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第二十一話 夫の書棚


白雨を出た頃には、藍庭の空はすっかり夜になっていた。


街灯の光が石畳を淡く照らしている。


昼間の賑わいは消え、人の足音もまばらだった。


天城はゆっくり歩いていた。


急ぐ理由はない。


次の依頼も来ていない。


タブレットも静かなままだ。


「……」


クレープの香りがまだ少し鼻の奥に残っている。


だが、不思議と重くない。


最初に店へ入った時とは違う。


甘さの中に焼き目があった。


香りの順番があった。


途中があった。


それだけで、人は止まれる。


そんなことを考えながら店へ戻った。



鍵を開ける。


扉を押す。


乾いた木の匂い。


静かな空間。


誰もいない。


いつの間にか、この静けさにも慣れ始めていた。


カウンターの中へ入る。


グラスを見る。


酒瓶を見る。


照明を見る。


まだ自分の店という実感はない。


だが、少しずつ居場所になり始めている気もした。


「……」


その時だった。


ふと、二階のことを思い出した。


まだほとんど見ていない。


老婆の夫が使っていた場所。


天城は階段へ向かった。



二階は広かった。


生活感は薄い。


人がいなくなってから長いはずなのに、不思議と荒れていない。


整理されている。


誰かが昨日まで使っていたような整頓のされ方だった。


窓際に机。


その横に棚。


そして——


壁一面の本。


「……」


天城は思わず立ち止まった。


数が多い。


想像していたより遥かに多い。


薬学。


食品科学。


調香学。


発酵学。


心理学。


神経科学。


認知科学。


民俗学。


哲学。


行動経済学。


栄養学。


植物学。


香辛料学。


酒類学。


「なんだこれ……」


思わず声が漏れる。


バーの蔵書量ではない。


大学図書館の一角みたいだった。


天城は一冊を手に取った。


調香学の本だった。


開く。


線が引かれている。


余白に文字がある。


夫の字だろう。



『人は香りを嗅いでいるのではない』


『記憶を嗅いでいる』



天城は目を止めた。


ページをめくる。


また書き込み。



『味覚は騙せる』


『嗅覚も騙せる』


『だが安心感は騙せない』



「……」


少しだけ面白かった。


さらにめくる。



『強い刺激は人を集める』


『だが記憶に残るのは変化である』



天城は小さく笑った。


「クレープ屋の話みたいだな」


偶然とは思えなかった。


夫も同じことを見ていたのかもしれない。


さらにページをめくる。



『人は味で満たされるのではない』


『予測した味と実際の味が重なった時に満たされる』



「……なるほど」


思わず呟く。


だから順番なのか。


だから途中なのか。


頭の中で少しずつ線が繋がる。



本を戻そうとした時だった。


一枚の紙が落ちた。


ぱさり。


床へ。


天城は拾い上げる。


古い紙だった。


折り目がついている。


開く。


「……地図?」


郊外の地図だった。


だが、今持っているものとは違う。


古い。


かなり古い。


藍庭。


灰坂。


砂渡。


見慣れた名前もある。


だが——


知らない地名も多い。


星見坂。


鳴砂。


白燈。


雨宿。


月渡。


風待。


灯籠町。


聞いたこともない。


「なんだこれ……」


天城は眉をひそめる。


さらに見る。


違和感があった。


いくつかの地区に赤線が引かれている。


乱暴に。


まるで消すように。


存在を抹消するみたいに。


星見坂。


白燈。


雨宿。


赤線。


赤線。


赤線。


「……」


地図の端には手書きの文字が残っていた。


かすれている。


読みにくい。


だが、一部だけ読めた。



『記録から消えても』


『人は消えない』



天城の眉が動く。


その瞬間だった。


後ろから声がした。


「見つけたか」


天城は振り返った。


老婆だった。


いつ来たのか分からない。


階段の入口に立っている。


薄暗い中で静かにこちらを見ていた。


天城は地図を持ち上げる。


「これ、何ですか」


老婆はしばらく黙っていた。


やがてゆっくり近づく。


地図を見る。


懐かしいものを見るような目だった。


「それはな」


静かな声。


「夫が死ぬ前に隠した地図だ」


部屋の空気が少しだけ変わる。


天城は地図を見る。


老婆を見る。


「隠した?」


老婆は頷いた。


そして、小さく言った。


「その地図にある場所のいくつかはな」


一拍。


「今は存在しないことになっとる」


天城は黙った。


老婆は続ける。


「だが、昔は確かにあった」


風が窓を鳴らす。


本棚の影が揺れる。


老婆は地図の赤線を指でなぞった。


「夫は、それを知ってしまった」


その言葉だけが静かに部屋へ落ちた。


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