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第三十五話 豆知識は、だいたいいらない ― 4 帰るまでが親父ギャグです ―

「返せ!」


「嫌です!」


「それは私の研究手帳だ!」


「今、俺も研究してます!」


珈琲研究所『豆知識』。


藍庭と錆路の境。


六角通りの一本裏。


その店内を。


七十前後の白衣の老人と。


元エンジニアの男が。


一冊の手帳を巡って走り回っていた。


「天城君!」


久世笑造が叫ぶ。


「はい。」


「年長者を敬いたまえ!」


「研究対象に年齢は関係ありません!」


「それはそうだが!」


「認めるんですか!」


窓際の老婦人が。


机を叩いて笑っている。


陽斗も。


「博士!」


「追いつけてない!」


「うるさい!」


「腰が!」


「博士、腰!」


「腰ではない!」


久世が走りながら叫ぶ。


「戦略的低速移動だ!」


天城が振り返る。


「ただ遅いだけでしょう!」


「待てぇ!」


久世が一歩踏み込む。


白衣の裾を踏む。


「おっ。」


ぐるん。


一回転。


そのまま。


近くの椅子へ。


すとん。


綺麗に座った。


「……。」


全員。


沈黙。


久世は。


何事もなかった顔で。


脚を組んだ。


「計算通りだ。」


「嘘つけ!」


店内が爆笑した。


⸻


数分後。


手帳は返された。


久世はそれを胸に抱えている。


「まったく。」


「人の研究記録を勝手に見るとは。」


天城はカウンターへ戻った。


「俺を勝手に観察してた人に言われたくないです。」


「私は店主だ。」


「権限ありませんよ。」


「では今作る。」


久世は紙を一枚取り出した。


さらさら。


⸻


珈琲研究所『豆知識』利用規約


第一条:店主は客を観察してよい。


⸻


天城が紙を取った。


破った。


「制定から三秒!」


久世が叫ぶ。


「民主主義です。」


「ここ私の店!」


「じゃあ独裁だったんですか。」


「珈琲独裁国家だ。」


陽斗が即座に。


「豆主主義。」


「……。」


全員が陽斗を見る。


陽斗自身が。


ゆっくり口を押さえた。


「……今。」


老婦人が指差す。


「自分から言ったね。」


「違う。」


「完全に第五段階だ。」


久世が手帳を開く。


陽斗 5.3


「小数点やめろ!」


⸻


天城は。


久世の手元にある分厚いノートを見る。


表紙。


たった一文字。


⸻


笑


⸻


「ところで。」


天城が言う。


「それ。」


久世がノートを抱き寄せる。


「渡さんぞ。」


「盗りません。」


「さっき盗った。」


「借りました。」


「無断で。」


「……。」


「盗ったな。」


「話を進めてください。」


老婦人がまた笑う。


久世は渋々。


ノートをカウンターへ置いた。


「これが何か。」


「そうです。」


天城はページを開く。


そこには。


意外にも。


びっしり。


記録が書かれていた。


⸻


日時


店内人数


会話人数


初来店・常連


最初の笑いまでの時間


他者の笑いにつられた回数


自発的発話


客同士の会話発生


⸻


天城はページをめくる。


「……ちゃんと研究してる。」


久世が眉を上げる。


「失礼だな。」


「この店に五時間いれば。」


「誰でも疑います。」


「五時間?」


天城が止まった。


時計を見る。


「……。」


午後六時過ぎ。


「え。」


もう一度。


見る。


「……六時?」


陽斗が笑う。


「時間感覚消えた?」


「いや。」


天城は本気で困惑していた。


「まだ三時くらいだと。」


久世が腕を組む。


「楽しい時間は早く過ぎる。」


天城は久世を見る。


「今。」


「普通にいいこと言いましたね。」


久世。


「時は金なり。」


「はい。」


「だから私は。」


嫌な予感。


「時給が欲しい。」


「ただの労働相談になった!」


⸻


久世はノートを開く。


「そもそも。」


「笑いそのものだけを調べているわけではない。」


「じゃあ何を?」


陽斗が聞く。


久世は。


店の中を見る。


「初めて来た客。」


「一人で来た客。」


「誰とも話さない客。」


「そういう人間が。」


「どの瞬間に。」


「知らん奴と話し始めるか。」


天城は。


今日の出来事を思い出す。


自分も。


入店した直後。


知らない常連客と話した。


権田が笑えば。


全員で突っ込んだ。


救急車が来れば。


全員で黙れと久世を止めた。


年齢も。


仕事も。


名前すら知らない人間もいる。


それなのに。


一緒に笑った。


久世が続ける。


「笑いは。」


「内容だけで起こるわけではない。」


「誰かが笑っている。」


「相手の顔を見る。」


「呼吸が変わる。」


「声が聞こえる。」


「場の期待がある。」


「いろんなものが重なる。」


天城が頷く。


「笑いが伝染するように見える。」


「うむ。」


「人間には。」


「他人の表情や声に反応する性質がある。」


「ただし。」


久世は指を一本立てた。


「“笑えば全部健康になる”などと。」


「雑にまとめてはいかん。」


天城が久世を見る。


「そこはちゃんとしてるんですね。」


