↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
32/38

第三十二話 豆知識は、だいたいいらない ― 1 ソーダ? そうだな ―

翌日。


昼を少し回った頃。


天城は、藍庭の北西端まで来ていた。


この先へ二本ほど路地を抜ければ、旧工場や修理屋が増え始める錆路。


その境目にある、通称――


六角通り。


古い測定器屋。


中古部品店。


時計修理店。


何を売っているのか分からない店。


そんなものが雑然と並ぶ通りだった。


昨日すれ違った女性二人が話していた店は、その六角通りからさらに一本入った場所にあるらしい。


『白衣のオヤジがいる』


『カフェなのか研究所なのか分かんない』


『もう腹筋が無理になって、知らないお客さんに“助けて……”って絡んじゃった』


そこまで聞いたら。


普通の人間なら。


近寄らない。


「……。」


天城は路地を進んだ。


普通ではなかった。


というより。


暇だった。


次の案件まで二日。


昨日の時点で、その空白は確認済み。


そして何より。


知らない客に助けを求めるほどの親父ギャグとは何なのか。


そこだけが。


どうにも頭から離れなかった。


「確認だけだ。」


天城は自分に言い聞かせる。


「コーヒー一杯。」


「それで帰る。」


角を曲がった。


そして。


止まった。


「……これか。」


古い二階建て。


一階部分だけが店舗になっている。


外観は。


一見すると落ち着いた喫茶店だった。


木枠の窓。


小さなランプ。


年季の入った扉。


だが窓の向こう。


コーヒーミル。


サイフォン。


カップ。


その隣に。


顕微鏡。


試験管立て。


遠心分離機。


人間の脳模型。


用途不明の銀色の球体。


さらに奥には。


巨大なホワイトボードいっぱいの数式。


「……。」


昨日の女性。


正しかった。


店なのか。


研究所なのか。


本当に分からない。


天城は看板を見る。


⸻


珈琲研究所


『豆知識』


一杯の珈琲と、いらない知識をあなたに。


⸻


「いらないなら教えるなよ。」


反射的に口から出た。


そしてその横。


古い真鍮板。


⸻


所長兼店主


久世 笑造

くぜ・しょうぞう


⸻


「……笑造。」


名前からして。


少し嫌な予感がした。


入口にも貼り紙がある。


⸻


当研究所をご利用のお客様へ


飲食可

雑談可

読書可

実験可

昼寝可

親父ギャグへの苦情可


ただし改善は期待しないでください。


⸻


「そこは改善しろ。」


さらに扉。


⸻


押してください。


引いても開きません。


人生と同じです。


⸻


「……。」


天城は押した。


開かない。


もう一度。


押す。


開かない。


「……?」


紙の下に。


極小文字。


⸻


※本日は引いてください。


⸻


天城は目を閉じた。


「まだ入ってもいないんだけどな……。」


一瞬。


本気で帰ろうと思った。


だが。


昨日の女性の声が蘇る。


『助けて……』


「……。」


天城は扉を引いた。


カラン。


ベルが鳴る。


静かなジャズ。


コーヒーの香り。


想像以上に落ち着いた店内だった。


客は四人。


窓際で本を読む老婦人。


カウンターで新聞を広げる中年男性。


ノートパソコンを開いている若者。


そして。


一番奥。


イヤーマフを装着してコーヒーを飲んでいる男。


「……。」


天城の視線が止まる。


イヤーマフの男と目が合った。


男は。


ゆっくり。


親指を立てた。


意味が分からない。


その時。


奥から声。


「いらっしゃい。」


白衣の老人が現れた。


ぼさぼさの白髪。


丸眼鏡。


白衣の胸元には大量のペン。


首にはゴーグル。


そして。


左手にはビーカー。


右手には。


なぜかソーダ瓶。


「初めて見る顔だな。」


老人が言う。


「昨日、この店の噂を聞きまして。」


「ほう。」


「若い女性二人から。」


老人の目が細くなる。


「片方が。」


天城は続ける。


「笑いすぎて、知らない客に『助けて』と絡んだとか。」


「ああ。」


老人は即答した。


「木曜の子だな。」


「曜日で覚えてるんですか。」


「火曜にも一人いた。」


「常習じゃないですか。」


