第五話 灰坂を離れろ
腕を引かれたまま、天城は走っていた。
背後からの足音は、まだ消えていない。怒号も混じっている。距離は離れたはずなのに、完全に途切れない。曲がり角をいくつも抜け、ようやく老婆が足を止めた。
天城は壁に手をつき、荒い呼吸を整えようとする。喉の奥が乾いていた。舌が上顎に貼りつく感覚が残っている。
老婆は振り返りもせず言った。
「灰坂に入ったら命はない」
淡々とした声だった。脅しでも忠告でもない。ただ事実を述べている調子だった。
「……灰坂?」
天城が聞き返すと、老婆は短く言う。
「まずはここを離れるぞ」
それ以上は語らない。天城も黙って歩いた。聞きたいことは多かったが、今は言葉を挟む空気ではなかった。
しばらく進むと、空気が変わった。匂いが薄くなり、物音が減る。視線が消える。人はいるのに、誰も他人を見ない。
やがて、古びた扉の前で老婆が止まった。
中に入ると、静かな空間だった。古いパブのような場所で、木の匂いがする。乾いた樽の香りに混じって、わずかに柑橘の皮の匂いが残っていた。照明は暖かく、音が吸われるように小さい。客は二人だけ。こちらを見ない。
老婆はカウンターに座った。
「ここなら聞こえん」
天城も隣に座る。ようやく呼吸が落ち着いてきたが、走ったあとの震えがまだ腕の奥に残っていた。指先がかすかに揺れる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて老婆が言った。
「あんた、腕いいな」
唐突だった。
天城は眉をひそめる。
「……何の話ですか」
「さっきの処方だ」
天城の指がわずかに止まる。
老婆は続ける。
「陳皮を使ったな。乾いたやつだ。揮発を抑えるために刻みが粗い。苦味はカカオだろう。ニブを軽く砕いた」
天城は何も言えなかった。
老婆は水を一口飲んで言う。
「蜂蜜を先に感じさせて、あとから苦味を残した。甘味で気を抜かせて、苦味で頭を起こす。順番を分かっとる」
天城の背筋に冷たいものが走る。
「あの男はな、思考が止まらん状態だった。眠れん。焦燥だけが回る。舌が乾ききってた。瞬きも増えとった。呼吸も浅かった」
「……見てたんですか」
「見とらん」
老婆は即答した。
「匂いと間で分かる。ああいうのはな、頭をどうこうするんじゃない。体から戻す」
沈黙が落ちる。
老婆は続けた。
「柑橘の匂いはな、鼻から直接くる。呼吸が変わる。レモンの皮も入れたろう。唾液が戻る」
天城は完全に言葉を失った。
「媒介は軽い蒸留のものだな。ジンか。量はごく少ない。血を巡らせるだけでいい。酔わせたら戻らん」
そこまで言って、老婆は初めて天城を見た。
「違うか?」
「……合ってます」
自分でも驚くほど小さな声だった。
老婆はふっと息を吐いた。
「やっぱりな」
しばらくして、老婆は指でカウンターを軽く叩いた。
「冷やさなかったのもいい。温度が落ちると舌が鈍る。味が鈍ると、体は動かん」
天城は黙って聞いていた。
老婆は続ける。
「香りの重ね方も見とる。最初に飛ぶ匂い、あとに残る匂い、順番を作っとるな。調香をかじっとる」
天城の視線が止まる。
老婆は言った。
「トップを軽くして、あとから残す。あれは香水の作り方だ」
天城は何も言えなかった。
「あと……哲学も読んどる」
完全に固まった。
「効かせようとしてない。壊れんところまで戻すだけにしとる。あれはストア派の考え方に近い。外を変えず、反応だけ戻す」
天城は息を飲んだ。
「それに、体から戻すやり方を選んどる。頭を直接触らん。あれは現象学の発想だ。身体が先に世界を取り戻す」
店の奥でグラスの触れ合う音がした。
老婆は水を飲み、静かに言った。
「あんた、ここの人間じゃないな」
「……分かりますか」
「歩き方で分かる。足を置く前に周りを見とる。慣れとらん」
短い沈黙。
やがて老婆が言った。
「あんた、家あるのか」
天城は少し考えた。
「……ありません」
答えた瞬間、それが現実として胸に落ちた。帰る場所はない。
老婆は頷いた。
「なら案内してやってもいい」
天城は顔を上げた。
老婆は少しだけ間を置いた。
「ただし」
声が低くなる。
「条件がある」
店の外で、風が一度だけ強く吹いた。
扉の鈴が、かすかに鳴った。




