第十八話 甘党は味覚を感じない 3
白崎は黙ったまま、天城の手元を見ていた。
店の奥では、女がまだスマートフォンを触っている。
画面。
通知。
スクロール。
停止。
また次。
その指の動きは、クレープを食べる速度より速かった。
「……」
天城は焼き台の前に立つ。
火を見る。
強い。
回転を優先した温度だ。
香りが立つ前に、生地が焼き切られている。
「火、少し落とします」
白崎が反射的に言う。
「でも、それだと回転——」
「今は回転より、残る方が大事です」
短く言う。
白崎は口を閉じた。
天城はバターを少量落とす。
じわ、と音が広がる。
さっきまでと違う。
甘いだけではない。
乳脂肪の香りがゆっくり立ち上がる。
「……」
天城は生地を流す。
薄く伸ばす。
急がない。
焼き色を待つ。
白崎が小さく言う。
「そんな焼き方、久しぶりに見た」
「前は?」
「昔は、もっとゆっくりやってた」
「でも、待つと客が離れるから」
天城は頷く。
「今の人、待てないんですよ」
焼き目を見る。
薄く色づく。
香りが変わる。
甘さではなく、“焼けた匂い”が前に出る。
「……最初に甘味を入れすぎると」
淡々と言う。
「脳が、そこで終わるんです」
白崎が聞く。
「終わる?」
「はい」
「強い刺激だけ取って、次を切る」
バターの香りが広がる。
店の空気が少し変わった。
女の指が、ほんの少し止まる。
天城は続ける。
「本来は」
「香り」
「温度」
「食感」
「そのあと甘味です」
「順番に入るから、満足する」
白崎が静かに呟く。
「……今は逆」
「はい」
天城は頷く。
「最初から砂糖が強い」
「だから、途中を感じる前に脳が疲れる」
一拍。
「結果、残らない」
白崎は黙った。
天城は小さな器に、薄く淹れたコーヒーを落とす。
濃くしない。
苦味をぶつけない。
香りだけ残す。
そこへ、ほんの少しだけラムを落とす。
アルコールを飛ばすように軽く温める。
「……酒、入れるの?」
「少しだけです」
「緊張を切る」
白崎は静かに聞いている。
天城は続ける。
「頭って、ずっと緊張してると」
「刺激を探し続けるんです」
「だから、“次”が止まらない」
焼き上がった生地を置く。
今度はクリームを減らす。
代わりに、砕いたナッツを散らす。
食感を残す。
咀嚼を増やす。
「噛む回数が増えると」
「処理速度が少し落ちます」
「その方が、定着しやすい」
白崎が少し笑った。
「クレープで、そんなこと考えたことなかった」
「普通は考えません」
天城は即答した。
柑橘の皮を少し削る。
香りが立つ。
最後に、ほんの少量だけ蜂蜜。
砂糖ほど鋭くない。
遅れて残る甘さ。
「……」
天城は完成したそれを見る。
派手ではない。
映えもしない。
だが、順番はある。
香り。
熱。
食感。
苦味。
最後に甘味。
「……それ、売れなさそう」
白崎が正直に言う。
「かもしれません」
天城は皿を持つ。
「でも、多分こっちの方が残ります」
女の前へ置く。
女は反応しない。
スマートフォンを見ている。
天城は静かに言う。
「……一回、それ置いてください」
女の指が止まる。
数秒。
ゆっくり顔を上げる。
「……どうして」
「多分、今」
天城は淡々と言う。
「脳が“次”ばっかり探してる」
女は黙る。
天城は皿を少し押した。
「これは、途中があります」
意味が分からない、という顔だった。
天城は続ける。
「甘いだけじゃない」
「だから、多分、止まれます」
沈黙。
女はスマートフォンを見る。
皿を見る。
またスマートフォンを見る。
その指が、小さく震える。
止めるのが怖い。
そんな動きだった。
やがて——
女はゆっくりスマートフォンを伏せた。
店の音が、少しだけ静かになる。
天城は何も言わない。
女はクレープを持つ。
まだ少し温かい。
最初に、バターの香りが立つ。
女の眉が、わずかに動いた。
小さく、一口。
咀嚼。
止まる。
だが、さっきまでとは違う止まり方だった。
「……あ」
小さく声が漏れる。
女はもう一口食べる。
今度は、ゆっくり噛む。
「……苦い」
ぽつりと言う。
天城は頷く。
「少しだけ」
女はまた食べる。
「……甘い」
今度は、さっきと違う声だった。
“甘い”を、ちゃんと感じている。
白崎が黙ったまま、その様子を見ている。
女はスマートフォンへ手を伸ばしかける。
だが——
止まる。
視線が皿へ戻る。
天城は小さく息を吐いた。
完全ではない。
だが、流れは変わった。
「……これで、少しは戻る」
静かな声だった。
店の甘い匂いは、さっきより少しだけ軽くなっていた。