「当然だ。」


「人間はそんなに単純ではない。」


久世は胸を張った。


そして。


一拍。


「私以外は。」


天城。


「自分は単純なんですか。」


久世。


「天才だからな。」


「話が繋がってません。」


⸻


入口のベル。


カラン。


全員が見る。


入ってきたのは。


佐伯だった。


午後に会社へ戻った新聞男。


「ただいま……。」


疲れ果てている。


天城が驚く。


「戻ってきたんですか。」


佐伯は。


無言で椅子へ座った。


久世。


「仕事は?」


「終わった。」


「会議は?」


佐伯の肩が。


びくっ。


天城は気付いた。


「……まさか。」


佐伯は両手で顔を覆った。


「やった。」


陽斗。


「何を。」


「会議で。」


佐伯は。


絶望した声。


「部長が。」


「“この数字、桁合ってる?”って聞いてきたんです。」


一同。


「……。」


「俺。」


佐伯の声が震える。


「無意識に。」


一拍。


「“けた違いだったら桁違いですね”って。」


「ぶっ!」


陽斗が崩れた。


老婦人が。


「あはははは!」


天城も。


カウンターへ手をつく。


「成立してるのが……!」


佐伯が叫ぶ。


「そこなんですよ!」


「部長が!」


「三秒くらい黙ったあと!」


「“今日はもう帰れ”って!」


久世が。


感動している。


「社会進出。」


「感染症みたいに言うな!」


「第五段階を越えた。」


天城。


「まだ上があるんですか。」


久世はホワイトボードへ書く。


⸻


第六段階


職場伝播


⸻


佐伯。


「消せぇぇぇ!」


⸻


さらに。


カラン。


また客。


「あら。」


昼間の峰子。


買い物袋を持っている。


「忘れ物。」


「何を?」


老婦人が聞く。


「傘。」


久世が棚から一本出す。


「これか。」


「それ。」


久世が渡す。


峰子。


「ありがと。」


そのまま帰ろうとする。


しかし。


入口で振り返った。


「そうそう。」


「帰りに魚屋寄ったらね。」


全員。


なんとなく聞く。


峰子。


「鯛が安かったの。」


「……。」


店内の空気が。


変わる。


天城が。


嫌な予感で。


目を閉じる。


陽斗が。


口を押さえる。


老婦人が。


顔を伏せる。


佐伯が。


「言うなよ……。」


と呟く。


峰子。


「夕飯に買いたいんだけど。」


「……。」


「……。」


「……。」


峰子が首を傾げる。


「何?」


天城が耐える。


「何でもありません。」


「鯛を?」


久世が聞く。


全員。


「博士!!」


久世。


「買いたい?」


峰子。


「そう。」


店内。


限界。


陽斗。


「鯛を!」


老婦人。


「買いたい!」


佐伯。


「言わせるな!」


天城。


「もう完成してるんですよ!」


峰子が。


ようやく理解する。


「あ。」


一拍。


「鯛を買いたい。」


自分で言う。


「……ふふ。」


その一笑。


全員。


崩壊。


「自覚したぁ!」


「本人が完成させた!」


「天然物やめて!」


峰子。


「何なのこの店!」


天城。


「俺も昨日までそっち側だったんですよ!」


⸻


ひとしきり笑ったあと。


峰子は傘を持って帰った。


佐伯も。


「明日は会社で絶対喋らない。」


と言って帰った。


陽斗も帰る。


老婦人も本を閉じる。


気付けば。


店内には。


天城と久世だけ。


夕方。


六角通りの窓から。


橙色の光が入っていた。


「……。」


静かだ。


天城は。


妙な感じがした。


数時間前まで。


あれだけ騒がしかったのに。


久世はカウンターを拭いている。


「博士。」


「なんだ。」


「今日。」


「結局。」


「何個ギャグ言ったんです。」


久世の手が止まる。


「数えておらん。」


「記録好きなのに。」


「重要なデータではない。」


「一番記録した方がいいところでしょう。」


「では君は。」


久世が言う。


「何回笑った。」


天城が止まる。


「……。」


覚えていない。


最初は。


数えられていた。


三回。


四回。


そこから先。


分からない。


久世が笑う。


「それでいい。」


天城はカップを見る。


空。


久世が。


「もう一杯?」


「いりません。」


「そうか。」


「はい。」


「では。」


久世は冷蔵庫を開ける。


「帰る前にソーダでも。」


天城は。


反射的に。


「そうだな。」


「……。」


「……。」


完全な沈黙。


久世が。


ゆっくり。


冷蔵庫から顔を出す。


天城の目が。


見開かれる。


「……。」


久世。


口角が上がる。


天城。


「違う。」


久世。


「今。」


「違います。」


「自分から。」


「日本語として普通の返答です。」


「ソーダに。」


「違う!」


久世が。


カウンターを両手で叩いた。


「完成したぁぁぁ!!」


「してない!!」


久世はホワイトボードへ走る。


天城も追う。


「書くな!」


久世。


⸻


天城 第四段――


⸻


天城が消す。


「やめろ!」


久世がもう一度。