老人――久世笑造は、何でもないように頷いた。


「安心したまえ。」


「何をです。」


「二人とも生還した。」


「喫茶店で使う言葉じゃない。」


カウンターの中年男性の肩が。


一度。


震えた。


天城が見る。


男性は新聞で顔を隠した。


久世が天城を指差す。


「君。」


「はい。」


「いいな。」


「何がです。」


「返しが速い。」


「初対面の客をツッコミ性能で評価しないでください。」


久世が満足そうに頷く。


「A判定。」


「何の試験ですか。」


「生存率。」


「帰ります。」


「待て待て。」


久世が白衣を翻して回り込んだ。


「一杯くらい飲んでいきたまえ。」


⸻


天城は。


結局。


座った。


すぐ隣。


新聞の男性が小声で言う。


「初めてですか。」


「はい。」


男性は遠い目をした。


「最初は。」


一拍。


「みんなそう言うんです。」


「何を?」


「一杯だけって。」


「……。」


言い方が。


完全に危険な店だった。


久世がメニューを置く。


天城は開いた。


⸻


実験一号


黒色焙煎種子熱水抽出液

通称:コーヒー


実験二号


乳脂肪添加黒色焙煎種子熱水抽出液

通称:カフェラテ


実験三号


低温黒色焙煎種子抽出液

通称:アイスコーヒー


炭酸実験


ソーダ


所長に任せる


やめておいた方がいい


⸻


天城は最後の項目を二度見した。


「自分で止めるならメニューから消してください。」


「親切だろう。」


「罠を設置して『罠です』って看板立ててるようなものですよ。」


新聞の男性が。


「ぶっ。」


小さく吹いた。


久世が満足げに頷く。


「今日も客同士の交流が活発だ。」


「あなたが原因でしょう。」


「さて。」


久世が聞く。


「何にする。」


「普通のコーヒーを。」


「ブラック?」


「はい。」


久世の表情が。


急に曇った。


「奇遇だ。」


「何がです。」


「私の研究費もブラックだ。」


「聞いてません。」


窓際。


老婦人が本を閉じた。


「博士。」


「なんだ。」


「それ昨日も聞いたよ。」


「再現性は科学の基本だ。」


「ギャグに再現性を求めるな。」


天城が即座に返す。


一拍。


店内から。


くすくす。


笑いが漏れた。


久世は天城を見る。


「やはりA判定。」


「だから何の。」


⸻


だが。


久世がコーヒー豆へ手を伸ばした瞬間。


空気が変わった。


電子スケール。


十九・二グラム。


豆を確認。


ミル。


粒度調整。


水温。


九十二度。


器具を予熱。


タイマー。


湯量。


動きに迷いがない。


天城は少し意外そうに見る。


「……ちゃんとやるんですね。」


久世の手が止まった。


「君。」


「はい。」


「私を何だと思って来た。」


「親父ギャグを言う怪しい老人。」


「概ね合っている。」


「合ってるんですか。」


久世は湯を少量注ぐ。


コーヒー粉が膨らむ。


甘い香りが立った。


「焙煎した豆には二酸化炭素が残る。」


声が。


少しだけ研究者のものになる。


「最初に少量の湯で粉を湿らせる。」


「いわゆる蒸らしだ。」


「ガスを抜き。」


「抽出を均一にしやすくする。」


天城が膨らむ粉を見る。


「豆が新しいほど膨らみやすい?」


「概ねな。」


久世が頷く。


「ただし。」


「膨らめば膨らむほど絶対に旨い。」


「という単純な話でもない。」


「焙煎度。」


「保存。」


「豆の状態。」


「挽き方。」


「見るものは一つではない。」


天城が少し目を細める。


まともだ。


しかも。


かなり詳しい。


久世は二投目の湯を注ぐ。


細い水流。


一定。


「湯温が高ければ抽出は進みやすい。」


「だが。」


「欲しい成分だけ都合よく出るわけではない。」


「苦味も。」


「酸味も。」


「香りも。」


「条件次第で印象が変わる。」


天城は思わず聞く。


「水も?」


「当然。」


久世が笑う。


「水のミネラル組成でも変わる。」


「珈琲はほとんど水だ。」


「豆だけ見て。」


「水を見ないのは――」


一拍。


久世が真顔になる。


「木を見て森を見ず。」


天城が少し身構える。


「……普通のことわざですね。」


「今。」


「ギャグが来ると思っただろう。」


「……。」


