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第二十九話 愛着半径 7

オーブンの予熱完了を知らせる音が消えた。


店内に、またジャズだけが残る。


月島はしばらくオーブンを見つめていた。


「……本当に、焼くんですね。」


「はい。」


天城は短く答えた。


「昔と同じものを作れますか。」


月島は少し困ったように笑う。


「妻のレシピなら、残っています。」


「ただ。」


「私が作っても、同じ味にはならないと思います。」


天城は首を横に振った。


「同じである必要はありません。」


「え?」


「再現するのは、味じゃない。」


天城は雫を見る。


「安心できた条件です。」


雫は窓際の席で、黙ってこちらを見ていた。


泣いた跡が、まだ頬に残っている。


それでも。


さっきまでとは違う。


入口ではなく。


厨房を見ていた。


⸻


月島が古いノートを取り出した。


表紙には、小さな油染み。


ページの端には焦げ跡。


何度も開かれたのだろう。


角が柔らかく潰れている。


月島がページをめくる。


「これです。」


天城が覗き込む。


分量の横に、細かな書き込みがあった。


『焦がしすぎない』


『六分で一度見る』


『雨の日は少し長め』


そして。


ページの下。


小さな文字。


『焼き上がったら、すぐ扉を開けること』


月島が苦笑する。


「これ、妻の癖なんです。」


「せっかちだったので。」


天城はその一文を見つめる。


「違います。」


「え?」


「おそらく。」


「香りを店内へ出すためです。」


月島が目を瞬く。


天城は店内を振り返る。


オーブンから窓際まで。


一直線だった。


「焼き上がる。」


「扉を開ける。」


「熱い空気と一緒に、焦がしバターの香りが広がる。」


「その頃に来た客は。」


「注文する前から、この店の匂いを覚える。」


月島はノートへ視線を落とした。


「……そんなことまで考えてたのかな。」


「本人に聞かなければ分かりません。」


天城は淡々と言う。


「でも。」


「雫さんの身体は覚えています。」


二人の視線が窓際へ向く。


雫は何も言わない。


ただ。


古いノートを見つめていた。


⸻


バターを鍋へ入れる。


火をつける。


溶ける。


泡が立つ。


白い泡が細かくなり。


やがて。


甘い香りの奥に、ナッツのような香ばしさが混じり始める。


月島が鍋を揺らす。


その瞬間だった。


雫の指が止まった。


スマートフォンの画面に触れようとしていた指。


そのまま。


空中で止まる。


天城は見ていた。


まだ声は掛けない。


バターが色付く。


火を止める。


アーモンドプードル。


小麦粉。


砂糖。


卵白。


一つずつ混ざっていく。


月島の動きはぎこちなかった。


三年ぶりなのだから当然だった。


「妻はもっと早かったんです。」


月島が笑う。


「話しながらでも、全部できた。」


「私は計らないと駄目で。」


天城は答える。


「計ればいいんです。」


「……。」


「昔と同じ人になる必要はありません。」


月島の手が一瞬止まる。


天城はそれ以上何も言わなかった。


月島も何も聞かなかった。


再び生地を混ぜる。


型へ流す。


オーブンへ入れる。


扉を閉めた。


カチッ。


小さな音。


雫の肩が揺れた。


⸻


「……その音。」


誰にも聞かせるつもりがないような声だった。


天城が振り返る。


「覚えていますか。」


雫は首を横に振る。


「分かんない。」


「でも。」


眉を寄せる。


「嫌じゃない。」


天城は頷いた。


「それで十分です。」


「思い出そうとしなくていい。」


「記憶は、引っ張るほど逃げることがあります。」


雫は黙っている。


「今日は。」


「正解を思い出す日ではありません。」


天城はそう言って、ハーブの瓶を開けた。


カモミール。


乾いた花の甘い香り。


そこへ、ごく少量のラベンダー。


月島が覗き込む。


「少ないですね。」


「多ければいいわけではありません。」


「香りが強すぎると。」


「今度は香りそのものを警戒します。」


「今回は。」


天城は雫を見る。


「気付くか気付かないか、そのくらいでいい。」


湯を注ぐ。


花がゆっくり浮かぶ。


そして沈む。


待つ。


天城は時計を見なかった。


雫の呼吸を見ていた。


浅い。


短い。


まだ肩が上がっている。


⸻


牛乳を温める。


沸騰させない。


湯気が立ち始めたところで火を止める。


抽出したハーブを合わせる。


最後に蜂蜜。


小さな匙一杯。


混ぜる。


天城は一口分だけ別のカップへ取り、確認した。


月島が尋ねる。


「どうですか。」


「……少しラベンダーが前に出ています。」


ほんの少し。


牛乳を足す。


再び確認する。


「これで。」


「杯って。」


月島が呟いた。


「もっと特殊なものだと思ってました。」


天城はカップを見つめる。


「特殊ですよ。」


「材料は普通でも。」


「誰に。」


「いつ。」


「どの順番で。」


「何と一緒に出すか。」


一拍。


「同じ一杯にはなりません。」


⸻


数分後。


オーブンの中で生地が膨らみ始める。


表面が色づく。


縁が少し濃くなる。


月島がそれを見つめている。


そして。


タイマーが鳴った。


ピピッ。


雫の身体がびくりと反応した。


月島が扉へ手を掛ける。


その瞬間。


天城が言った。


「すぐ開けてください。」


「え?」


「ノートに書いてあった通りに。」


月島は頷く。


