第三十二話 豆知識は、だいたいいらない ― 1 ソーダ? そうだな ―
翌日。
昼を少し回った頃。
天城は、藍庭の北西端まで来ていた。
この先へ二本ほど路地を抜ければ、旧工場や修理屋が増え始める錆路。
その境目にある、通称――
六角通り。
古い測定器屋。
中古部品店。
時計修理店。
何を売っているのか分からない店。
そんなものが雑然と並ぶ通りだった。
昨日すれ違った女性二人が話していた店は、その六角通りからさらに一本入った場所にあるらしい。
『白衣のオヤジがいる』
『カフェなのか研究所なのか分かんない』
『もう腹筋が無理になって、知らないお客さんに“助けて……”って絡んじゃった』
そこまで聞いたら。
普通の人間なら。
近寄らない。
「……。」
天城は路地を進んだ。
普通ではなかった。
というより。
暇だった。
次の案件まで二日。
昨日の時点で、その空白は確認済み。
そして何より。
知らない客に助けを求めるほどの親父ギャグとは何なのか。
そこだけが。
どうにも頭から離れなかった。
「確認だけだ。」
天城は自分に言い聞かせる。
「コーヒー一杯。」
「それで帰る。」
角を曲がった。
そして。
止まった。
「……これか。」
古い二階建て。
一階部分だけが店舗になっている。
外観は。
一見すると落ち着いた喫茶店だった。
木枠の窓。
小さなランプ。
年季の入った扉。
だが窓の向こう。
コーヒーミル。
サイフォン。
カップ。
その隣に。
顕微鏡。
試験管立て。
遠心分離機。
人間の脳模型。
用途不明の銀色の球体。
さらに奥には。
巨大なホワイトボードいっぱいの数式。
「……。」
昨日の女性。
正しかった。
店なのか。
研究所なのか。
本当に分からない。
天城は看板を見る。
⸻
珈琲研究所
『豆知識』
一杯の珈琲と、いらない知識をあなたに。
⸻
「いらないなら教えるなよ。」
反射的に口から出た。
そしてその横。
古い真鍮板。
⸻
所長兼店主
久世 笑造
くぜ・しょうぞう
⸻
「……笑造。」
名前からして。
少し嫌な予感がした。
入口にも貼り紙がある。
⸻
当研究所をご利用のお客様へ
飲食可
雑談可
読書可
実験可
昼寝可
親父ギャグへの苦情可
ただし改善は期待しないでください。
⸻
「そこは改善しろ。」
さらに扉。
⸻
押してください。
引いても開きません。
人生と同じです。
⸻
「……。」
天城は押した。
開かない。
もう一度。
押す。
開かない。
「……?」
紙の下に。
極小文字。
⸻
※本日は引いてください。
⸻
天城は目を閉じた。
「まだ入ってもいないんだけどな……。」
一瞬。
本気で帰ろうと思った。
だが。
昨日の女性の声が蘇る。
『助けて……』
「……。」
天城は扉を引いた。
カラン。
ベルが鳴る。
静かなジャズ。
コーヒーの香り。
想像以上に落ち着いた店内だった。
客は四人。
窓際で本を読む老婦人。
カウンターで新聞を広げる中年男性。
ノートパソコンを開いている若者。
そして。
一番奥。
イヤーマフを装着してコーヒーを飲んでいる男。
「……。」
天城の視線が止まる。
イヤーマフの男と目が合った。
男は。
ゆっくり。
親指を立てた。
意味が分からない。
その時。
奥から声。
「いらっしゃい。」
白衣の老人が現れた。
ぼさぼさの白髪。
丸眼鏡。
白衣の胸元には大量のペン。
首にはゴーグル。
そして。
左手にはビーカー。
右手には。
なぜかソーダ瓶。
「初めて見る顔だな。」
老人が言う。
「昨日、この店の噂を聞きまして。」
「ほう。」
「若い女性二人から。」
老人の目が細くなる。
「片方が。」
天城は続ける。
「笑いすぎて、知らない客に『助けて』と絡んだとか。」
「ああ。」
老人は即答した。
「木曜の子だな。」
「曜日で覚えてるんですか。」
「火曜にも一人いた。」
「常習じゃないですか。」
老人――久世笑造は、何でもないように頷いた。
