↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/38

第三十四話 豆知識は、だいたいいらない ― 3 救急だけに急きゅう…… ―

午後三時二十六分。


珈琲研究所『豆知識』。


店内には。


妙な静寂が訪れていた。


理由は一つ。


権田の前に置かれた札。


⸻


本日のギャグ摂取上限に達しました


⸻


「……。」


権田は札を両手で持っていた。


その向こう。


久世笑造は。


腕を組んで立っている。


天城。


陽斗。


老婦人。


そして他の常連客たち。


全員。


久世を見ていた。


「博士。」


権田が言う。


「今日もう、本当に駄目だからね。」


「何がだ。」


「親父ギャグ。」


「私は何も言っておらん。」


「その顔がもう怖いんだよ。」


天城は深く頷いた。


「分かります。」


久世は不満そうだ。


「随分と信用がないな。」


「今日一日で自分が何をしたか思い出してください。」


「珈琲を淹れた。」


「そこだけ抜き出すな。」


⸻


権田はまだ腹を押さえていた。


先ほどから笑いすぎて。


腹筋が。


ぴく。


ぴく。


と小さく痙攣している。


「……これ。」


権田が顔をしかめる。


「ほんとに攣ってきた。」


天城が少し身を乗り出した。


「力抜いてください。」


「笑い続けると。」


「腹部の筋肉が繰り返し収縮します。」


久世も頷く。


珍しく。


まともだった。


「横隔膜も呼吸筋も使う。」


「笑って息を吐き続ければ。」


「呼吸も乱れやすい。」


天城。


「一旦喋らない。」


「姿勢を楽にして。」


「ゆっくり呼吸してください。」


権田が頷く。


「分かった。」


「水も。」


久世がグラスを置く。


「飲めそうなら少しずつだ。」


「ありがと。」


権田は水を一口。


ふう。


呼吸。


もう一度。


ふう。


「……。」


店内全員が。


静かに見守る。


ようやく。


平和。


誰も笑わない。


誰もギャグを言わない。


十秒。


二十秒。


三十秒。


権田の呼吸も。


落ち着いてきた。


「……だいぶマシ。」


老婦人。


「よかったねえ。」


陽斗。


「博士が黙れば治る。」


久世。


「私が薬だったということか。」


天城。


「逆です。」


「毒側です。」


久世が。


わずかに傷ついた。


その時だった。


権田が水のグラスを見た。


そして。


ぽつり。


「……水が。」


全員が見る。


「水が?」


権田自身の口元が。


わなわな震える。


「みず……。」


天城の嫌な予感。


「権田さん。」


「何も言わなくていいです。」


「いや。」


権田が耐えている。


「水飲んだら。」


「みず……。」


陽斗。


「言うな。」


「みず……。」


老婦人。


「駄目だよ。」


「みず……。」


久世が。


少し期待した顔をする。


天城。


「博士、その顔やめろ。」


権田。


「みずから治った……。」


「――っっ!!」


店内。


崩壊。


「自分で言ったぁ!!」


陽斗が机を叩く。


老婦人が本で顔を覆う。


新聞の男性が椅子からずり落ちる。


天城まで。


「っは、はは……!」


久世だけが。


感動したような顔をしていた。


「第五段階。」


「自家発電。」


天城。


「分類を増やすな!」


権田は。


笑いながら。


また腹を押さえた。


「だめ!」


「また!」


「腹!」


「博士!」


「俺、もうほんと!」


「喋れない!」


久世が真顔で言う。


「なら筆談にするか。」


「それなら……。」


久世が紙とペンを置く。


権田は。


震える手で。


⸻


もうギャグ言うな


⸻


と書いた。


久世が読む。


そして。


その下へ。


勝手に書き足した。


⸻


了解ギャグ。


⸻


「文字でも来るのかよ!!」


権田が叫んだ。


また腹筋が攣った。


「いっっっった!」


全員。


「博士ぇぇぇぇぇ!!」


⸻


三分後。


権田は。


カウンターへ突っ伏していた。


顔色は普通。


意識も普通。


会話も普通。


ただし。


腹を動かすと。


「いたたた……。」


