞬、顔を見合わせる。
「例えば、威厳ある“女王様役”に公開で軽くお尻を叩かれるとか」
女がさらりと言う。
「熱烈すぎるキス魔のマスコットに、頬を真っ赤にされるかもしれません」
最初の男が締めた。
「猫耳とお髭で、店先に立って一日中“招き猫”を務める羽目になることも」
天城の脳内で映像が再生され、思わず白目を剥きかけた。――社会的に終わる。心が持たない。こいつら、本気で心を折りに来ている。
「……分かりました」
この場はやり過ごす。それが最善だと判断した。
女が続ける。
「なお、雇えるのは二人まで。それ以上はお仕置き対象です。雇用した方が規則を破った場合、連帯責任となりますのでご注意を」
「最初の仕事は、本日夕方に届きます。それまでお待ちください」
三人は一礼し、そのまま出て行った。ドアベルが短く鳴る。
静けさが戻る。
しばらくして、背後の扉が開いた。老婆だった。
「来たか」
「……ええ」
老婆は店の奥を指した。
「こっちだ」
カウンターの脇、気づかなければ壁に見える扉があった。押すと、静かに開く。中は小さな応接室のようになっている。低い照明、対面のソファ、外とは切り離された空気。
「夫がな、親しくなった人間をもてなすための部屋だ」
老婆は言う。
「つまり、この店にはもう一つの“バー”がある。外で杯を出す場所と、ここで言葉を交わす場所だ」
天城は室内を見回した。
「ここで繋がりを作り、知識を積み上げた。客は酒だけを求めて来るわけじゃない」
少し間を置いて、老婆が続ける。
「薬はな、壊れたもんを直すためのもんだ。だが、杯は違う。崩れかけを戻すんだ」
天城は顔を上げた。
「夫はな、とある人間に暗殺された」
室内の空気が、わずかに重くなった。




