第三十六話 地図にない灯 1
翌朝。
天城は。
目を覚ました瞬間から。
非常に嫌な気分だった。
理由は。
夢にまで出てきたからだ。
白衣の老人が。
巨大なコーヒーカップを抱え。
雲の上から叫んでいた。
『天城君!』
『雲だけに――』
そこで目が覚めた。
「……。」
天城は布団の中で天井を見る。
数秒。
「最後まで聞かなくてよかった……。」
本気で思った。
⸻
顔を洗う。
湯を沸かす。
コップに注ぐ。
「白湯……。」
口から出た瞬間。
止まる。
「……。」
頭の中。
勝手に。
さゆなら。
という言葉が浮かんだ。
天城は。
静かにコップを置いた。
「博士。」
誰もいない部屋で。
低い声。
「本当に俺の頭から出ていけ。」
当然。
返事はなかった。
⸻
昨日まで。
二日間の空白だった。
前半は。
風呂でクラゲになりたいと思い。
後半は。
親父ギャグで腹筋を破壊されかけた。
そして今日。
本業。
テーブルの上。
タブレット。
昨夜届いたHelpを。
もう一度開く。
⸻
HELP REQUEST
地区:白燈
対象店舗:灯守亭
対象者:店主
状態:異常
⸻
「……。」
天城は。
眉を寄せた。
昨日見た時と。
内容は変わっていない。
問題は。
その下。
⸻
所在地情報を取得できません。
⸻
「店から依頼が来てるのに。」
天城は画面を操作する。
「場所が分からないってどういうことだよ。」
検索。
白燈。
結果。
⸻
該当する地区はありません。
⸻
もう一度。
漢字を変えず。
完全一致検索。
⸻
該当なし。
⸻
灯守亭。
⸻
店舗情報が見つかりません。
⸻
住所検索。
⸻
無効な地域名称です。
⸻
「……。」
天城は椅子へ深く座った。
Helpは来ている。
送信元も存在する。
依頼者もいる。
なのに。
地図上には。
存在しない。
「いたずら……。」
そこで止めた。
あの組が管理している仕事で。
そんなものが届くとは考えにくい。
それに。
案件を断れば。
例の。
よく分からないお仕置きがある。
「……。」
一瞬。
昨日の妄想が蘇った。
黒いスーツの三人。
巨大な木箱。
側面。
⸻
お仕置き
⸻
「いや。」
天城は首を振った。
「考えるな。」
中身が分からないものは。
想像するほど怖くなる。
だったら。
住所が分からない方を考えた方が。
まだ建設的だ。
⸻
タブレットを横へ置く。
天城は。
店の奥。
古い書棚へ向かった。
前の店主が残した本。
酒。
薬草。
料理。
植物。
地誌。
そして。
大量の古い地図。
何のために集めていたのか。
未だに分からない。
「……白燈。」
何冊目か。
古い地域図。
紙は黄ばんでいる。
今の行政区画とは違う。
市町村の線も。
妙に曖昧。
指で辿る。
藍庭。
灰坂。
錆路。
砂渡。
そして。
「……あった。」
小さく。
確かに書かれていた。
⸻
白燈
⸻
天城の指が止まった。
現在の地図では。
そこには別の道路番号しか表示されていない。
だが。
この古地図では。
住宅地らしい細かな路地が走っている。
さらに。
白燈という文字の上。
黒い鉛筆で。
一本。
横線が引かれていた。
「……。」
天城は目を細める。
誰が引いた。
前の店主か。
それとも。
もっと以前の所有者か。
地図の端。
小さな手書き。
読み取れそうで。
読めない。
紙を光へ透かす。
「……八時?」
そこだけ。
なんとか読めた。
その下は。
滲んでいた。
八時――
何だ。
八時に何がある。
天城は。
地図を畳んだ。
「行けば分かるか。」
こういう時。
自分でも。
面倒な性格だと思う。
分からないものを。
