第二十二話 消された地図
部屋の中は静かだった。
窓の外では風が鳴っている。
天城は地図を見る。
赤線。
乱暴に引かれた線。
訂正ではない。
削除だ。
まるで最初から存在しなかったことにするみたいに。
「……存在しないことになってる?」
老婆は小さく頷いた。
「今の地図には載っとらん」
天城は地図を見直す。
星見坂。
白燈。
雨宿。
鳴砂。
月渡。
聞いたことがない。
いや——
聞いたことがないのがおかしい。
藍庭ほどではなくても、それなりの規模がありそうな地区だ。
「移転したとかじゃないんですか」
老婆は首を横に振る。
「違う」
短い返事だった。
「ある日から、誰も話さなくなった」
「記録もなくなった」
「地図からも消えた」
天城は眉をひそめる。
「そんなことが出来るんですか」
老婆は少しだけ笑う。
「中心都市なら出来る」
否定できなかった。
天城自身、中心都市にいた。
記録は正しい。
数字は正しい。
システムは正しい。
そういう前提の中で生きてきた。
だが。
もし記録そのものが書き換わるなら。
正しさは、誰が決める。
「夫はな」
老婆が言う。
「その地区の人間を知っとった」
天城は顔を上げる。
老婆は続ける。
「普通の人間だった」
「酒を飲んで」
「笑って」
「店を手伝って」
「また帰る」
静かな声だった。
「だが、ある日から来なくなった」
「連絡もつかん」
「調べた」
一拍。
「そしたら、その地区そのものが無くなっとった」
部屋の空気が少しだけ冷える。
天城は地図を見る。
赤線。
一本。
また一本。
消されている。
「……事故とかじゃなくて?」
「分からん」
老婆は言う。
「夫も最後まで分からんかった」
「だから調べ始めた」
窓の外で風が鳴る。
本棚の影が揺れる。
「調べれば調べるほど増えた」
「消えた地区。」
「消えた店。」
「消えた名前。」
「消えた人間。」
天城は黙って聞いている。
老婆は地図を指でなぞる。
「郊外は広い。」
「中心都市の人間が思っとるより、ずっと広い。」
指が止まる。
赤線の上。
「広すぎる場所にはな。」
少しだけ笑った。
「隠れる場所もある。」
天城は地図を見る。
空白。
まだ何も書かれていない場所。
赤線。
知らない名前。
そして——
今、自分がいる藍庭。
「……俺は。」
気づけば口にしていた。
「どこまで知るんですかね。」
老婆は少しだけ考えた。
そして言う。
「知ろうとしたところまでだ。」
答えになっていない。
だが、不思議と納得した。
沈黙。
天城はもう一度地図を見る。
藍庭。
灰坂。
砂渡。
そして。
消された街。
夫は何を見たのか。
何を知ったのか。
何故、死んだのか。
答えはない。
まだ。
だが。
天城は思った。
もし。
この街に住む誰かが、
「存在しないことにされた人間」
だったとしたら。
それは一体、誰なんだろう。
風が吹く。
地図の端が揺れる。
そこには小さく、夫の字が残っていた。
⸻
『地図から消えても』
『人は消えない』
⸻
天城はその文字をしばらく見つめていた。
⸻