となる。


天城が聞く。


「立てます?」


「立てる。」


権田が立つ。


二秒。


「っ!」


また座る。


「痛い。」


陽斗。


「筋肉完全に怒ってる。」


老婦人。


「笑いすぎで救急車なんて聞いたことないよ。」


久世は腕を組んだ。


「私もない。」


天城。


「原因のお前が言うな。」


久世が天城を見る。


「お前?」


天城が固まった。


「……。」


店内。


沈黙。


天城は額を押さえる。


「すみません。」


「つい。」


久世が嬉しそうに手帳を出す。


天城 言葉遣い崩壊


と書く。


「記録するな!」


⸻


権田が腹を押さえながら。


ぼそり。


「……一応。」


「念のため。」


「誰か。」


「救急車……。」


全員が止まった。


天城も。


久世も。


さすがに。


止まった。


久世が真顔になる。


「分かった。」


「呼ぼう。」


天城は少し安心した。


こういう時は。


ちゃんとする。


やはり。


博士というだけは――


久世が端末を取る。


そして。


ぽつり。


「救急だけに。」


天城が。


ものすごい勢いで。


端末を奪った。


「言うな。」


「まだ続きが。」


「言うな。」


「急きゅ――」


「黙れ。」


「……。」


「今だけは。」


「黙ってください。」


久世は。


しょんぼりした。


陽斗が腹を抱える。


「博士。」


「顔!」


「その顔が一番面白い!」


権田。


「笑わせないでぇぇ!」


⸻


通報。


状況を説明。


意識あり。


呼吸問題なし。


会話可能。


ただし腹部の筋肉痛と痙攣が強い。


笑い続けたあとから。


電話口の相手が。


一瞬。


沈黙した。


天城は言った。


「はい。」


「笑いすぎです。」


また沈黙。


「いえ。」


「冗談ではなく。」


久世が横から。


小声で。


「冗談は私だ。」


天城が。


久世の口を手で塞いだ。


⸻


十数分後。


店の前。


救急車。


赤色灯。


ただし。


サイレンはすでに止まっている。


近所の店主たちが。


何事かと。


ちらちら見る。


天城は。


ものすごく居心地が悪かった。


「……。」


看板を見る。


珈琲研究所『豆知識』


その前に。


救急車。


「絵面が終わってる……。」


陽斗が隣で言う。


「博士の店。」


「ついにやったな。」


「言い方。」


⸻


救急隊員が二人入ってきた。


一人は四十代くらいの男性。


もう一人は若い男性。


「救急です。」


一瞬。


店内の全員が。


反応した。


久世だけでなく。


常連客全員。


ほんのわずかに。


口元が動いた。


天城が。


恐ろしいことに気づく。


もう全員、同じことを考えている。


『救急だけに急きゅ――』


「……。」


天城は。


全員へ。


無言で人差し指を立てた。


言うな。


老婦人。


頷く。


陽斗。


頷く。


新聞男。


頷く。


イヤーマフ男。


頷く。


久世。


なぜか一番不満そう。


⸻


隊員が権田へ近付く。


「どうされました?」


権田は真面目に答える。


「笑いすぎて。」


隊員が止まる。


「……笑いすぎて?」


「腹が攣りました。」


若い隊員が。


久世を見る。


久世は。


真顔。


若い隊員の口元が。


ほんの少し動く。


天城は見た。


この人。


今。


笑いかけた。


隊員は仕事モードへ戻る。


「分かりました。」


「ちょっと状態確認しますね。」


意識。


脈。


呼吸。


腹部の状態。


質問。


「胸の痛みは?」


「ないです。」


「息苦しさは?」


「今はないです。」


「気を失ったりは?」


「ないです。」


「持病は?」


「特に。」


「分かりました。」


若い隊員。


「かなり笑ったんですね。」


権田が。


久世を指差した。


「この人のせいです。」


全員が久世を見る。


久世は胸を張る。


「店主です。」


隊員。


「……何をされたんです?」


天城。


「親父ギャグです。」


「……。」


救急隊員二人。


沈黙。


若い方が。


一度。


権田を見る。


久世を見る。