親父化


天城。


消す。


久世。


完成


消す。


久世。


そうだな


消す。


「文字で追撃するな!」


久世は笑いながら。


ペンを高く掲げる。


天城が奪おうとする。


「返せ!」


「俺の記録を書くな!」


「歴史的瞬間だぞ!」


「人類史から消してください!」


⸻


五分後。


二人とも。


疲れて椅子に座っていた。


「……。」


天城が息を整える。


久世も。


「年寄りを走らせるな。」


「あなたが逃げたんでしょう。」


「良い運動だ。」


「なら良かったですね。」


久世。


「運動だけに。」


天城。


「もういい。」


「まだ何も言っておらん。」


「先が分かる。」


久世が嬉しそう。


「成長したな。」


天城は頭を抱えた。


「だから嫌なんですよ……。」


⸻


会計。


天城が代金を置く。


久世が受け取る。


「今日は随分長居したな。」


「予定外です。」


「また来るか。」


天城は。


即答しようとした。


二度と来ない。


そう言うつもりだった。


しかし。


少しだけ考える。


コーヒーは。


かなり美味かった。


知識も。


妙に役に立った。


客も。


変だったが。


悪くなかった。


そして。


何より。


久しぶりに。


仕事と関係なく。


腹が痛くなるほど笑った。


「……暇なら。」


久世の眉が上がる。


「ほう。」


「ただし。」


天城は指差す。


「一日十個まで。」


「何が。」


「親父ギャグ。」


久世は真剣に考える。


「十一。」


「十。」


「十・五。」


「小数点でギャグ言う気ですか。」


「午前十、午後十。」


「倍にするな。」


「では二十。」


「交渉下手すぎるでしょう!」


久世が豪快に笑った。


「また来たまえ。」


⸻


扉。


カラン。


外。


夕暮れの六角通り。


天城は店を出た。


数歩。


立ち止まる。


振り返る。


⸻


珈琲研究所『豆知識』


一杯の珈琲と、いらない知識をあなたに。


⸻


天城は。


少しだけ笑った。


「……いらないものばっかりだったな。」


歩き出す。


三歩。


「……。」


止まる。


「いや。」


レトロネーザル。


抽出条件。


水質。


プライミング。


文脈。


笑いの連鎖。


呼吸。


筋疲労。


意外と。


使える知識が多かった。


「……店名。」


振り返る。


「詐欺だな。」


その時。


窓が。


ガラッ。


と開いた。


久世が顔を出す。


「天城君!」


「何です!」


「忘れ物!」


「何を!」


久世が。


何かを投げた。


天城が受け取る。


小さな紙袋。


開ける。


中。


コーヒー豆。


「……。」


久世。


「豆だけに!」


天城が叫ぶ。


「マメに来いはもう聞いた!!」


久世。


「違う!」


一拍。


「それは。」


胸を張る。


「餞別だ!」


「普通!!」


久世。


「たまにはな!」


窓。


ぴしゃ。


閉まった。


天城は。


道の真ん中で。


紙袋を持ったまま。


しばらく動かなかった。


そして。


「……ふっ。」


笑った。


「最後普通なのが一番ずるいだろ。」


⸻


店へ戻った頃。


外はすっかり暗くなっていた。


天城は紙袋をカウンターへ置く。


「……。」


風呂。


飯。


今日はもう。


何も考えたくない。


特に。


語呂合わせ。


絶対に。


考えたくない。


そこへ。


タブレット。


ピコン。


「……。」


天城が見る。


画面。


⸻


次回案件 受付開始


⸻


「来たか。」


天城は椅子へ座る。


開く。


⸻


店名:未登録


地区:白燈


状況:店主異常


優先度:中


⸻


「……白燈。」


聞き覚えがある。


夫の書棚。


古い地図。


線を引かれ。


消されていた地区。


天城の指が。


画面の上で止まる。


「……。」


今日一日。


親父ギャグで埋め尽くされていた頭が。


少しだけ。


仕事へ戻る。


そして。


詳細欄。


⸻


対象店舗:飲食店


⸻


天城は。


小さく息を吐いた。


「飲食店か。」


一拍。


今日の久世が。


頭の中に浮かぶ。


『豆だけに――』


天城は首を振った。


「消えろ。」


もう一度。


画面を見る。


白燈。


そして。


呟く。


「……行ってみるか。」


タブレットを閉じる。


その瞬間。


頭の中。


勝手に。


⸻


白燈だけに、白い灯り――


⸻


天城の目が。


見開かれた。


「……。」


数秒。


「博士。」


誰もいない店内で。


低い声。


「俺の頭から出ていけ。」


返事はない。


当然だった。


天城は。


額を押さえる。


「……完全に侵食されてる。」


次の案件は。


明日。


そして。


天城にとって初めての。


存在しない地区からのHelp。


その前夜。


最大の問題は。


中央でも。


AIでも。


消された街でもなかった。


親父ギャグが。


頭から。


抜けない。


ことだった。

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