久世の口角が上がる。


「もう始まっている。」


「何が。」


「警戒。」


「嫌な研究対象にされた気分なんですが。」


⸻


抽出終了。


久世がカップを置く。


「飲みたまえ。」


天城は一口。


「……。」


思わず。


もう一口。


美味しい。


香りが強い。


けれど。


苦味が口にへばり付かない。


温度もちょうどいい。


久世が腕を組む。


「どうだ。」


「……美味しいです。」


「そうだろう。」


久世が胸を張る。


「珈琲には。」


天城が警戒する。


「かなり。」


久世。


「深入りしておる。」


「……っ。」


危ない。


ほんの少し。


口角が上がった。


久世の指が。


即座に天城へ向く。


「今。」


「笑ってません。」


「右口角二ミリ。」


「観測するな。」


「研究所だぞ。」


「研究対象に同意してない。」


「客は皆そう言う。」


カウンターの男性が新聞の陰から呟く。


「俺も言いました。」


「やっぱり勝手にやってるんですか。」


⸻


その時。


若者が手を挙げた。


「博士。」


「なんだ。」


「ソーダちょうだい。」


久世が動きを止める。


店内の常連客も。


一斉に。


止まった。


老婦人が本を閉じる。


新聞の男性が新聞を下げる。


イヤーマフの男まで。


イヤーマフを少しずらした。


天城は。


その異様な空気を感じる。


「……?」


久世は冷蔵庫からソーダ瓶を取り出した。


そして。


若者を見る。


「ソーダ?」


若者が。


唇を噛む。


久世。


真顔。


「そうだな。」


「…………。」


若者の肩が。


ぶるっ。


と震えた。


「っ……!」


天城も。


危うく吹いた。


あまりにも。


単純。


あまりにも。


古典的。


なのに。


久世が。


一ミリも笑っていない。


むしろ。


実験結果を述べる研究者の顔。


「……。」


天城の腹が。


ひくっ。


久世の目が動く。


「反応あり。」


「数えるな。」


若者がソーダを受け取る。


「博士。」


「なんだ。」


「レモン入れて。」


「入れもん?」


「っ……!」


若者がカウンターへ突っ伏した。


新聞の男性が。


新聞で顔を隠す。


老婦人が本で顔を隠す。


なぜか。


イヤーマフの男も。


肩を震わせている。


天城は思わず聞いた。


「イヤーマフしてるのに何で笑ってるんですか。」


男は苦しそうに答えた。


「口の……動きで……分かる……。」


「防御の意味ないじゃないですか。」


「昨日から……学習して……。」


「嫌な学習だな!」


久世が静かに頷いた。


「順調だ。」


「何が。」


「適応。」


「悪化でしょう。」


⸻


老婦人が手を挙げる。


「博士。」


「うむ。」


「ホットミルク。」


「ほっとする?」


「先に言うんじゃないよ!」


老婦人が笑う。


久世が少し残念そうな顔。


「先読みされた。」


新聞の男性。


「もう常連はみんなそうなる。」


天城が聞く。


「そんなに?」


男性が頷く。


「昨日。」


「会社で上司に。」


「『コピー取って』って言われたんです。」


「はい。」


男性の顔が曇る。


「気付いたら。」


「『コピーだけに、こっぴーどく使いますね』って……。」


「成立してないですよ。」


「分かってるんです!」


男性が頭を抱える。


店内が爆笑。


「上司にも!」


「『何だそれ』って!」


老婦人が涙を拭く。


「末期だねえ。」


久世が手帳を開く。


「第四段階。」


男性が顔を上げる。


「段階あるの!?」


「自発的新語形成。」


「病名っぽくするな!」


また。


笑い。


天城まで。


「……ふっ。」


漏れた。


天城が自分で止まる。


「……。」


久世が。


ものすごく嬉しそうに。


手帳へ書く。


「新規客。」


「初回曝露より二十七分。」


「笑い反応三回。」


「記録するな。」


「観察は科学の基本だ。」


「親父ギャグで科学を汚すな。」


⸻


若者がソーダを飲む。


「博士。」


「なんだ。」


「今度はコーラも。」


久世。


「こら。」


若者。


「分かってたのに……っ!」


机を叩く。


老婦人も笑う。


新聞の男性も。


そして。


天城も。


「っ……!」


腹を押さえた。