分からないままにしておけない。
⸻
昼前。
天城は藍庭を出た。
空は薄曇り。
風は弱い。
まだ店の軒先には。
昨日の雨が少し残っている。
道を進むにつれて。
景色が変わっていった。
新しい舗装。
整った街灯。
自動案内板。
それが。
一つずつ。
減っていく。
代わりに増えるのは。
古い住宅。
閉じた商店。
手書きの貼り紙。
錆びた自転車。
人の手で直された排水溝。
「……。」
地図上では。
この辺りに白燈という名称はない。
しかし。
道端。
古い電柱。
消えかけたプレートに。
わずかな文字。
⸻
白――
⸻
途中から削られている。
天城が近付く。
「……誰かが消した?」
風化にしては。
妙だった。
文字の部分だけ。
削られている。
⸻
さらに歩く。
ナビ。
⸻
目的地に到達できません。
⸻
「まだ着いてない。」
再検索。
⸻
経路を再計算します。
⸻
ぐるぐる。
数秒。
⸻
目的地が存在しません。
⸻
「言い方。」
天城は思わず突っ込んだ。
場所が分からないなら。
分からないと言えばいい。
存在しないとまで断定する必要はない。
「……AIって。」
「たまに自信満々に失礼なんだよな。」
ふと。
博士の顔が浮かぶ。
『自信だけなら私もあるぞ!』
「……。」
天城は。
頭を振った。
「出てくるな。」
⸻
旧道へ入る。
そこで。
妙なものを見つけた。
古いバス停。
屋根は錆びている。
時刻表は剥がされている。
路線名もない。
ただ。
支柱の上。
丸いプレート。
白い塗料の下から。
古い文字が透けていた。
天城は。
指で埃を払う。
⸻
白燈入口
⸻
「……。」
あった。
間違いなく。
ここだ。
しかし。
バス停の検索をかける。
⸻
この停留所は登録されていません。
⸻
天城は。
スマートフォン。
バス停。
古地図。
三つを順番に見る。
「……存在してるじゃないか。」
思わず。
口から出た。
返事は。
なかった。
代わりに。
「ですよね?」
背後。
突然。
若い男の声。
「!」
天城が振り返った。
そこに。
青年が立っていた。
年齢は。
二十代前半くらい。
黒髪。
少し癖がある。
大きなリュック。
片手にスマートフォン。
もう片方。
古びた紙袋。
服装は質素。
しかし。
表情だけは。
妙によく動く。
困っているのが。
一目で分かる。
青年は。
天城の顔を見る。
次に。
バス停を見る。
また天城を見る。
「すみません。」
少しだけ。
日本語のイントネーションが独特だった。
「ここ。」
スマートフォンを見せる。
画面。
⸻
住所が存在しません。
⸻
天城の眉が動く。
青年が言う。
「僕。」
「さっきから三回。」
指を立てる。
一本。
二本。
三本。
「同じところ通ってます。」
天城は。
後ろの道を見る。
「……三回?」
「はい。」
青年は真剣だった。
「一回目。」
「道、間違えたと思いました。」
「二回目。」
「スマホ壊れたと思いました。」
「三回目。」
一拍。
青年は。
とても困った顔で。
「僕が壊れたのかなって。」
天城。
「そこまで行く前に人に聞きましょう。」
「聞きました。」
「誰に。」
青年は。
道の向こうを指した。
自動販売機。
「……。」
天城は。
ゆっくり青年を見る。
「人じゃないです。」
青年も自販機を見る。
「やっぱり。」
「なぜ途中まで気付かなかったんですか。」
「喋ったので。」
「最近の自販機は喋ります。」
「日本、難しいですね。」
「そこは日本関係ないです。」
青年は。
少し笑った。
天城は。
紙袋へ視線を移す。
古い茶色の袋。
そこに。
手書き。
⸻
白燈三丁目 灯守亭