扉を開く。


熱い空気が広がった。


焦がしバター。


アーモンド。


焼けた砂糖。


甘い香りが。


厨房から店内へ流れていく。


ゆっくり。


窓際まで。


雫のところまで。


「……。」


雫の目が見開かれた。


一度。


小さく息を吸う。


もう一度。


今度は。


深く。


肩が下がった。


天城は何も言わない。


月島も動かない。


雫の瞳が、どこにもないものを見つめていた。


⸻


赤い傘。


小さな靴。


雨。


誰かの手。


冷たい指先。


扉が開く。


ベル。


知らない大人の声。


怖い。


帰りたい。


でも。


いい匂い。


茶色い、小さなお菓子。


白い皿。


女性がしゃがんでいる。


自分と同じ高さまで。


笑っている。


『熱いから、ゆっくりね』


⸻


雫が突然、口元を押さえた。


「……。」


涙が落ちる。


一滴。


二滴。


月島が近付こうとする。


天城が小さく首を横へ振った。


今は。


触らない方がいい。


雫自身が、その記憶と一緒にいられる距離を残す。


しばらくして。


雫が呟いた。


「女の人。」


月島の顔が強張る。


「え?」


「女の人が……いた。」


「ここに?」


雫は頷く。


「多分。」


「顔は。」


「分からない。」


「でも。」


鼻をすすりながら。


ゆっくり言葉を探す。


「しゃがんで。」


「私に……。」


「熱いから、ゆっくりって。」


月島の視線が。


壁の写真へ向いた。


妻。


写真の中の女性。


しかし天城は断定しなかった。


「それ以上は。」


雫を見る。


「思い出さなくていいです。」


「でも……。」


「思い出さなきゃ。」


「必要ありません。」


天城の声は静かだった。


「記憶が正しいかどうかを証明することが目的ではありません。」


「今。」


「あなたの身体に何が起きたか。」


「そっちの方が大切です。」


雫は涙を拭く。


「何が……?」


「さっき。」


「香りが届いた時。」


天城は自分の肩を指した。


「ここ。」


雫も自分の肩を見る。


「下がりました。」


「……。」


「それから。」


「呼吸。」


雫は自分の胸へ手を当てる。


吸う。


吐く。


さっきより長い。


「……ほんとだ。」


月島も気付く。


「さっきまで、ずっと。」


「こんな呼吸じゃなかった。」


天城は頷く。


「頭で『大丈夫』と言っても。」


「身体が大丈夫だと思えないことがあります。」


「逆もあります。」


「頭では何も思い出せなくても。」


「身体の方が。」


一拍。


「先に安心を知っていることがある。」


雫は何も言わなかった。


ただ。


フィナンシェを見つめていた。


⸻


月島が皿へ一つ乗せる。


まだ熱い。


天城が止める。


「少し待ちましょう。」


「熱い方がいいんじゃ?」


「熱すぎると。」


「味より刺激が勝ちます。」


「今回は。」


「香りを感じて。」


「手で温度を感じて。」


「最後に味です。」


数分。


フィナンシェの表面から湯気が消える。


それでも、中心には温かさが残っている。


天城はカップと一緒にトレーへ載せた。


月島へ渡す。


「私が?」


「お願いします。」


月島は戸惑う。


「あなたの店です。」


天城は言った。


「これは。」


「私から出すものじゃない。」


月島はしばらくトレーを見つめた。


そして。


ゆっくりと雫の席へ歩いていく。


いつもなら。


雫の方から近付く。


顔を寄せる。


答えを求める。


しかし今日は。


月島が雫のところまで歩いていった。


「お待たせしました。」


トレーを置く。


カップ。


フィナンシェ。


雫はそれを見つめる。


「……私に?」


月島が微笑む。


「はい。」


「今日はサービスです。」


その言葉を聞いた瞬間。


雫の瞳がまた揺れた。


昔の記憶なのか。


今の言葉なのか。


本人にも分からない。


月島はそれ以上何も言わず。


一歩。


後ろへ下がった。


雫の前に。


空間ができた。


いつもなら。


その距離をすぐ埋める。


はずだった。


雫の身体が僅かに前へ動く。


「……。」


止まる。


天城は見ていた。


右手が。


ゆっくりカップへ伸びる。


両手で包む。


温かい。


逃げない。


誰も急かさない。


雫はカップの縁へ顔を近付ける。


香りを吸う。


カモミール。


ほんの僅かなラベンダー。


ミルク。


蜂蜜。


そして。


隣にある焼きたてのフィナンシェ。


「……。」


まだ飲まない。


天城も言わない。


飲んで。


とは。


誰も言わなかった。


数秒。


十秒。


さらに。


雫が小さく息を吐く。


そして。


カップを少しだけ傾けた。


ほんの一口。


口に含む。


飲み込む。


「……。」


雫自身が。


一番驚いた顔をした。


天城は、その表情を見ていた。


治ったわけではない。


何も解決していない。


明日になれば。


また不安になるかもしれない。


また確認するかもしれない。


また誰かへ近付きすぎるかもしれない。


それでも。


テーブルの上に。


これまで一度も減らなかった温かい飲み物がある。


その水面が。


ほんの少しだけ。


下がっていた。


天城は静かに呟いた。


「……一口目。」


杯は。


ようやく雫の中へ入った。


そして。


本当に確かめなければならないことは。


ここからだった。

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