第三十四話 豆知識は、だいたいいらない ― 3 救急だけに急きゅう…… ―
午後三時二十六分。
珈琲研究所『豆知識』。
店内には。
妙な静寂が訪れていた。
理由は一つ。
権田の前に置かれた札。
⸻
本日のギャグ摂取上限に達しました
⸻
「……。」
権田は札を両手で持っていた。
その向こう。
久世笑造は。
腕を組んで立っている。
天城。
陽斗。
老婦人。
そして他の常連客たち。
全員。
久世を見ていた。
「博士。」
権田が言う。
「今日もう、本当に駄目だからね。」
「何がだ。」
「親父ギャグ。」
「私は何も言っておらん。」
「その顔がもう怖いんだよ。」
天城は深く頷いた。
「分かります。」
久世は不満そうだ。
「随分と信用がないな。」
「今日一日で自分が何をしたか思い出してください。」
「珈琲を淹れた。」
「そこだけ抜き出すな。」
⸻
権田はまだ腹を押さえていた。
先ほどから笑いすぎて。
腹筋が。
ぴく。
ぴく。
と小さく痙攣している。
「……これ。」
権田が顔をしかめる。
「ほんとに攣ってきた。」
天城が少し身を乗り出した。
「力抜いてください。」
「笑い続けると。」
「腹部の筋肉が繰り返し収縮します。」
久世も頷く。
珍しく。
まともだった。
「横隔膜も呼吸筋も使う。」
「笑って息を吐き続ければ。」
「呼吸も乱れやすい。」
天城。
「一旦喋らない。」
「姿勢を楽にして。」
「ゆっくり呼吸してください。」
権田が頷く。
「分かった。」
「水も。」
久世がグラスを置く。
「飲めそうなら少しずつだ。」
「ありがと。」
権田は水を一口。
ふう。
呼吸。
もう一度。
ふう。
「……。」
店内全員が。
静かに見守る。
ようやく。
平和。
誰も笑わない。
誰もギャグを言わない。
十秒。
二十秒。
三十秒。
権田の呼吸も。
落ち着いてきた。
「……だいぶマシ。」
老婦人。
「よかったねえ。」
陽斗。
「博士が黙れば治る。」
久世。
「私が薬だったということか。」
天城。
「逆です。」
「毒側です。」
久世が。
わずかに傷ついた。
その時だった。
権田が水のグラスを見た。
そして。
ぽつり。
「……水が。」
全員が見る。
「水が?」
権田自身の口元が。
わなわな震える。
「みず……。」
天城の嫌な予感。
「権田さん。」
「何も言わなくていいです。」
「いや。」
権田が耐えている。
「水飲んだら。」
「みず……。」
陽斗。
「言うな。」
「みず……。」
老婦人。
「駄目だよ。」
「みず……。」
久世が。
少し期待した顔をする。
天城。
「博士、その顔やめろ。」
権田。
「みずから治った……。」
「――っっ!!」
店内。
崩壊。
「自分で言ったぁ!!」
陽斗が机を叩く。
老婦人が本で顔を覆う。
新聞の男性が椅子からずり落ちる。
天城まで。
「っは、はは……!」
久世だけが。
感動したような顔をしていた。
「第五段階。」
「自家発電。」
天城。
「分類を増やすな!」
権田は。
笑いながら。
また腹を押さえた。
「だめ!」
「また!」
「腹!」
「博士!」
「俺、もうほんと!」
「喋れない!」
久世が真顔で言う。
「なら筆談にするか。」
「それなら……。」
久世が紙とペンを置く。
権田は。
震える手で。
⸻
もうギャグ言うな
⸻
と書いた。
久世が読む。
そして。
その下へ。
勝手に書き足した。
⸻
了解ギャグ。
⸻
「文字でも来るのかよ!!」
権田が叫んだ。
また腹筋が攣った。
「いっっっった!」
全員。
「博士ぇぇぇぇぇ!!」
⸻
三分後。
権田は。
カウンターへ突っ伏していた。
顔色は普通。
意識も普通。
会話も普通。
ただし。
腹を動かすと。
「いたたた……。」
となる。