「安心したまえ。」
「何をです。」
「二人とも生還した。」
「喫茶店で使う言葉じゃない。」
カウンターの中年男性の肩が。
一度。
震えた。
天城が見る。
男性は新聞で顔を隠した。
久世が天城を指差す。
「君。」
「はい。」
「いいな。」
「何がです。」
「返しが速い。」
「初対面の客をツッコミ性能で評価しないでください。」
久世が満足そうに頷く。
「A判定。」
「何の試験ですか。」
「生存率。」
「帰ります。」
「待て待て。」
久世が白衣を翻して回り込んだ。
「一杯くらい飲んでいきたまえ。」
⸻
天城は。
結局。
座った。
すぐ隣。
新聞の男性が小声で言う。
「初めてですか。」
「はい。」
男性は遠い目をした。
「最初は。」
一拍。
「みんなそう言うんです。」
「何を?」
「一杯だけって。」
「……。」
言い方が。
完全に危険な店だった。
久世がメニューを置く。
天城は開いた。
⸻
実験一号
黒色焙煎種子熱水抽出液
通称:コーヒー
実験二号
乳脂肪添加黒色焙煎種子熱水抽出液
通称:カフェラテ
実験三号
低温黒色焙煎種子抽出液
通称:アイスコーヒー
炭酸実験
ソーダ
所長に任せる
やめておいた方がいい
⸻
天城は最後の項目を二度見した。
「自分で止めるならメニューから消してください。」
「親切だろう。」
「罠を設置して『罠です』って看板立ててるようなものですよ。」
新聞の男性が。
「ぶっ。」
小さく吹いた。
久世が満足げに頷く。
「今日も客同士の交流が活発だ。」
「あなたが原因でしょう。」
「さて。」
久世が聞く。
「何にする。」
「普通のコーヒーを。」
「ブラック?」
「はい。」
久世の表情が。
急に曇った。
「奇遇だ。」
「何がです。」
「私の研究費もブラックだ。」
「聞いてません。」
窓際。
老婦人が本を閉じた。
「博士。」
「なんだ。」
「それ昨日も聞いたよ。」
「再現性は科学の基本だ。」
「ギャグに再現性を求めるな。」
天城が即座に返す。
一拍。
店内から。
くすくす。
笑いが漏れた。
久世は天城を見る。
「やはりA判定。」
「だから何の。」
⸻
だが。
久世がコーヒー豆へ手を伸ばした瞬間。
空気が変わった。
電子スケール。
十九・二グラム。
豆を確認。
ミル。
粒度調整。
水温。
九十二度。
器具を予熱。
タイマー。
湯量。
動きに迷いがない。
天城は少し意外そうに見る。
「……ちゃんとやるんですね。」
久世の手が止まった。
「君。」
「はい。」
「私を何だと思って来た。」
「親父ギャグを言う怪しい老人。」
「概ね合っている。」
「合ってるんですか。」
久世は湯を少量注ぐ。
コーヒー粉が膨らむ。
甘い香りが立った。
「焙煎した豆には二酸化炭素が残る。」
声が。
少しだけ研究者のものになる。
「最初に少量の湯で粉を湿らせる。」
「いわゆる蒸らしだ。」
「ガスを抜き。」
「抽出を均一にしやすくする。」
天城が膨らむ粉を見る。
「豆が新しいほど膨らみやすい?」
「概ねな。」
久世が頷く。
「ただし。」
「膨らめば膨らむほど絶対に旨い。」
「という単純な話でもない。」
「焙煎度。」
「保存。」
「豆の状態。」
「挽き方。」
「見るものは一つではない。」
天城が少し目を細める。
まともだ。
しかも。
かなり詳しい。
久世は二投目の湯を注ぐ。
細い水流。
一定。
「湯温が高ければ抽出は進みやすい。」
「だが。」
「欲しい成分だけ都合よく出るわけではない。」
「苦味も。」
「酸味も。」
「香りも。」
「条件次第で印象が変わる。」
天城は思わず聞く。
「水も?」
「当然。」
久世が笑う。
「水のミネラル組成でも変わる。」
「珈琲はほとんど水だ。」
「豆だけ見て。」
「水を見ないのは――」
一拍。
久世が真顔になる。
「木を見て森を見ず。」
天城が少し身構える。
「……普通のことわざですね。」
「今。」
