第六話 居場所の獲得
老婆と天城が店を出たあと、パブの中にはしばらく静けさが残っていた。カウンターの端に座っていた男が、グラスの底を指でなぞりながら言った。「……灰坂から、あの婆婆のところまで辿り着くとはな」向かいにいたもう一人が、小さく鼻を鳴らす。「奴らに食われもせず、か」「運がいいのか、悪いのか」男は少しだけ笑った。「多分、あそこに行く」短い沈黙のあと、もう一人が言う。「……あの人に、電話しとくか」グラスが置かれる音だけが、小さく響いた。それ以上は誰も言わなかった。店の中の空気は、何事もなかったように静かに戻っていった。
夜道を歩きながら、天城はしばらく無言だった。灰坂の匂いがまだ鼻の奥に残っている気がする。呼吸をするたび、喉の奥がざらついた。老婆が前を歩きながら言った。「何をやっとった」唐突だった。「……仕事ですか」「仕事でもいいし、学んどったことでもいい」天城は少し考えた。「工学です。設計とか、解析とか……」「ほう」老婆はそれ以上深くは聞かなかった。しばらく歩いてから、また言う。「なんで外に出た」天城は少しだけ間を置いた。「……解雇されました」「そうか」それだけだった。慰めも、同情もない。ただ受け取っただけの返事だった。しばらくして、老婆がもう一つだけ聞いた。「戻る気はあるのか」天城は答えなかった。戻れる場所があるのかどうか、それすら分からない。老婆は、それ以上は何も言わなかった。
やがて、老婆が足を止めた。「着いたぞ」目の前には、二階建ての建物があった。古いが、荒れてはいない。看板は色あせているが、外されてはいない。扉の前の床には、最近掃いたような跡がある。中に入ると、ひんやりした空気があった。長いカウンター。整然と並ぶ瓶。磨かれた金属器具。使われていないはずなのに、放置された店の匂いがしない。「ここはな」老婆が言った。「昔、夫がやっとった店だ」天城は棚に目を向けた。酒だけではない。背表紙の擦れた本が並んでいる。薬学、心理学、哲学、調香学。どれも専門書だった。「……俺に、何をしろと」老婆は言った。「継げ」短い言葉だった。天城はすぐに首を振った。「無理です」自分でも驚くほど早い返事だった。「俺、酒なんて詳しくないですし……人を相手にする仕事、向いてるとは思えない。さっきのも、たまたまです」老婆は少しだけ笑った。「出来る奴ほど、最初はそう言う」天城は何も言えなかった。
しばらくして、老婆はカウンターの下から紙を取り出した。古びた地図だった。手書きで、ところどころに書き足された跡がある。端の方は破れ、消された名前の跡もある。「ここが灰坂」指が一か所を叩く。「さっきの場所だ」少し離れた場所を指す。「ここは藍庭。静かな場所だ。小さい店が多い」さらに別の場所を指す。「砂渡。人の入れ替わりが激しい。長居する場所じゃない」もう一つ、濃く塗られた区域を指した。「錆路。昔の工場の跡だ。機械を触る奴が多い」天城は黙って見ていた。郊外は思っていたよりはるかに広い。中心都市の何倍もある。しかも、まだ何も書かれていない空白が多い。「この店はここだ」小さな印が付いていた。天城はしばらく地図を見つめていた。自分が立っている場所が、初めて形を持った気がした。
「……俺に、出来るんですか」
老婆は肩をすくめた。「やるかどうかは、あんたが決めることだ」
店の中は静かだった。外の風の音だけが、遠くで鳴っている。天城は答えなかった。だが、帰る場所がないという事実だけは、はっきりしていた。




