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第二十八話 愛着半径 6

オーブンの予熱ランプが赤く灯る。


低い機械音だけが、静かな店内に響いていた。


雫は涙を拭きながら、その音をぼんやり見つめている。


月島はフィナンシェの型を取り出した。


「……久しぶりです。」


小さく笑う。


「妻が亡くなってから、一度も使っていませんでした。」


型は丁寧に洗われていた。


だが、焼かれた跡だけが止まったままだった。


天城は静かに型を見つめる。


「月島さん。」


「はい。」


「人は安心すると、何が起きると思いますか。」


突然の質問だった。


月島は少し考える。


「……笑いますか。」


「それもあります。」


天城は頷いた。


「でも、もっと先に起きることがあります。」


静かな声だった。


「呼吸が深くなります。」


「肩の力が抜けます。」


「唾液が出ます。」


「胃が動きます。」


「温かいものを飲めるようになります。」


雫がゆっくり顔を上げた。


天城は続ける。


「逆に、不安が続いている人は。」


「身体が危険だと思っています。」


「だから。」


「呼吸は浅い。」


「口は乾く。」


「胃は動かない。」


「温かい飲み物が進まない。」


月島が雫を見る。


テーブルの上。


カフェラテは、やはりほとんど減っていなかった。


「つまり……。」


月島が呟く。


「飲めないんじゃなくて。」


「身体が飲ませてくれない。」


「その方が近いですね。」


天城は静かに答えた。


「意思だけでは変えられません。」


「身体が安全だと判断しない限り。」


雫は両手でカップを包んでいた。


温かさは感じている。


それでも飲めない。


「だから今回は。」


天城は厨房へ向かった。


「身体から安心を思い出してもらいます。」


月島が棚を開ける。


「何を使いますか。」


天城は一つずつ材料を見ていく。


「カモミール。」


瓶を手に取る。


「キク科の植物です。」


「古くからハーブティーとして使われています。」


「強い薬ではありません。」


「ただ、不安を和らげたり、眠りにつきやすくしたりする研究があります。」


月島は静かに頷く。


次にラベンダーを手に取る。


「これは香りです。」


「嗅覚は五感の中でも、記憶や感情と結び付きやすい感覚です。」


「だから安心していた頃の記憶がある人ほど、香りで落ち着くことがあります。」


雫は目を閉じ、小さく息を吸った。


まだ淹れてもいない。


それでも反応していた。


天城は蜂蜜を持ち上げる。


「砂糖でも甘くはできます。」


「ですが、今回は蜂蜜を使います。」


月島が尋ねる。


「理由は。」


「甘さが目的ではありません。」


「蜂蜜は甘味の立ち上がりが穏やかです。」


「刺激ではなく、余韻として残りやすい。」


「安心は、一気には作れません。」


「少しずつ残る方がいい。」


月島は真剣な表情で聞いていた。


今度は牛乳を冷蔵庫から取り出す。


「牛乳は。」


「温めることで香りが立ちます。」


「乳脂肪の香りは、人によっては幼少期の食卓や家庭を思い出すことがあります。」


「もちろん全員ではありません。」


「ですが、この店には十分な理由があります。」


天城はオーブンへ目を向けた。


「焼きたてのフィナンシェ。」


「焦がしバター。」


「アーモンド。」


「温かい牛乳。」


「この店で昔、毎日のように重なっていた香りです。」


店内が静まり返る。


雫は何も言わない。


ただ、小さく震えていた。


天城は続ける。


「人は記憶を思い出して安心することもあります。」


「ですが逆もあります。」


「安心できる香りや音、温度に触れてから、記憶がゆっくり戻ることもあります。」


月島が写真を見つめた。


「あの頃の店が……。」


「ええ。」


天城は頷く。


「今日は再現します。」


そう言って、作業台の上へ材料を並べた。


カモミール。


ラベンダー。


蜂蜜。


牛乳。


フィナンシェの型。


バター。


アーモンドプードル。


小麦粉。


卵。


一つずつ。


丁寧に。


天城はそれらを見つめた。


そして目を閉じる。


頭の中に、いつもの樹形図が広がっていく。


⸻


目的


安心を思い出す


↓


交感神経の緊張を緩める


↓


呼吸を深くする


↓


温かい飲み物を受け入れる


↓


安心が身体に残る


↓


確認行動を減らす


⸻


飲み物


温めた牛乳


↓


カモミール


↓


ラベンダー


↓


蜂蜜


⸻


おやつ


焼きたてフィナンシェ


↓


焦がしバターの香り


↓


アーモンドの香ばしさ


↓


焼きたての温度


⸻


天城はゆっくりと目を開いた。


「……これでいきます。」


その一言と同時に。


オーブンの予熱完了を知らせる電子音が、小さく鳴った。


店内には、誰もまだ知らない”安心”の香りが生まれようとしていた。

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