天城が聞く。
「立てます?」
「立てる。」
権田が立つ。
二秒。
「っ!」
また座る。
「痛い。」
陽斗。
「筋肉完全に怒ってる。」
老婦人。
「笑いすぎで救急車なんて聞いたことないよ。」
久世は腕を組んだ。
「私もない。」
天城。
「原因のお前が言うな。」
久世が天城を見る。
「お前?」
天城が固まった。
「……。」
店内。
沈黙。
天城は額を押さえる。
「すみません。」
「つい。」
久世が嬉しそうに手帳を出す。
天城 言葉遣い崩壊
と書く。
「記録するな!」
⸻
権田が腹を押さえながら。
ぼそり。
「……一応。」
「念のため。」
「誰か。」
「救急車……。」
全員が止まった。
天城も。
久世も。
さすがに。
止まった。
久世が真顔になる。
「分かった。」
「呼ぼう。」
天城は少し安心した。
こういう時は。
ちゃんとする。
やはり。
博士というだけは――
久世が端末を取る。
そして。
ぽつり。
「救急だけに。」
天城が。
ものすごい勢いで。
端末を奪った。
「言うな。」
「まだ続きが。」
「言うな。」
「急きゅ――」
「黙れ。」
「……。」
「今だけは。」
「黙ってください。」
久世は。
しょんぼりした。
陽斗が腹を抱える。
「博士。」
「顔!」
「その顔が一番面白い!」
権田。
「笑わせないでぇぇ!」
⸻
通報。
状況を説明。
意識あり。
呼吸問題なし。
会話可能。
ただし腹部の筋肉痛と痙攣が強い。
笑い続けたあとから。
電話口の相手が。
一瞬。
沈黙した。
天城は言った。
「はい。」
「笑いすぎです。」
また沈黙。
「いえ。」
「冗談ではなく。」
久世が横から。
小声で。
「冗談は私だ。」
天城が。
久世の口を手で塞いだ。
⸻
十数分後。
店の前。
救急車。
赤色灯。
ただし。
サイレンはすでに止まっている。
近所の店主たちが。
何事かと。
ちらちら見る。
天城は。
ものすごく居心地が悪かった。
「……。」
看板を見る。
珈琲研究所『豆知識』
その前に。
救急車。
「絵面が終わってる……。」
陽斗が隣で言う。
「博士の店。」
「ついにやったな。」
「言い方。」
⸻
救急隊員が二人入ってきた。
一人は四十代くらいの男性。
もう一人は若い男性。
「救急です。」
一瞬。
店内の全員が。
反応した。
久世だけでなく。
常連客全員。
ほんのわずかに。
口元が動いた。
天城が。
恐ろしいことに気づく。
もう全員、同じことを考えている。
『救急だけに急きゅ――』
「……。」
天城は。
全員へ。
無言で人差し指を立てた。
言うな。
老婦人。
頷く。
陽斗。
頷く。
新聞男。
頷く。
イヤーマフ男。
頷く。
久世。
なぜか一番不満そう。
⸻
隊員が権田へ近付く。
「どうされました?」
権田は真面目に答える。
「笑いすぎて。」
隊員が止まる。
「……笑いすぎて?」
「腹が攣りました。」
若い隊員が。
久世を見る。
久世は。
真顔。
若い隊員の口元が。
ほんの少し動く。
天城は見た。
この人。
今。
笑いかけた。
隊員は仕事モードへ戻る。
「分かりました。」
「ちょっと状態確認しますね。」
意識。
脈。
呼吸。
腹部の状態。
質問。
「胸の痛みは?」
「ないです。」
「息苦しさは?」
「今はないです。」
「気を失ったりは?」
「ないです。」
「持病は?」
「特に。」
「分かりました。」
若い隊員。
「かなり笑ったんですね。」
権田が。
久世を指差した。
「この人のせいです。」
全員が久世を見る。
久世は胸を張る。
「店主です。」
隊員。
「……何をされたんです?」
天城。
「親父ギャグです。」
「……。」
救急隊員二人。
沈黙。
若い方が。
一度。
権田を見る。