「ギャグが来ると思っただろう。」
「……。」
久世の口角が上がる。
「もう始まっている。」
「何が。」
「警戒。」
「嫌な研究対象にされた気分なんですが。」
⸻
抽出終了。
久世がカップを置く。
「飲みたまえ。」
天城は一口。
「……。」
思わず。
もう一口。
美味しい。
香りが強い。
けれど。
苦味が口にへばり付かない。
温度もちょうどいい。
久世が腕を組む。
「どうだ。」
「……美味しいです。」
「そうだろう。」
久世が胸を張る。
「珈琲には。」
天城が警戒する。
「かなり。」
久世。
「深入りしておる。」
「……っ。」
危ない。
ほんの少し。
口角が上がった。
久世の指が。
即座に天城へ向く。
「今。」
「笑ってません。」
「右口角二ミリ。」
「観測するな。」
「研究所だぞ。」
「研究対象に同意してない。」
「客は皆そう言う。」
カウンターの男性が新聞の陰から呟く。
「俺も言いました。」
「やっぱり勝手にやってるんですか。」
⸻
その時。
若者が手を挙げた。
「博士。」
「なんだ。」
「ソーダちょうだい。」
久世が動きを止める。
店内の常連客も。
一斉に。
止まった。
老婦人が本を閉じる。
新聞の男性が新聞を下げる。
イヤーマフの男まで。
イヤーマフを少しずらした。
天城は。
その異様な空気を感じる。
「……?」
久世は冷蔵庫からソーダ瓶を取り出した。
そして。
若者を見る。
「ソーダ?」
若者が。
唇を噛む。
久世。
真顔。
「そうだな。」
「…………。」
若者の肩が。
ぶるっ。
と震えた。
「っ……!」
天城も。
危うく吹いた。
あまりにも。
単純。
あまりにも。
古典的。
なのに。
久世が。
一ミリも笑っていない。
むしろ。
実験結果を述べる研究者の顔。
「……。」
天城の腹が。
ひくっ。
久世の目が動く。
「反応あり。」
「数えるな。」
若者がソーダを受け取る。
「博士。」
「なんだ。」
「レモン入れて。」
「入れもん?」
「っ……!」
若者がカウンターへ突っ伏した。
新聞の男性が。
新聞で顔を隠す。
老婦人が本で顔を隠す。
なぜか。
イヤーマフの男も。
肩を震わせている。
天城は思わず聞いた。
「イヤーマフしてるのに何で笑ってるんですか。」
男は苦しそうに答えた。
「口の……動きで……分かる……。」
「防御の意味ないじゃないですか。」
「昨日から……学習して……。」
「嫌な学習だな!」
久世が静かに頷いた。
「順調だ。」
「何が。」
「適応。」
「悪化でしょう。」
⸻
老婦人が手を挙げる。
「博士。」
「うむ。」
「ホットミルク。」
「ほっとする?」
「先に言うんじゃないよ!」
老婦人が笑う。
久世が少し残念そうな顔。
「先読みされた。」
新聞の男性。
「もう常連はみんなそうなる。」
天城が聞く。
「そんなに?」
男性が頷く。
「昨日。」
「会社で上司に。」
「『コピー取って』って言われたんです。」
「はい。」
男性の顔が曇る。
「気付いたら。」
「『コピーだけに、こっぴーどく使いますね』って……。」
「成立してないですよ。」
「分かってるんです!」
男性が頭を抱える。
店内が爆笑。
「上司にも!」
「『何だそれ』って!」
老婦人が涙を拭く。
「末期だねえ。」
久世が手帳を開く。
「第四段階。」
男性が顔を上げる。
「段階あるの!?」
「自発的新語形成。」
「病名っぽくするな!」
また。
笑い。
天城まで。
「……ふっ。」
漏れた。
天城が自分で止まる。
「……。」
久世が。
ものすごく嬉しそうに。
手帳へ書く。
「新規客。」
「初回曝露より二十七分。」
「笑い反応三回。」
「記録するな。」
「観察は科学の基本だ。」
「親父ギャグで科学を汚すな。」
⸻
若者がソーダを飲む。
「博士。」
「なんだ。」
「今度はコーラも。」
久世。
「こら。」
若者。
「分かってたのに……っ!」
机を叩く。
