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第三十一話 二日休みと、寒い噂

藍庭の夜を抜けて、天城が店へ戻った頃には、日付が変わりかけていた。


鍵を閉める。


照明を落とす。


二階へ上がる。


コートを脱ぐ。


そして。


風呂へ直行した。


⸻


「あ゛ー……。」


湯船に沈んだ瞬間。


声が出た。


誰に聞かせるわけでもない。


首まで湯に浸かり、天城は天井を眺める。


今日一日の光景が、頭の中をゆっくり流れていく。


雫。


月島。


冷めたカフェラテ。


何度も繰り返された確認。


『嫌いになった?』


『邪魔?』


『本当に?』


そして最後に。


月島から離れた席で、


一人で飲んだ温かい一口。


「……。」


天城は湯の中で息を吐いた。


「一杯でどうにかなる話じゃないよな。」


当然だった。


人間の癖は、


機械の設定値みたいに、


一度書き換えれば終わりではない。


明日になれば。


また怖くなるかもしれない。


また確認するかもしれない。


また誰かとの距離を測れなくなるかもしれない。


それでも。


今日できたことは残る。


「離れてても……いなくならない、か。」


天城は小さく呟いた。


そして。


浴槽の縁から後頭部を離した。


力を抜く。


足が浮く。


肩も浮く。


ぷか。


「……。」


さらに力を抜く。


ぷかぷか。


天城は湯船の中で、


ほとんど何も考えずに天井を見ていた。


右へ流れる。


浴槽の壁に当たる。


反対へ流れる。


ぷか。


「……いいな、これ。」


何がいいのかは、


本人にもよく分かっていない。


天城はぼんやり呟いた。


「雫もさ。」


「海にいるラッコみたいに。」


ぷか。


「一生こうやって浮かんでれば。」


ぷかぷか。


「誰が離れたとか。」


「嫌われたとか。」


「距離が近いとか遠いとか。」


「そんなこと何にも考えなくて済むんだろうな。」


少し想像する。


広い海。


青い空。


ぷかぷか浮いているラッコ。


腹の上には貝。


周囲には誰もいない。


波だけが運んでくれる。


「食う。」


「寝る。」


「浮く。」


「たまに貝を割る。」


ぷか。


「頭ん中ずっとお花畑で。」


「最高だろうな……。」


真顔だった。


数秒。


天城は眉を寄せる。


「……いや。」


「ラッコにも人間関係あるか。」


さらに考える。


「縄張りとか。」


「餌とか。」


「子育てとか。」


ぷかぷか。


「……結局、生き物って面倒だな。」


そして。


ゆっくり沈んだ。


ぶくぶくぶく。


数秒後。


顔を出す。


「クラゲならどうだ。」


また真剣に考える。


「ほぼ浮いてる。」


「流されてる。」


「考えてなさそう。」


間。


「……いや。」


「脳ないのか。」


さらに間。


「最強じゃないか。」


誰も聞いていない。


天城は天井を見ながら、


心底羨ましそうに呟いた。


「来世、クラゲも悪くないな……。」


⸻


風呂から上がる。


髪を雑に拭きながら、一階へ降りる。


カウンターの上には、


例のタブレット。


何気なく画面を点ける。


新着通知。


一件。


「もう来たのか。」


開く。


だが。


依頼ではなかった。


⸻


次回予約


受付予定:二日後

詳細:当日開示


⸻


「……二日後。」


天城は画面を見つめる。


確認する。


やはり二日後。


店の予約もない。


Helpも、現時点ではない。


つまり。


丸二日。


何もない。


「……。」


天城は椅子へ座った。


暇というものに、


まだ慣れていなかった。


中央にいた頃は。


次の仕事が来る。


終わる。


また来る。


終わる。


空白は休息ではなく、


次の仕事までの待機時間だった。


だが。


ここでは違う。


誰にも使い道を指定されない二日間が、


突然。


目の前へ置かれている。


「……何すればいいんだ。」


タブレットは答えない。


「掃除はした。」


答えない。


「仕込みもない。」


答えない。


夫の書棚が頭に浮かぶ。


心理学。


神経科学。


食品科学。


哲学。


発酵。


分厚い本。


「……休みの日まで勉強するのも違うか。」


タブレットを伏せた。


⸻


翌日。


昼過ぎ。


天城は買い物袋を提げて藍庭を歩いていた。


牛乳。


卵。


パン。


コーヒー豆。