久世を見る。
天城を見る。
「親父……ギャグ?」
「はい。」
陽斗が補足する。
「連続で。」
老婦人。
「休憩なし。」
新聞男。
「一時間以上。」
イヤーマフ男。
「防御不能。」
隊員が。
困った顔をした。
「……。」
久世が手を挙げる。
「誤解がある。」
天城。
「黙って。」
⸻
年上の隊員は。
権田へ説明した。
「強く笑ったあとに。」
「腹部の筋肉が疲れたり。」
「攣ったようになること自体はあります。」
「ただ。」
「痛みが強い場合や。」
「呼吸が苦しい。」
「胸が痛い。」
「意識がおかしい。」
「そういう時は笑いだけと決めつけずに。」
「確認した方がいいです。」
天城は頷く。
久世も。
真剣に頷く。
「なるほど。」
隊員。
「今日は念のため。」
「一度診てもらいましょう。」
権田。
「お願いします。」
そこで。
久世が。
心底感心したように。
「さすが救急。」
全員。
久世を見る。
久世。
「判断が急――」
天城。
「博士。」
「……。」
「本当に。」
「やめてください。」
久世は口を閉じた。
若い隊員が。
ぷる。
と肩を震わせた。
天城が見逃さなかった。
「……。」
隊員は。
必死に真顔。
でも。
耳が赤い。
久世も気付く。
久世が。
にや。
隊員。
「……。」
天城。
「博士。」
久世。
「何も。」
隊員。
「……っ。」
久世。
「言って。」
隊員。
「……っっ。」
久世。
「おらん。」
若い隊員が。
とうとう横を向いた。
「すみません……。」
肩が震える。
権田が。
「やめて!」
「俺それ見ても笑うから!」
若い隊員。
「すみません!」
「今……。」
「状況が……!」
年上の隊員が冷静に言う。
「笑わない。」
若い隊員。
「はい。」
久世。
「偉い。」
若い隊員。
「はい。」
久世。
「えらいだけに。」
天城が。
久世の口を塞いだ。
「本当に黙れ。」
⸻
権田をストレッチャーへ。
歩けなくはない。
しかし。
腹の痙攣が痛いので。
念のため。
楽な姿勢。
権田は運ばれながら。
久世へ指を差す。
「博士!」
「なんだ。」
「俺が戻ってくるまで!」
「ギャグ禁止!」
久世が腕を組む。
「いつ戻る。」
「今日中!」
「では。」
「今日中だけ。」
一拍。
「ちょ――」
権田。
「言うなぁぁぁ!!」
ストレッチャーの上で。
また笑う。
隊員。
「笑わないでください!」
「痛くなりますよ!」
「博士も患者さんを笑わせないで!」
久世が。
叱られた。
天城は。
この日初めて。
心から思った。
救急隊員は強い。
⸻
救急車が出発する。
店の前。
天城。
陽斗。
老婦人。
久世。
四人で見送る。
しばらく。
沈黙。
「……。」
天城は口を開く。
「博士。」
「なんだ。」
「反省してます?」
「しておる。」
意外だった。
「本当に?」
「もちろん。」
久世は真剣な顔。
「笑いには。」
「個人差がある。」
「うん。」
「筋疲労にも。」
「個人差がある。」
「はい。」
「つまり。」
天城。
嫌な予感。
久世。
「次からは。」
「個人別ギャグ許容量を測定――」
「そこじゃない。」
⸻
店へ戻る。
カラン。
妙に静かだった。
権田がいないだけで。
随分違う。
老婦人が。
いつもの席へ戻る。
「しかし。」
「初めてだね。」
「何が?」
「博士のギャグで救急車。」
陽斗。
「歴史に残ったな。」
久世が。
すぐノートを開く。
天城。
「何書くんです。」
久世は表紙へ。
⸻
重大インシデント報告書
⸻
と書いた。
「意外とちゃんとしてる。」
天城が少し感心する。
久世は一行目。
⸻
事象:権田、笑う。
⸻
「雑!」
二行目。
⸻
原因:私。
⸻
天城は。
少し止まった。
「そこは認めるんですね。」
