第二十七話 愛着半径 5
店の奥。
壁に掛けられた一枚の写真。
天城はその前で立ち止まった。
木製の額縁。
少しだけ色褪せた写真。
若い頃の月島奏。
そして、その隣には一人の女性が笑っていた。
二人ともエプロン姿だった。
店の名前も、今より少し古い字体で書かれている。
「……奥様ですか。」
月島は静かに頷いた。
「三年前に亡くなりました。」
「病気で。」
天城は写真を見つめたまま、小さく尋ねる。
「雫さんは、その頃から来ていますか。」
「いいえ。」
「来るようになったのは半年ほど前です。」
「妻とは会ったこともありません。」
「……そうですか。」
天城は視線を写真から外した。
違う。
この写真そのものが答えではない。
もっと別のものだ。
その時、月島がふと思い出したように言った。
「そういえば……。」
「妻がいた頃は。」
「毎日、小さなサービスを出していました。」
「サービス?」
「ええ。」
「飲み物を頼んだお客さん全員に。」
「焼きたてのフィナンシェを一つ。」
天城の目がわずかに動く。
「焼きたて?」
「はい。」
「妻が毎日焼いていたので。」
「店中がバターの香りだったんです。」
「今は?」
「忙しくて。」
「市販のものです。」
「温めてもいません。」
月島は苦笑した。
「妻ほど上手じゃないので。」
天城は返事をしなかった。
その代わり、店内を見渡した。
今、この店にある香りは。
コーヒー。
ミルク。
少しだけ甘いケーキ。
それだけだった。
写真の頃とは、違う。
⸻
「月島さん。」
「はい。」
「雫さんが毎日座る席。」
「入口が見えるから。」
「……それだけではありません。」
月島は首を傾げた。
「え?」
「この席だけ。」
天城は窓際を指差した。
「厨房のオーブンが見えます。」
月島は振り返る。
「あ……。」
言われて初めて気付いたようだった。
厨房の小さなオーブン。
窓際の席からだけは、
扉が開く様子も、
湯気も、
中の焼き色も、
全部見える。
「以前は。」
天城は静かに続ける。
「ここから毎日。」
「焼きたてのお菓子が見えていた。」
「……。」
「香りも届いていた。」
月島は何も言えなかった。
⸻
その時だった。
雫が、小さく呟いた。
「……いい匂い。」
二人が振り返る。
雫は写真を見ていたのではない。
オーブンを見ていた。
そこには何も入っていない。
それでも。
「昔みたい。」
小さな声だった。
月島の表情が止まる。
「……昔?」
雫は慌てて首を振る。
「違う。」
「何でもない。」
「忘れて。」
しかし天城は、その一言を聞き逃さなかった。
「雫さん。」
彼女は顔を上げる。
「以前、この店へ来たことがありますね。」
沈黙。
雫は何も答えない。
「半年ではありません。」
「もっと前です。」
「……。」
「子どもの頃。」
雫の瞳が揺れた。
「……どうして。」
「覚えてない。」
「そんなはず。」
「私は……。」
頭を押さえる。
呼吸が速くなる。
月島が一歩踏み出そうとした、その時。
天城が静かに手を上げた。
「大丈夫です。」
その声は落ち着いていた。
「思い出せなくても構いません。」
雫の肩が少しだけ下がる。
「人の記憶は。」
天城は写真ではなく、
オーブンを見つめながら話した。
「言葉より先に。」
「香りで動くことがあります。」
「嗅覚は、脳の記憶や感情を司る場所と強く結び付いています。」
「だから。」
「理由は分からなくても。」
「『懐かしい』だけが先に来ることがあります。」
雫は静かに聞いていた。
「あなたは。」
「月島さんを求めて、この店へ来たんじゃない。」
「……。」
「安心できた頃の空気を。」
「探しに来ていたんです。」
店内に沈黙が流れる。
月島はゆっくりと写真へ目を向けた。
「あの頃の……空気。」
天城は頷いた。
「ええ。」
「でも、その空気は今の店にはありません。」
「だから毎日来ても。」
「安心できない。」
「安心できないから。」
「また来る。」
「確認する。」
「近付く。」
「それでも満たされない。」
雫の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「……私。」
震える声で呟く。
「誰かを待ってるんじゃ……。」
「なかったの?」
天城は静かに首を横へ振る。
「待っていたのは、人ではありません。」
一拍置いて続ける。
「安心して笑えた、あの日の自分です。」
雫は声を上げずに泣いた。
店内には誰も言葉を挟まない。
ジャズだけが、静かに流れていた。
天城はゆっくりと厨房へ向かう。
棚からカモミールを取り出す。
ラベンダー。
蜂蜜。
牛乳。
そして、オーブンの前で立ち止まる。
「月島さん。」
「はい。」
「フィナンシェを焼きましょう。」
月島は目を見開いた。
「今日は。」
天城は穏やかに微笑む。
「飲み物だけでは足りません。」
「この店の”安心”を、一緒に淹れます。」
オーブンのスイッチが入る。
静かな店に、小さな予熱の音が響き始めた。