天城を見る。


「親父……ギャグ?」


「はい。」


陽斗が補足する。


「連続で。」


老婦人。


「休憩なし。」


新聞男。


「一時間以上。」


イヤーマフ男。


「防御不能。」


隊員が。


困った顔をした。


「……。」


久世が手を挙げる。


「誤解がある。」


天城。


「黙って。」


⸻


年上の隊員は。


権田へ説明した。


「強く笑ったあとに。」


「腹部の筋肉が疲れたり。」


「攣ったようになること自体はあります。」


「ただ。」


「痛みが強い場合や。」


「呼吸が苦しい。」


「胸が痛い。」


「意識がおかしい。」


「そういう時は笑いだけと決めつけずに。」


「確認した方がいいです。」


天城は頷く。


久世も。


真剣に頷く。


「なるほど。」


隊員。


「今日は念のため。」


「一度診てもらいましょう。」


権田。


「お願いします。」


そこで。


久世が。


心底感心したように。


「さすが救急。」


全員。


久世を見る。


久世。


「判断が急――」


天城。


「博士。」


「……。」


「本当に。」


「やめてください。」


久世は口を閉じた。


若い隊員が。


ぷる。


と肩を震わせた。


天城が見逃さなかった。


「……。」


隊員は。


必死に真顔。


でも。


耳が赤い。


久世も気付く。


久世が。


にや。


隊員。


「……。」


天城。


「博士。」


久世。


「何も。」


隊員。


「……っ。」


久世。


「言って。」


隊員。


「……っっ。」


久世。


「おらん。」


若い隊員が。


とうとう横を向いた。


「すみません……。」


肩が震える。


権田が。


「やめて!」


「俺それ見ても笑うから!」


若い隊員。


「すみません!」


「今……。」


「状況が……!」


年上の隊員が冷静に言う。


「笑わない。」


若い隊員。


「はい。」


久世。


「偉い。」


若い隊員。


「はい。」


久世。


「えらいだけに。」


天城が。


久世の口を塞いだ。


「本当に黙れ。」


⸻


権田をストレッチャーへ。


歩けなくはない。


しかし。


腹の痙攣が痛いので。


念のため。


楽な姿勢。


権田は運ばれながら。


久世へ指を差す。


「博士!」


「なんだ。」


「俺が戻ってくるまで!」


「ギャグ禁止!」


久世が腕を組む。


「いつ戻る。」


「今日中!」


「では。」


「今日中だけ。」


一拍。


「ちょ――」


権田。


「言うなぁぁぁ!!」


ストレッチャーの上で。


また笑う。


隊員。


「笑わないでください!」


「痛くなりますよ!」


「博士も患者さんを笑わせないで!」


久世が。


叱られた。


天城は。


この日初めて。


心から思った。


救急隊員は強い。


⸻


救急車が出発する。


店の前。


天城。


陽斗。


老婦人。


久世。


四人で見送る。


しばらく。


沈黙。


「……。」


天城は口を開く。


「博士。」


「なんだ。」


「反省してます?」


「しておる。」


意外だった。


「本当に?」


「もちろん。」


久世は真剣な顔。


「笑いには。」


「個人差がある。」


「うん。」


「筋疲労にも。」


「個人差がある。」


「はい。」


「つまり。」


天城。


嫌な予感。


久世。


「次からは。」


「個人別ギャグ許容量を測定――」


「そこじゃない。」


⸻


店へ戻る。


カラン。


妙に静かだった。


権田がいないだけで。


随分違う。


老婦人が。


いつもの席へ戻る。


「しかし。」


「初めてだね。」


「何が?」


「博士のギャグで救急車。」


陽斗。


「歴史に残ったな。」


久世が。


すぐノートを開く。


天城。


「何書くんです。」


久世は表紙へ。


⸻


重大インシデント報告書


⸻


と書いた。


「意外とちゃんとしてる。」


天城が少し感心する。


久世は一行目。


⸻


事象:権田、笑う。


⸻


「雑!」


二行目。


⸻


原因:私。


⸻


天城は。


少し止まった。


「そこは認めるんですね。」


