第二十六話 愛着半径 4
店内には、小さなジャズが流れていた。
音量は控えめだった。
話し声を邪魔しない程度。
カップが触れ合う音。
コーヒーミルが豆を挽く音。
スプーンが皿へ置かれる音。
どれも静かだった。
天城はその音を聞いていた。
「……。」
違和感が一つだけ残る。
音ではない。
“間”だった。
雫は入口を見ている。
三十秒。
四十秒。
一分。
また入口。
誰かが入るたびに。
必ず見る。
「……。」
天城は月島へ近付く。
「毎日ですか。」
月島は頷く。
「毎日。」
「閉店まで。」
「ずっと入口を見ています。」
「誰かを待ってる?」
「聞きました。」
月島は少し困ったように笑う。
「でも。」
『違います。』
「そう答えるだけでした。」
天城は再び雫を見る。
違う。
嘘ではない。
“違います”と答えている顔だった。
「……。」
天城は今度はカップを見る。
カフェラテ。
新しいもの。
湯気が立っている。
雫は両手で包む。
温める。
だが飲まない。
天城は静かに聞いた。
「冷たい飲み物は。」
月島はすぐ答える。
「飲みます。」
「アイスティー。」
「ジュース。」
「炭酸。」
「全部。」
「温かいものだけ?」
「そうです。」
「毎回。」
天城は少しだけ目を細めた。
「……。」
今度は雫の指を見る。
右手。
親指の爪。
少し荒れている。
噛んだ跡。
左手。
指先に赤み。
何度も擦っている。
「……。」
天城は椅子へ座った。
雫と少し距離を空けて。
真正面ではない。
斜め。
視界には入る。
圧迫しない距離。
「名前。」
雫が少しだけ顔を向ける。
「……雫。」
「仕事。」
「コンビニ。」
「夜。」
「寝る時間。」
「朝。」
「眠れますか。」
「眠れない。」
「夢。」
「見る。」
「起きる。」
返事は短い。
だが。
質問には全部答える。
会話は出来る。
思考もまとまっている。
天城は聞く。
「家。」
雫の肩が止まる。
「……帰ってます。」
「一人。」
「……。」
数秒。
「ご飯。」
「一人。」
「テレビ。」
「つけない。」
「音。」
「嫌い。」
「静かな方が落ち着く?」
雫はゆっくり首を横へ振った。
「違う。」
「じゃあ。」
「……。」
雫は少しだけ考える。
そして。
小さく言った。
「静かだと。」
一拍。
「誰もいない気がする。」
天城は黙った。
月島も動けない。
雫は続ける。
「でも。」
「音があると。」
「怒られる気がする。」
沈黙。
店内のジャズだけが流れる。
「だから。」
「イヤ。」
「でも。」
「静かもイヤ。」
月島が小さく息を飲む。
天城は静かに頷いた。
「……なるほど。」
小さく呟く。
今ので一つ繋がった。
静けさを求めているんじゃない。
騒がしさを求めているんでもない。
安心できる音を探している。
その違いだった。
天城は店内をもう一度見回す。
コーヒーミル。
湯気。
カップ。
人の話し声。
柔らかいジャズ。
「月島さん。」
「はい。」
「この店。」
「音を変えたことありますか。」
月島は少し驚いた。
「え?」
「開店した頃と。」
「今で。」
「何か。」
月島は少し考える。
やがて。
「あ……。」
と小さく声を漏らした。
「あります。」
天城は振り返る。
「妻がいた頃は。」
月島は店内を見渡す。
「レコードだったんです。」
「今は?」
「配信です。」
「同じ曲ですか。」
「違います。」
「自動で流れるので。」
「毎日変わります。」
天城は静かに頷いた。
「そうですか。」
月島はまだ気付いていない。
だが天城の頭の中では、
もう一本の線が引かれていた。
雫が毎日ここへ来る理由。
入口を見る理由。
温かい飲み物を飲めない理由。
そして、
“今日は来ないのかな”
という一言。
それらはまだ一本にはなっていない。
だが。
あと一つ。
最後の欠片が見つかれば、
杯は組める。
天城は小さく息を吐いた。
「……あと一つだ。」
その視線は、
店の奥に飾られた一枚の古い写真へ向いていた。
写真には、
まだ二人で店に立っていた頃の月島夫妻が、
穏やかに笑っていた。