⸻
天城の目が。
僅かに見開かれた。
「……それ。」
青年。
「はい?」
「どこへ行くんです。」
紙袋を見る。
青年も見る。
「灯守亭です。」
「……。」
同じ。
天城の案件。
青年の目的地。
完全に一致している。
「誰に頼まれたんです?」
「知り合いです。」
「何を届ける。」
「これ。」
「中身は?」
青年は。
少し悩んだ。
そして。
「開けちゃ駄目って言われてます。」
「……。」
まとも。
そこだけは。
妙にまともだった。
天城は古地図を広げる。
青年が。
ものすごく近くへ寄ってくる。
「近い。」
「あ、すみません。」
一歩離れる。
「見えました?」
「全然。」
「じゃあ近付いていいですよ。」
「許可制なんですか?」
「知らない人なので。」
「それは正しい。」
青年は。
また覗き込む。
二人。
古地図を見る。
白燈入口。
そこから。
細い旧道。
さらに奥。
三丁目。
灯守亭。
らしき印。
青年が。
ぽつり。
「ある。」
天城。
「ありますね。」
スマートフォン。
⸻
存在しません。
⸻
紙の地図。
⸻
白燈三丁目。
⸻
実際のバス停。
⸻
白燈入口。
⸻
青年が。
首を傾げる。
そして。
とんでもなく自然な顔で。
言った。
「地図が間違ってるんですか。」
天城が見る。
青年は続ける。
「それとも。」
少しだけ。
声が落ちた。
「人間の方が。」
「間違ってるんですか?」
風が。
止まったように感じた。
天城は。
青年を見る。
さっきまで。
自動販売機に道を尋ねていた男。
なのに。
時々。
妙なことを言う。
天城は古地図を畳んだ。
「……少なくとも。」
青年が見る。
「自動販売機に道を聞いた人間については。」
一拍。
「少し怪しいですね。」
青年。
「そこまだ引っ張ります?」
「引っ張ります。」
「忘れてください。」
「無理です。」
青年が。
心底困った顔をした。
天城は。
ほんの少し。
笑った。
そして。
白燈へ続く道を見る。
古い住宅の間。
細い坂。
その向こう。
今の地図には。
何もない。
だが。
風に混じって。
かすかに。
何かの匂いがした。
出汁。
炭。
醤油。
そして。
夕方でもないのに。
どこか。
懐かしい。
料理の匂い。
青年が。
先に鼻を動かした。
「……美味しそう。」
「分かります?」
「めちゃくちゃ。」
「……。」
天城も。
もう一度。
匂いを追う。
その先。
電柱と古い家の隙間から。
小さな看板。
ほんの一瞬。
見えた。
⸻
灯――
⸻
風。
揺れる木の枝。
次に見た時には。
もう隠れていた。
青年が。
天城を見る。
「行きます?」
天城は。
少し考え。
「……目的地が同じなら。」
歩き出す。
青年も。
ついてくる。
三歩。
天城が止まる。
「そういえば。」
青年。
「はい。」
「名前。」
青年は。
少し驚いた顔をした。
そして。
笑う。
「李です。」
「李?」
「李海斗。」
一拍。
「り・かいと。」
天城は。
その名前を。
まだ何の意味もなく。
ただ聞いた。
この青年が。
これから。
自分の店で。
毎日のようにグラスを割り。
客の名前を異常なほど覚え。
空気を読まず。
人の心だけは。
妙に読んでしまうことも。
まだ知らない。
二人は。
地図にない道へ。
歩き出した。
その少し先。
白燈。
そして。
灯守亭。
さらに。
この時。
二人ともまだ知らなかった。
白燈では。
昔から。
こんな言葉が残っている。
⸻
八時の水を沸かすな。
白い輪が立った家から。
地図が先に死ぬ。
⸻
その意味を。
天城が知るのは。
もう少し。
先のことだった。