老婦人も笑う。
新聞の男性も。
そして。
天城も。
「っ……!」
腹を押さえた。
一つなら。
寒い。
間違いなく寒い。
だが。
次が分かる。
分かるのに。
言われる。
しかも。
全員が。
来ると分かって待っている。
その妙な一体感。
「……これ。」
天城は眉を寄せる。
「何なんだ。」
久世が見る。
「何が?」
「一個一個は。」
「大して面白くない。」
店内が静まる。
久世。
「失礼な。」
「でも。」
天城は続ける。
「続くと。」
「何故か。」
「……。」
腹が。
また震える。
「駄目になる。」
老婦人が頷く。
「そうなの。」
男性。
「俺も最初は全部無視できた。」
若者。
「三十分後から無理だった。」
イヤーマフの男。
「一時間で……これ買った。」
イヤーマフを指す。
天城。
「効いてないでしょう。」
「うん……。」
久世は。
満足そうに四人を眺める。
そして。
ホワイトボードへ向かった。
ペンを取る。
大きく。
書く。
⸻
言葉は、繰り返すと先回りする。
⸻
天城が見る。
久世の表情から。
初めて。
親父ギャグの気配が少し消えた。
「人間の脳は。」
久世が言う。
「次に来るものを。」
「ずっと予測している。」
「言葉も。」
「音も。」
「状況も。」
「何度も同じ結び付きを経験すれば。」
「ある言葉を聞いただけで。」
「次の言葉が浮かびやすくなる。」
天城が。
さっきのやり取りを思い出す。
ソーダ。
そうだ。
コーラ。
こら。
「……プライミング。」
久世が振り返った。
老人の目が。
少しだけ。
鋭くなる。
「ほう。」
「知っているか。」
「多少。」
「刺激が。」
「その後の情報処理に影響する。」
天城は自分の頭を指す。
「だから。」
「ここに居続けると。」
久世がニヤリ。
「親父ギャグ脳になる。」
「学術用語を全部返せ。」
一瞬で。
空気が戻った。
店中が笑う。
⸻
天城は。
コーヒーを飲み干した。
「……。」
時計を見る。
まだ。
四十分ほどしか経っていない。
体感では。
三時間。
「そろそろ帰ります。」
久世が驚く。
「もうか。」
「十分です。」
「まだ始まったばかりだぞ。」
「何が。」
久世は。
カウンターの下から。
妙な器具を取り出した。
頭に被る形。
電極。
センサー。
ケーブル。
天城の顔から。
わずかに表情が消えた。
「……それ。」
「何ですか。」
久世が。
晴れやかに答えた。
「脳波計。」
「何に使う気です。」
「君に。」
「帰ります。」
即答。
「待て!」
「絶対嫌です。」
「安全だ!」
「この店に来て四十分で、その言葉への信用が消えました。」
「失礼な。」
久世が脳波計を抱える。
「ただ。」
声が。
少しだけ。
楽しそうになる。
「一つ確かめたいだけだ。」
「何を。」
久世は。
天城を見る。
「君が。」
一拍。
「何分後に。」
にやり。
「私より先に親父ギャグを言い始めるか。」
「一生言わない。」
老婦人が。
ぼそり。
「私も最初そう言った。」
新聞の男性。
「俺も。」
若者。
「俺も。」
イヤーマフの男。
「俺も……。」
「全員やられてるじゃないですか!」
久世は両手を広げた。
「ようこそ。」
満面の笑み。
「珈琲研究所『豆知識』へ。」
天城は。
初めて。
この店へ入ったことを。
少しだけ。
後悔した。
だが同時に。
ほんの少しだけ。
面白いとも。
思ってしまっていた。
それが。
一番まずかった。
この時の天城は。
まだ知らない。
この店に滞在し続けた結果。
数時間後。
常連客の一人が腹筋を押さえながら。
本気とも冗談ともつかない声で。
「救急車……。」
と呟き。
本当に店の前へ救急車が来ることになるなど。
もちろん。
知る由もなかった。
ただし。
命に別状はない。
原因は。
ただ一つ。
笑いすぎ。
そしてその時。
救急隊員まで。
久世笑造の餌食になることも。
まだ。
誰も知らなかった。




