第二十五話 愛着半径 3
店内は静かだった。
だが、その静けさは落ち着く静けさではない。
誰かが言葉を飲み込んでいる。
そんな空気だった。
雫は席へ戻っている。
スマートフォンを机へ置いたまま、ぼんやりとカフェラテを見つめていた。
飲まない。
飲めない。
ただ見ている。
天城は、その様子を見ていた。
「……」
違和感がある。
一つではない。
いくつも。
月島が小さく聞く。
「何か分かりましたか?」
天城は答えなかった。
代わりに店内を歩き始める。
入口。
窓。
厨房。
客席。
何も言わず、一周する。
月島も口を挟まない。
こういう時は、黙っている方がいい。
それを何となく感じていた。
天城は窓際で足を止める。
「この席。」
月島が頷く。
「毎日そこです。」
「変わりません。」
「他の席へ案内しても?」
「嫌がります。」
「理由は?」
「ありません。」
「でも戻ります。」
天城は椅子へ触れた。
窓から入口が見える。
厨房も見える。
レジも見える。
店全体が視界に入る席だった。
「……。」
月島が聞く。
「何かあります?」
「分かりません。」
天城は短く答える。
「まだ。」
視線は店内を動く。
時計。
厨房。
入口。
雫。
全部見える。
死角がない。
その時だった。
入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
月島が笑顔を向ける。
雫が反応した。
早い。
顔を上げる。
入口を見る。
客を見る。
月島を見る。
また入口。
その一連の動きが、あまりにも速かった。
天城は黙っていた。
新しい客が席へ座る。
月島が水を運ぶ。
その数秒間。
雫の足が落ち着かなく動く。
右足。
左足。
右足。
テーブルの下で、小さく揺れている。
だが、水を置き終えて月島が戻ると。
止まる。
「……。」
天城は小さく息を吐いた。
今度は厨房へ向かう。
カップを見る。
同じものが並ぶ。
その中で一つだけ。
雫のカップだけが違った。
取っ手が入口側を向いている。
月島へ聞く。
「これ。」
「向き。」
月島が見る。
「あ……。」
少し驚いた顔になる。
「毎回、自分で直します。」
「毎回?」
「ええ。」
「必ず入口の方へ。」
天城は何も言わない。
今度はテーブルを見る。
フォーク。
スプーン。
ナプキン。
全部きれいに揃っている。
少しでもズレると。
雫は直す。
無意識に。
何度でも。
「……。」
天城はしゃがみ込む。
テーブルの脚を見る。
床を見る。
傷がある。
椅子を何度も引いた跡。
同じ場所。
同じ角度。
「毎日。」
「同じ位置ですか。」
月島が答える。
「一センチでも違うと。」
「直します。」
「納得するまで。」
天城はゆっくり立ち上がる。
雫を見る。
今度はカフェラテへ手を伸ばした。
少しだけ持ち上げる。
だが。
飲まない。
また置く。
表面の膜だけが揺れる。
「……。」
天城はカップへ近づく。
まだ少しだけ温かい。
冷めている。
だが。
不思議だった。
「月島さん。」
「はい。」
「このカフェラテ。」
「毎回、作り直してます?」
月島は驚く。
「え?」
「どうして分かったんです?」
「一杯目も飲まないので。」
「冷めたら。」
「私が新しいのを出してるんです。」
「でも。」
苦笑する。
「それも飲まない。」
天城は黙る。
頭の中で、少しずつ線が繋がり始める。
しかし。
まだ一つ足りない。
愛着不安だけでは説明できない。
席への執着。
入口への視線。
取っ手の向き。
確認行動。
温かい飲み物。
どれも一本の線にならない。
その時だった。
雫が小さく呟く。
誰にも聞こえないくらい小さな声。
「……今日は。」
一拍。
「来ないのかな。」
天城だけが、その言葉を聞いていた。
「……誰が。」
心の中でそう呟く。
その一言が、この事件の本当の始まりだった。




