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第二十三話 愛着半径  1

夜だった。


藍庭は昼と夜で街の表情が変わる。


昼間は静かな店が並ぶ街。


夜になると、帰る場所を少しだけ失った人間が流れてくる。


酒を飲むほどではない。


誰かと騒ぎたいわけでもない。


ただ、真っ直ぐ帰るには少しだけ疲れている。


そんな人間が座る街だった。


天城は店のカウンターでグラスを磨いていた。


タブレットが短く震える。


画面を見る。



店名:

月灯珈琲


依頼者:

月島 奏


時刻:

20:10


場所:

藍庭 北路地


状況:

接客困難


優先度:


備考:

接触距離過多

確認行動反復

営業継続困難



「接触距離過多?」


天城は眉を寄せた。


病気ではない。


暴れているわけでもない。


だが店が困っている。


いつもの案件だった。


コートを羽織る。


外へ出る。


藍庭の夜風は少し冷たい。


歩きながら、夫の書棚を思い出す。



『人は香りを嗅いでいるのではない。』


『記憶を嗅いでいる。』



「……」


もしそうなら。


今夜、自分は何を嗅ぐことになるんだろう。



月灯珈琲は路地の奥にあった。


古いランプ。


白い暖簾。


木製の扉。


窓の向こうに暖色の光が見える。


静かだった。


だが静かすぎない。


誰かの笑い声。


カップが触れる音。


小さなジャズ。


人間がいる音だった。


扉を開ける。


ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。」


落ち着いた声だった。


女性。


三十代後半くらい。


月島奏。


おそらく店主。


視線が天城を捉える。


そして少し安心した顔をした。


「ああ……」


小さく息を吐く。


「来てくれたんですね。」


天城は頷く。


「状況を。」


月島は苦笑した。


「悪い子じゃないんです。」


予想通りの言葉だった。


「むしろ優しいんです。」


「でも……」


視線が店の奥へ向く。


窓際。


女の子がいた。


十九か二十。


少し傷んだ髪。


季節と少しズレた服。


机の上には、


* ショートケーキ

* クッキー

* 半分食べたプリン


そして。


ほとんど減っていないカフェラテ。


天城はそこで少しだけ目を止めた。


月島が小声で言う。


「あの子です。」


「毎日来ます。」


「閉店までいます。」


「話しかけると──」


ちょうどその瞬間だった。


月島が他の客へ視線を向ける。


たったそれだけ。


すると。


女の子が立ち上がった。


早い。


迷いがない。


月島の目の前まで来る。


距離が近い。


近すぎる。


「ねぇ。」


月島が笑う。


「どうしたの?」


女の子が顔を寄せる。


さらに近い。


「私、邪魔?」


月島が固まる。


「え?」


「今、あっち見てた。」


「私の話つまらなかった?」


「嫌いになった?」


「帰った方がいい?」


言葉が速い。


確認。


確認。


確認。


月島が慌てる。


「違う違う。」


「お客さん来たから──」


「ほんと?」


さらに一歩。


近い。


近すぎる。


「ほんとに?」


「邪魔じゃない?」


「嫌いじゃない?」


月島は困った顔で笑う。


「大丈夫だから。」


女の子は安心したように笑った。


「よかった。」


そして席へ戻る。


月島が小さく息を吐く。


「……これが。」


天城は黙って見ていた。


そして。


テーブルを見る。


ケーキは減っている。


クッキーも減っている。


だが。


カフェラテだけが減っていない。


ほとんど手がついていない。


「……飲み物は?」


月島が視線を向ける。


「毎回そうなんです。」


「頼むんです。」


「でも飲まない。」


天城は女の子を見る。


スマホを見ている。


通知を見る。


店主を見る。


スマホを見る。


店主を見る。


呼吸が浅い。


肩が上がっている。


そして。


いつでも立ち上がれる姿勢をしていた。


「……なるほど。」


天城は小さく呟く。


月島が聞く。


「何かわかったんですか?」


天城は答えない。


ただ。


テーブルに置かれたカフェラテを見る。


ミルクの膜が張っていた。


もう冷えている。


温かいはずだったもの。


安心するための飲み物。


それだけが。


全く進んでいなかった。




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