第三十三話 豆知識は、だいたいいらない ― 2 感染する親父ギャグ ―
「君が何分後に、私より先に親父ギャグを言い始めるか。」
久世笑造は、脳波計らしき装置を胸の前に掲げた。
天城は即答した。
「一生言いません。」
窓際の老婦人が、本を閉じた。
「私も最初はそう言ったよ。」
新聞の男性も頷く。
「俺も。」
ソーダを飲んでいた若者も。
「俺も。」
イヤーマフの男まで。
「……俺も。」
天城は四人を順番に見た。
「全滅してるじゃないですか。」
久世は満足げに腕を組む。
「環境適応能力が高い。」
「汚染って言うんですよ、それ。」
「失礼な。」
「じゃあ、その脳波計しまってください。」
「これは脳波計ではない。」
天城が止まる。
「……じゃあ何なんです?」
久世は装置を頭に被った。
大量の電極。
側頭部に小さなランプ。
顎の下に妙なセンサー。
完全に怪しい。
「親父ギャグ感受性測定装置だ。」
「帰ります。」
「待ちたまえ!」
天城は立ち上がった。
「百歩譲って名前は許します。」
「百歩も?」
「何を測定するんです。」
久世は胸を張った。
「知らん。」
「装置から捨てろ!」
店内が一斉に笑った。
久世は慌てて手を振る。
「違う違う。」
「一応、脳波と心拍、それと表情筋の変化くらいは取れる。」
「じゃあ最初からそう言ってください。」
「その方が面白くないだろう。」
「研究機器を面白さ基準で紹介するな。」
⸻
久世は装置をカウンターへ戻した。
「まあ。」
「今日は無理強いはせん。」
天城が怪訝な顔をする。
「意外ですね。」
「研究倫理というものがある。」
「ちゃんとあるんですか。」
「棚のどこかにな。」
「概念を物理的に保管するな。」
窓際の老婦人が吹き出した。
久世は天城を見る。
「君は本当によく拾うな。」
「落とす人が多すぎるんですよ。」
「ならば。」
久世はカウンターの下へしゃがむ。
ごそごそ。
「何してるんです。」
「落とした研究費を探している。」
「無いでしょう。」
「なぜ分かる。」
「ブラックなんでしょう?」
久世が。
ぴたり。
止まった。
店内も止まった。
天城も。
自分で止まった。
「……。」
久世がゆっくり顔を上げる。
「今。」
「違います。」
「私が昨日言ったギャグを。」
「言ってません。」
「回収した。」
「文脈上必要だっただけです。」
老婦人が指差す。
「始まった。」
新聞の男も。
「早いな。」
若者。
「一時間もたなかったか。」
イヤーマフの男。
「……仲間。」
「こっち見るな!」
⸻
久世は嬉しそうにホワイトボードへ一本線を引いた。
そこにはいつの間にか、
⸻
親父化進行表
第一段階:無視
第二段階:予測
第三段階:先回り
第四段階:自発
第五段階:他人にうつす
⸻
と書いてある。
天城は無言で眺めた。
「何ですかこれ。」
「臨床経過。」
「病気にするな。」
久世がペンを握る。
「君は現在。」
天城の名前を書く。
天城――2.7
「小数点刻むな。」
「第三段階へ入りかけている。」
「入ってません。」
「否認。」
その横へ、
2.8
と書かれた。
「何で上がった!?」
店内が爆笑した。
「否認は進行の証拠だ。」
「都合良すぎる研究だな!」
⸻
若者が手を挙げた。
「博士。」
「なんだ、陽斗。」
どうやら名前は陽斗というらしい。
「腹減った。」
「健康だ。」
「食べ物ある?」
「あるぞ。」
久世がメニューを取り出す。
「トースト。」
「普通ので。」
「焼く?」
「トースト頼んでるんだから焼いてよ。」
久世が深く頷く。
「そうか。」
「焼いとーすと。」
「……。」
沈黙。
陽斗は目を閉じた。
「弱い。」
老婦人も首を横に振る。
「今日は駄目だね。」
新聞の男性も。
「無理があります。」
イヤーマフの男まで。
「……二点。」
久世の眉が動いた。
「二点!?」