一つなら。


寒い。


間違いなく寒い。


だが。


次が分かる。


分かるのに。


言われる。


しかも。


全員が。


来ると分かって待っている。


その妙な一体感。


「……これ。」


天城は眉を寄せる。


「何なんだ。」


久世が見る。


「何が?」


「一個一個は。」


「大して面白くない。」


店内が静まる。


久世。


「失礼な。」


「でも。」


天城は続ける。


「続くと。」


「何故か。」


「……。」


腹が。


また震える。


「駄目になる。」


老婦人が頷く。


「そうなの。」


男性。


「俺も最初は全部無視できた。」


若者。


「三十分後から無理だった。」


イヤーマフの男。


「一時間で……これ買った。」


イヤーマフを指す。


天城。


「効いてないでしょう。」


「うん……。」


久世は。


満足そうに四人を眺める。


そして。


ホワイトボードへ向かった。


ペンを取る。


大きく。


書く。


⸻


言葉は、繰り返すと先回りする。


⸻


天城が見る。


久世の表情から。


初めて。


親父ギャグの気配が少し消えた。


「人間の脳は。」


久世が言う。


「次に来るものを。」


「ずっと予測している。」


「言葉も。」


「音も。」


「状況も。」


「何度も同じ結び付きを経験すれば。」


「ある言葉を聞いただけで。」


「次の言葉が浮かびやすくなる。」


天城が。


さっきのやり取りを思い出す。


ソーダ。


そうだ。


コーラ。


こら。


「……プライミング。」


久世が振り返った。


老人の目が。


少しだけ。


鋭くなる。


「ほう。」


「知っているか。」


「多少。」


「刺激が。」


「その後の情報処理に影響する。」


天城は自分の頭を指す。


「だから。」


「ここに居続けると。」


久世がニヤリ。


「親父ギャグ脳になる。」


「学術用語を全部返せ。」


一瞬で。


空気が戻った。


店中が笑う。


⸻


天城は。


コーヒーを飲み干した。


「……。」


時計を見る。


まだ。


四十分ほどしか経っていない。


体感では。


三時間。


「そろそろ帰ります。」


久世が驚く。


「もうか。」


「十分です。」


「まだ始まったばかりだぞ。」


「何が。」


久世は。


カウンターの下から。


妙な器具を取り出した。


頭に被る形。


電極。


センサー。


ケーブル。


天城の顔から。


わずかに表情が消えた。


「……それ。」


「何ですか。」


久世が。


晴れやかに答えた。


「脳波計。」


「何に使う気です。」


「君に。」


「帰ります。」


即答。


「待て!」


「絶対嫌です。」


「安全だ!」


「この店に来て四十分で、その言葉への信用が消えました。」


「失礼な。」


久世が脳波計を抱える。


「ただ。」


声が。


少しだけ。


楽しそうになる。


「一つ確かめたいだけだ。」


「何を。」


久世は。


天城を見る。


「君が。」


一拍。


「何分後に。」


にやり。


「私より先に親父ギャグを言い始めるか。」


「一生言わない。」


老婦人が。


ぼそり。


「私も最初そう言った。」


新聞の男性。


「俺も。」


若者。


「俺も。」


イヤーマフの男。


「俺も……。」


「全員やられてるじゃないですか!」


久世は両手を広げた。


「ようこそ。」


満面の笑み。


「珈琲研究所『豆知識』へ。」


天城は。


初めて。


この店へ入ったことを。


少しだけ。


後悔した。


だが同時に。


ほんの少しだけ。


面白いとも。


思ってしまっていた。


それが。


一番まずかった。


この時の天城は。


まだ知らない。


この店に滞在し続けた結果。


数時間後。


常連客の一人が腹筋を押さえながら。


本気とも冗談ともつかない声で。


「救急車……。」


と呟き。


本当に店の前へ救急車が来ることになるなど。


もちろん。


知る由もなかった。


ただし。


命に別状はない。


原因は。


ただ一つ。


笑いすぎ。


そしてその時。


救急隊員まで。


久世笑造の餌食になることも。


まだ。


誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。