「科学者は事実を捻じ曲げん。」
「珍しく格好いいことを。」
久世。
「ただし。」
天城。
「はい。」
久世。
「副原因として。」
書く。
⸻
権田の笑いの沸点が低い。
⸻
陽斗。
「責任分散するな!」
店内。
また笑い。
⸻
老婦人が言う。
「でもさ。」
「笑いすぎって。」
「そんなに体使うんだねえ。」
久世が椅子へ座る。
「意外とな。」
「笑うと。」
「顔だけが動くわけではない。」
「呼吸が変わる。」
「腹部も動く。」
「声も出る。」
「大笑いなら。」
「全身運動に近いくらい疲れることもある。」
天城が続ける。
「でも。」
「笑えば筋トレの代わりになる。」
「って単純な話ではない。」
「もちろん。」
久世が頷く。
「腹筋を割りたければ。」
「普通に運動しろ。」
陽斗。
「この店に毎日来るんじゃ駄目?」
「腹が先に壊れる。」
老婦人。
「実証済み。」
一同。
「……。」
そして。
また笑った。
⸻
天城は。
笑いながら。
ふと時計を見る。
午後四時。
次の案件までは。
まだ時間がある。
だが。
それよりも。
今。
気になっていることがあった。
「博士。」
「うむ。」
「さっき。」
「親父ギャグの予測を。」
「プライミングみたいな話で説明しましたよね。」
「したな。」
「笑いも。」
「周りの人間につられることがある。」
「そうだ。」
「あなた。」
天城は久世を見る。
「これ。」
「どこまで狙ってやってるんです?」
一瞬。
店内が。
少しだけ静かになる。
久世の顔から。
笑みが消えた。
天城は続ける。
「ギャグはくだらない。」
「かなり。」
「かなりを二回言うな。」
「でも。」
「客同士が勝手に話し始める。」
「知らない人同士で笑う。」
「先読みする。」
「助けてって絡む。」
「今日なんて。」
「救急隊員まで笑いかけた。」
老婦人も。
陽斗も。
久世を見る。
久世は。
しばらく黙った。
そして。
ゆっくりと。
カウンターの下から。
一冊のノートを取り出した。
分厚い。
使い込まれている。
表紙には。
たった一言。
⸻
笑
⸻
天城の目が。
少しだけ変わる。
「……それは?」
久世は答えない。
ノートを。
ぽん。
とカウンターへ置く。
そして。
天城へ言った。
「珈琲。」
「もう一杯飲むか。」
「話を逸らしましたね。」
「サービスだ。」
「だから。」
久世。
「サービスだけに――」
天城。
「博士。」
「……はい。」
「次言ったら。」
「俺が救急車呼びます。」
「私に?」
「俺の腹筋に。」
久世が。
吹き出した。
「ぶっ!」
店内が止まる。
天城も止まる。
陽斗が。
ゆっくり久世を指差した。
「博士が。」
老婦人。
「笑った。」
久世。
「……。」
天城の口元が。
にやり。
「反応あり。」
久世の顔が固まる。
天城は。
久世がさっき使っていた手帳を取った。
勝手に書く。
⸻
久世笑造
親父ギャグ曝露による笑い反応:一回
⸻
久世。
「待て。」
天城。
「研究です。」
「私を対象にするな!」
「観察は科学の基本でしょう?」
陽斗が机を叩く。
「逆転した!」
老婦人が大笑い。
久世が。
手帳を取り返そうとする。
天城が逃げる。
「返せ!」
「嫌です!」
「所長命令だ!」
「研究対象は静かにしてください!」
「誰が研究対象だ!」
店の中。
また。
笑い声。
そして。
その中心で。
天城は気付いていなかった。
入店した時には。
一刻も早く帰るつもりだった自分が。
いま。
誰より楽しそうに。
この意味不明な老人と。
店の中を走り回っていることに。
――次の案件まで。
あと少し。
そして。
『豆知識』で過ごす休暇も。
残すところ。
あと一話となった。