天城は思わず言った。
「採点される側なんですね。」
「研究所長だぞ私は!」
老婦人が笑う。
「つまらないものはつまらないよ。」
久世はショックを受けた顔でパンを取り出した。
「では。」
一枚。
「食パン。」
二枚。
「二食パン。」
三枚。
「三食パン。」
陽斗がカウンターを叩いた。
「数え方変えただけじゃん!」
「四枚なら。」
「四色パンとか言うなよ。」
久世が止まる。
「……。」
陽斗。
「……。」
久世。
「先回りするな。」
陽斗が勝ち誇る。
「第三段階!」
天城が思わず吹き出した。
「ふっ……!」
久世が指差す。
「四笑目。」
「数えるな!」
⸻
パンが焼ける。
普通にいい香りだった。
久世はバターを塗りながら言った。
「知っているか。」
天城が身構える。
「今度は何です。」
「パンを焼くと表面で起きる褐色化。」
「……メイラード反応?」
久世が嬉しそうに振り返った。
「正解。」
「還元糖とアミノ化合物が反応し。」
「さまざまな香りや色を生む。」
陽斗がトーストを見る。
「じゃあ焼いたパンが香ばしいのって、それ?」
「一因だ。」
久世は頷く。
「ただし。」
「何でも焦がせば旨くなるという話ではない。」
「焼きすぎれば苦い。」
「香りの成分も条件で変わる。」
天城も頷く。
「肉を焼いた時の香ばしさにも関係しますね。」
「そうだ。」
久世が妙に嬉しそうだ。
「料理とは。」
「火を入れるだけでも。」
「かなりの化学反応が起きて――」
その時。
陽斗がトーストを一口。
「うま。」
久世が即座に振り返る。
「馬?」
「……。」
陽斗が停止。
天城も。
老婦人も。
新聞の男も。
全員が久世を見る。
久世は何事もなかった顔。
「うまいのか。」
「……それだけ?」
陽斗が聞く。
「何を期待しておる。」
「絶対“馬だけにヒヒーン”とか行くと思った。」
久世が眉をひそめた。
「そんな低級なギャグを私が言うと思うか。」
天城が小さく呟く。
「今まで何を聞かされてたんだ俺たちは。」
店内に笑い声が広がった。
⸻
その時。
入口のベルが鳴った。
カラン。
「こんにちはー。」
新しい客。
四十代くらいの女性。
買い物袋を提げている。
久世が手を挙げる。
「おお、峰子さん。」
「いつもの?」
「今日は暑いから炭酸がいいな。」
店内の常連たちが。
一斉に顔を上げた。
天城にも。
もう分かった。
久世が聞く。
「ソーダ?」
女性は。
ごく普通に。
「そうだね。」
「っっ!」
陽斗が吹いた。
新聞の男性が机へ突っ伏す。
老婦人が本で顔を覆う。
イヤーマフの男が肩を震わせる。
天城まで。
「……っふ!」
峰子だけが驚く。
「え?」
久世が無表情でソーダを出す。
「どうした皆。」
天城は腹を押さえた。
「今の……博士じゃないのに……!」
陽斗が涙を拭く。
「一般人から自然発生した……!」
新聞の男性。
「天然物は強い……!」
峰子が困惑する。
「何?」
「私何か言った?」
久世は手帳を取り出した。
「非常に興味深い。」
天城が即座に止める。
「研究するな。」
「人工培養ではなく天然由来。」
「親父ギャグを菌みたいに扱うな。」
老婦人が。
「腹痛い……。」
と言いながら笑っている。
峰子は状況を理解していない。
「ソーダ頼んだだけなんだけど。」
陽斗。
「もう“ソーダ”って言わないで……!」
「なんで?」
「そうだって浮かぶから!」
「そうなの?」
「ほらぁ!」
店内。
崩壊。
⸻
五分後。
ようやく落ち着いた。
峰子も事情を理解して。
笑いながらソーダを飲んでいる。
久世が真顔で言った。
「面白いだろう。」
天城は水を飲む。
「何がです。」
「さっきのような現象。」
「何も知らない人間の普通の言葉が。」
「集団の中では。」
「別の意味を持って聞こえる。」
天城が少し考える。
「文脈の影響?」
「それもある。」
