第二十話 甘党は味覚を感じない 5
店を出る頃には、外は薄暗くなっていた。
藍庭の通りには灯りが浮かび始めている。
昼より静かだ。
だが、止まってはいない。
人の流れが、ゆっくりになっている。
天城は店の前で一度だけ振り返った。
「白雨」の看板。
ガラス越しに、白崎が焼き台の火を調整しているのが見える。
前より少しだけ、ゆっくり焼いている。
店内の匂いも変わっていた。
甘さだけじゃない。
焼けた小麦。
溶けるバター。
少し遅れて、砂糖。
順番がある。
「……」
天城は小さく息を吐く。
そのとき、背後でベルが鳴った。
振り向く。
さっきの女だった。
コートを羽織り、スマートフォンを片手に持っている。
だが、画面は見ていない。
「……ありがとうございました」
小さく頭を下げる。
天城は軽く頷いた。
女は少し迷ってから言う。
「私」
視線が落ちる。
「甘いもの、好きだったんです」
風が少し吹く。
女は続ける。
「最初は、ちゃんと味してた」
「嬉しかったし」
「疲れた時、安心してた」
一拍。
「でも、途中から」
止まる。
「何食べても、同じになって」
天城は黙って聞いている。
女は苦笑した。
「だから、もっと甘いの頼んで」
「もっと派手なの探して」
「限定とか、新作とか」
スマートフォンを少し持ち上げる。
「これ見ながら食べて」
「気づいたら、味分かんなくなってました」
小さな沈黙。
「……でも」
女は少しだけ笑う。
「さっきの、途中があった」
天城は視線を向ける。
女は言葉を探すように続ける。
「最初、なんか焦げた匂いして」
「そのあと、温かくて」
「ちょっと苦くて」
「最後に甘かった」
ゆっくり。
確かめるように。
「……久しぶりでした」
天城は静かに言う。
「甘味って、本来最後に残るんです」
女は少し驚いた顔をする。
天城は続ける。
「最初から強すぎると、途中が消える」
「途中が消えると、記憶に残らない」
「だから、また次を探す」
女はスマートフォンを見る。
通知が光る。
だが、開かない。
「……怖いんです」
小さく言う。
「止まるの」
「何も見ない時間があると」
「自分だけ遅れる気がして」
天城は少し考えてから言った。
「今、多分みんなそうです」
女が顔を上げる。
「情報って、入れ続けると」
「頭の中で終わらなくなる」
「だから、“空白”を怖がるようになる」
短い沈黙。
「でも」
天城は藍庭の通りを見る。
「人間って、本当は途中が必要なんです」
「待つ時間とか」
「冷める時間とか」
「匂いが変わる時間とか」
女は静かに聞いている。
天城は続ける。
「そういうのがないと」
「満足したって、脳が判断できない」
風が通る。
クレープ屋から、焼きたての匂いが流れてくる。
今度はちゃんと、奥に残る。
女は小さく笑った。
「……クレープの話なのに」
「なんか、違う話みたい」
「同じです」
天城は即答した。
「食べ方も」
「情報も」
「大体、同じ構造してるんで」
女は少し黙ってから、スマートフォンの画面を消した。
ポケットへ入れる。
その動きに、迷いがない。
「……今日は」
小さく言う。
「帰ったら、何も流さないで食べてみます」
天城は軽く頷いた。
それで十分だった。
女はもう一度頭を下げ、通りを歩いていく。
今度は、歩く速度が少しだけ遅い。
天城はその背中を見送る。
完全に治ったわけじゃない。
また戻る日もあるだろう。
だが——
一度、“途中を感じた”。
それは残る。
タブレットが短く震えた。
天城は視線を落とす。
――――――
案件処理:完了
状態変化:確認
評価:良好
――――――
その下に、小さく追記。
――甘味反応、回復傾向
――――――
「……」
天城は画面を閉じた。
空を見上げる。
藍庭の夜は静かだった。
だが、その静けさは——
もう、“止まっている静けさ”ではなかった。