「科学者は事実を捻じ曲げん。」


「珍しく格好いいことを。」


久世。


「ただし。」


天城。


「はい。」


久世。


「副原因として。」


書く。


⸻


権田の笑いの沸点が低い。


⸻


陽斗。


「責任分散するな!」


店内。


また笑い。


⸻


老婦人が言う。


「でもさ。」


「笑いすぎって。」


「そんなに体使うんだねえ。」


久世が椅子へ座る。


「意外とな。」


「笑うと。」


「顔だけが動くわけではない。」


「呼吸が変わる。」


「腹部も動く。」


「声も出る。」


「大笑いなら。」


「全身運動に近いくらい疲れることもある。」


天城が続ける。


「でも。」


「笑えば筋トレの代わりになる。」


「って単純な話ではない。」


「もちろん。」


久世が頷く。


「腹筋を割りたければ。」


「普通に運動しろ。」


陽斗。


「この店に毎日来るんじゃ駄目?」


「腹が先に壊れる。」


老婦人。


「実証済み。」


一同。


「……。」


そして。


また笑った。


⸻


天城は。


笑いながら。


ふと時計を見る。


午後四時。


次の案件までは。


まだ時間がある。


だが。


それよりも。


今。


気になっていることがあった。


「博士。」


「うむ。」


「さっき。」


「親父ギャグの予測を。」


「プライミングみたいな話で説明しましたよね。」


「したな。」


「笑いも。」


「周りの人間につられることがある。」


「そうだ。」


「あなた。」


天城は久世を見る。


「これ。」


「どこまで狙ってやってるんです?」


一瞬。


店内が。


少しだけ静かになる。


久世の顔から。


笑みが消えた。


天城は続ける。


「ギャグはくだらない。」


「かなり。」


「かなりを二回言うな。」


「でも。」


「客同士が勝手に話し始める。」


「知らない人同士で笑う。」


「先読みする。」


「助けてって絡む。」


「今日なんて。」


「救急隊員まで笑いかけた。」


老婦人も。


陽斗も。


久世を見る。


久世は。


しばらく黙った。


そして。


ゆっくりと。


カウンターの下から。


一冊のノートを取り出した。


分厚い。


使い込まれている。


表紙には。


たった一言。


⸻


笑


⸻


天城の目が。


少しだけ変わる。


「……それは?」


久世は答えない。


ノートを。


ぽん。


とカウンターへ置く。


そして。


天城へ言った。


「珈琲。」


「もう一杯飲むか。」


「話を逸らしましたね。」


「サービスだ。」


「だから。」


久世。


「サービスだけに――」


天城。


「博士。」


「……はい。」


「次言ったら。」


「俺が救急車呼びます。」


「私に?」


「俺の腹筋に。」


久世が。


吹き出した。


「ぶっ!」


店内が止まる。


天城も止まる。


陽斗が。


ゆっくり久世を指差した。


「博士が。」


老婦人。


「笑った。」


久世。


「……。」


天城の口元が。


にやり。


「反応あり。」


久世の顔が固まる。


天城は。


久世がさっき使っていた手帳を取った。


勝手に書く。


⸻


久世笑造


親父ギャグ曝露による笑い反応:一回


⸻


久世。


「待て。」


天城。


「研究です。」


「私を対象にするな!」


「観察は科学の基本でしょう?」


陽斗が机を叩く。


「逆転した!」


老婦人が大笑い。


久世が。


手帳を取り返そうとする。


天城が逃げる。


「返せ!」


「嫌です!」


「所長命令だ!」


「研究対象は静かにしてください!」


「誰が研究対象だ!」


店の中。


また。


笑い声。


そして。


その中心で。


天城は気付いていなかった。


入店した時には。


一刻も早く帰るつもりだった自分が。


いま。


誰より楽しそうに。


この意味不明な老人と。


店の中を走り回っていることに。


――次の案件まで。


あと少し。


そして。


『豆知識』で過ごす休暇も。


残すところ。


あと一話となった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。