久世は頷く。
「人間は言葉を。」
「辞書の意味だけで処理しているわけではない。」
「直前の会話。」
「場所。」
「相手。」
「期待。」
「それらで解釈が変わる。」
峰子が聞く。
「じゃあ。」
「私が“そうだね”って言っただけなのに。」
「みんなにはギャグに聞こえた?」
「そういうことだ。」
久世が答える。
「そして。」
「周りが笑えば。」
「自分も何が面白いのか確認したくなる。」
「笑いは。」
「内容だけでは起きん。」
天城は店内を見る。
確かに。
最初なら。
絶対に笑っていなかった。
今は。
久世が口を開くだけで。
次が来る。
と構えてしまう。
誰かが先に肩を震わせると。
それがまた可笑しい。
「……笑いの連鎖か。」
「うむ。」
久世は満足そうに頷いた。
「人間は社会的な生き物だからな。」
「他人の表情や声に引っ張られることは珍しくない。」
天城が言う。
「だからテレビ番組でも笑い声を入れる演出がある。」
「そう。」
久世が天城を指す。
「良いところへ気付いた。」
「ただし。」
嫌な予感。
「私の場合。」
久世が胸を張る。
「笑い声など必要ない。」
一拍。
「顔が笑える。」
天城は真顔になった。
「それは自虐ですか?」
老婦人。
「今日一番面白い。」
久世。
「なぜだ!」
店内。
大爆笑。
⸻
それから。
おかしなことが起こり始めた。
久世ではない。
客たちが。
勝手に言い出した。
峰子がバッグを探る。
「あれ。」
「鍵がない。」
陽斗が反射的に。
「キーつけて。」
「……。」
全員が陽斗を見る。
陽斗自身も固まる。
「今の。」
「俺?」
天城。
「あなたです。」
陽斗が頭を抱えた。
「終わった……。」
久世がホワイトボードへ走る。
陽斗 5.0
「第五段階にすんな!」
⸻
新聞の男性――佐伯が時計を見る。
「そろそろ会社戻らないと。」
老婦人。
「仕事?」
佐伯。
「うん。」
「会議。」
天城の頭の中に。
一瞬。
会議だけに怪議。
と浮かんだ。
「……。」
天城は。
自分の口を両手で塞いだ。
久世が。
見ていた。
「君。」
天城は首を横に振る。
「何も。」
「今。」
「何も言ってません。」
「目が言った。」
「読心術まで使うな。」
久世がニヤニヤする。
「何が浮かんだ。」
「浮かんでません。」
「会議?」
「……。」
「怪議?」
「言うなぁ!!」
店内が崩壊した。
天城はカウンターへ突っ伏す。
「まずい……。」
「俺まで……。」
「ちゃんとおかしくなってきてる……。」
老婦人が背中を叩く。
「大丈夫。」
「三日すると楽になるよ。」
「何が楽になるんです?」
「諦める。」
「最悪だ。」
⸻
佐伯が笑いながら立ち上がった。
「駄目だ。」
「会社戻ったら絶対何か言う。」
久世がアドバイスする。
「喋らなければいい。」
「会議なんですよ!」
「黙秘。」
「刑事事件みたいに言うな!」
「資料だけ出せ。」
「説明役なんです!」
「では。」
久世は真剣な顔で。
「口にガムテープを。」
「クビになるわ!」
佐伯は財布を出した。
「会計。」
久世。
「怪奇?」
佐伯の膝が崩れた。
「もうやめて!!」
天城まで吹き出す。
「っはは……!」
佐伯が天城を指す。
「笑ってるじゃないですか!」
「あなたの反応が……!」
「博士より客の方が面白くなってきてる!」
久世が。
少しだけ。
寂しそうな顔をした。
「私の店なのに。」
老婦人。
「元凶はあんただよ。」
⸻
佐伯が帰って。
少し静かになった。
天城も。
ようやく腹が落ち着いてきた。
「……危ない。」
本当に。
腹筋が疲れている。
久世がカップを拭く。
「笑う時。」
「腹部の筋肉は断続的に収縮する。」
「呼吸も普段とは変わる。」
天城が頷く。
「息を吐く側が増えますね。」
「そう。」
「長く笑えば。」
「当然。」
「筋肉も疲れる。」