必要最低限。


こうして街を歩いていると、


中央とは違って、


知らない人間の会話が普通に耳へ入ってくる。


誰も会話を最適化しない。


話は脱線する。


くだらないことで笑う。


同じ話を二度する。


効率は悪い。


けれど。


最近。


天城はそれを嫌いではなくなっていた。


前から若い女性が二人歩いてくる。


一人は、


すでに笑っていた。


というより。


思い出し笑いを必死に堪えている。


「だから、もう行きたくないんだって。」


「昨日も言ってたじゃん。」


「でも行っちゃったんだよ!」


「なんでよ。」


「怖いもの見たさ。」


二人が近付いてくる。


「でさ。」


「私がアイスコーヒー頼んだの。」


「うん。」


「そしたらあのオヤジ、真顔で。」


女性は低い声を真似る。


「『アイスかね。なるほど……コーヒーを愛す。実に結構』」


もう一人が吹き出す。


「最悪。」


「まだあるよ。」


「レモンティー頼んでる客にさ。」


「うん。」


「『レモンは入れますかな? 入れもんだけに』」


「やめて。」


「私その時点で駄目だった。」


笑いながら歩いている。


天城とすれ違う。


声だけが後ろへ流れていく。


「あとサンドイッチ持ってきて。」


「何言ったと思う?」


「知らない。」


「『今日の具はグーですぞ』。」


「ベタすぎる!」


二人の笑い声が響く。


「でね。」


「私もう耐えようと思って。」


「コーヒーだけ見てたの。」


「目合わせたら負けだと思って。」


「何の戦いなの。」


「そしたら向こうから来て。」


「砂糖の試験管持ちながら。」


女性がまた声を作る。


「『お砂糖はいかがかな。まあ、糖分の話は当分置いておくとして』」


「っ……!」


もう一人が腹を押さえる。


「待って、それ無理!」


「私も無理だった!」


歩きながら片方がしゃがみそうになる。


「しかも全部!」


「真顔なんだよ!」


「自分では一回も笑わないの!」


「それが一番ズルい!」


「で、最後。」


女性は自分の腹を押さえた。


「私ほんとに腹筋死にかけて。」


「近くにいた全然知らないお客さんの腕掴んで。」


「何したの。」


「『助けて……』って。」


「知らない人に!?」


「その人も笑いすぎてて。」


「『俺も無理です』って言われた。」


「地獄じゃん!」


二人が爆笑する。


天城の足が、


止まった。


「……。」


ゆっくり振り返る。


女性二人はまだ話している。


「ていうか、あれ本当にカフェなの?」


「知らない。」


「店なのか研究所なのか分かんない。」


天城の眉が動いた。


「……研究所?」


遠ざかる声。


「白衣でコーヒー出してくるし。」


「この前なんかビーカーでお湯沸かしてたよ。」


「大丈夫なの、それ。」


「あと壁に数式びっしり。」


「なんの店だよ。」


二人の姿が角の向こうへ消える。


天城は、


しばらくその場に立っていた。


「……。」


歩き出す。


三歩。


止まる。


「オヤジギャグ。」


また歩く。


「白衣。」


五歩。


「試験管。」


さらに。


「ビーカー。」


十歩。


「研究所みたいなカフェ。」


止まる。


「……。」


どう考えても。


関わらない方がいい。


天城は再び歩き始める。


「行く理由はない。」


一歩。


「次の仕事まで二日あるだけだ。」


二歩。


「だからといって。」


三歩。


「見知らぬオヤジの親父ギャグを浴びに行く理由にはならない。」


角を曲がる。


止まった。


「……でも。」


店なのか研究所なのか分からない。


そこだけが。


妙に引っ掛かる。


天城は買い物袋を持ち直す。


「……明日。」


一拍。


「暇だし。」


誰に聞かせるでもなく。


ぼそり。


「見るだけ見てみるか。」


その時。


天城はまだ知らなかった。


その店で。


「助けて」と言いたくなるのは、


親父ギャグを聞かされた客だけではないことを。


そして。


店主を名乗る白衣の老人が、


笑っていいのか。


逃げた方がいいのか。


そもそも人類の分類上、


普通の老人として扱っていいのか。


二日間ずっと悩む羽目になることを。


天城は何も知らず。


夕暮れの藍庭を歩いていった。


買い物袋から飛び出した長ネギだけが、


妙に楽しそうに揺れていた。


――次の案件まで。


あと二日。

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