陽斗が腹を揉む。
「じゃあ今の俺。」
「筋トレしてる?」
久世。
「無料でな。」
陽斗が目を輝かせる。
「じゃあ腹筋割れる?」
「それだけで割れたら。」
久世は真顔で言った。
「ジムは全部潰れる。」
「急に現実的。」
天城が笑う。
久世は続ける。
「笑うのは悪いことではない。」
「ただ。」
「呼吸が苦しいほど笑い続けるなら。」
「一旦落ち着け。」
「水を飲み。」
「喋るのをやめ。」
「笑わせる奴から離れる。」
店内の全員が。
久世を見る。
「……。」
久世。
「なぜ私を見る。」
「最後の条件。」
天城が答えた。
「あなたです。」
⸻
午後。
三時十二分。
新しい客が入ってきた。
恰幅のいい中年男性。
どうやら常連らしい。
「博士ぅ。」
入ってきた瞬間から。
すでに笑っている。
久世が手を挙げる。
「おお、権田。」
「今日は早いな。」
権田と呼ばれた男は。
カウンターへ座る。
「仕事終わった。」
久世。
「お疲れ。」
権田。
「コーヒー。」
「砂糖は?」
「二つ。」
久世が砂糖を二つ置く。
「佐藤さんが二人。」
権田。
「ぶっははははは!!」
天城が固まる。
「え?」
権田は。
すさまじい勢いで笑った。
「はははははは!」
「待って博士!」
「佐藤が!」
「二人!」
「二人いる!」
天城は周囲を見る。
「そこまで!?」
陽斗が小声で言う。
「権田さん。」
「めちゃくちゃ笑いの沸点低いんですよ。」
「沸点?」
久世が聞きつける。
「では百℃か。」
権田。
「ぶはっ!!」
天城。
「今の何で!?」
権田は腹を抱える。
「博士が!」
「真顔で!」
「沸点って!」
「ははははは!」
天城は理解できない。
笑いというものは。
本当に。
人によって違う。
⸻
久世が氷を取り出す。
権田。
「あ、アイスにして。」
久世。
「氷?」
権田。
「うん。」
久世は氷を一つ持ち。
真顔で。
「こおりゃ参った。」
「ぶっっっ!!」
権田が椅子からずり落ちた。
「ははははははは!」
「やめ!」
「博士!」
「やめて!」
「腹!」
天城も。
権田の笑い方につられて。
「っ……ふ、はは……!」
陽斗。
「権田さんの笑い方が一番ずるい!」
老婦人も涙を拭く。
権田は床に座り込んだ。
「待って!」
「本当に!」
「腹筋が!」
「攣る!」
久世が真面目な顔になる。
「休め。」
「今笑わせた本人が言うな!」
権田は椅子へ戻る。
水を飲む。
しばらく。
深く息をする。
少しずつ落ち着く。
「……死ぬかと思った。」
天城が言う。
「ここでその台詞、洒落になりませんよ。」
久世。
「洒落は店の売りだぞ。」
権田。
「ぶふっ!」
「博士、黙れ!!」
全員が叫んだ。
⸻
五分。
十分。
権田はようやく落ち着いた。
天城も胸を撫で下ろす。
「……本当に危ないな。」
とはいえ。
顔色は普通。
話もできる。
本人も。
「笑いすぎたー。」
と笑っている。
久世は権田の前へ。
一枚の札を置いた。
⸻
本日のギャグ摂取上限に達しました
⸻
天城が札を見る。
「そんな制度あるんですか。」
「今作った。」
「ですよね。」
権田が札を手に取る。
「じゃあ博士。」
「今日もうギャグ禁止?」
「うむ。」
久世が真顔。
「ギャグ禁。」
権田の顔が。
引きつった。
「……。」
久世。
「ギャグだけに――」
権田。
「やめろぉぉぉ!」
店内。
また爆笑。
天城は。
腹を押さえながら。
本気で思った。
ここに居続けたら。
本当に腹筋が先に壊れる。
そして。
その予感が。
次の話で。
洒落にならないほど。
どうでもいい形で。
的中することになる。
もちろん。
命に関わるような話ではない。
ただ。
珈琲研究所『豆知識』の歴史に。
新たな一文が。
追加されるだけだった。
⸻
『親父ギャグで救急車を呼んだ日』
⸻
天城は。
まだ。
その見出しを知らない。




