人質の時
本郷チドリに、サンを殺害する意思はない。
それはオトハたちが想像した通り、生き残った魔法少女に対する人質という意味があるからだ。オトハたち魔法少女は、サンを奪い返すために必ずやってくる。
チドリはサンを観察した。この少年は、チドリから見ても意外なほど落ち着いていた。おそらく、彼の心の目が、チドリに殺意がない事を見抜いているのは間違いない。しかし、それにしても自分は魔王の娘と呼ばれ、魔法少女たちから恐れられてきたのだ。そう自負するチドリがサンに尋ねた。
「私が怖くないの?」
「はい」
サンは即答した。その声には、へつらいの色もなければ、怒りや不安や、挑戦的なものもない。ただ、淡々とそう答えたのだ。
「周りの魔法少女たちは、魔王の娘は怖いと教えなかったの?」
「たしかに、そう教わりました。魔王に会えば命はない。逃げなければいけない、と」
「それが正解だと思うけれど」
「そうですか?」
チドリは眉根を寄せた。
「いつまでも周りの魔法少女たちに守ってもらえるなんて、思わないことだよ。今、君を守ってくれる魔法少女は一人もいない。これから、君を助けに来る魔法少女たちも全員殺す。そして最後には……」
チドリは最後まで言わなかった。子どもをなぶるのは趣味ではない。
だが、そこまで言ってもサンの心を動揺させることはできなかった。サンは、そんなチドリの心を見透かしているように、こう言った。
「今までのあなたなら、きっと、そうでしょう。だけど、あなたは変わろうと思っている。変化を求めている」
「……だから何なの?私は人類を滅ぼしてしまったし、今さら殺しをやめるつもりはないんだよ」
チドリは言葉を切り、しばしサンを見つめてから聞いた。
「私に勝ってほしい?それとも、負けてほしい?」
普通ならば愚問である。人質であるサンからすれば、チドリが勝つことに何のメリットもない。だが、サンは普通ではなかった。
「わかりません。あなたが勝つか、そうならないか。それは私が決められる運命ではないから」
「そう。達観しているんだね」
チドリはその言葉で片付けることにした。そして、サンに手を伸ばした。チドリは何も言わなかったのだが、サンは黙って、チドリの手を握った。
やがて二人は仮眠室から出て、大きな水槽がよく見える展示スペースへと歩いて行った。薄緑色に濁った水槽の中を、目の無いイルカ、あるいは人魚のような生物たちが泳いでいる。彼らに目は無いが、チドリたちが水槽の側を通ると、彼女たちへ顔を向けた。
「君にも感じるでしょ?彼らの存在が」
チドリがサンにそう語りかける。
「私の家族。この世界でここにしかいない、罪のない人間たち」
サンは何も答えない。しかし、その顔は真っ直ぐに水槽の方へ向けられ、水槽の中を泳ぐ生物たちもまた、懐くようにサンの側に寄った。
「私は、かつて暗闇姉妹だった。君が生まれるよりも、ずっと前のことだよ」
サンはゆっくりとチドリへ振り返った。
「暗闇姉妹は、魔法少女の処刑人。罪を犯した魔法少女を始末するブギーマン。今までに殺した魔法少女は数知れない。私がそうしてきたのは、それで少しでも、この世界が良くなると信じたから。だけど……」
「何も変わらなかったのですか?」
サンがようやく口を開いた。
「そう、何もね。何より、魔法少女たちだって、元は人間だから。彼女たちもまた、人間の心の中にある、悪の犠牲者にすぎなかった。だから私は考えたの。どうすれば人間から悪の心を除けるかと。私が出した答え……わかったでしょ?」
サンは再び、水槽の生物へ顔を向けた。
「これが、あなたが考えた新しいヒトですか」
「そう。わかる?彼らに悪の心はもう無い。私がそう願ったから」
「たしかに、このヒトたちに悪の心は無いみたいですが……」
サンは、今度はチドリに振り向かなかった。
「あなた自身が持っている悪の心はどうするのですか?」
「……」
チドリは答えられなかった。悪を滅ぼすために悪になる。その決定的な矛盾は、チドリも薄々感じていた事であった。
「それと、もう一つ聞いてもいいですか?」
サンは、チドリとはまったく別の方へ顔を向けた。
「そこにいる人は誰ですか?」
「?」
チドリには意味がわからなかった。サンが顔を向ける方向には誰もいない。仮に、誰かが透明になってそこに居るとしたら、それを察知できないチドリではなかった。
「誰もいないよ?」
「いいえ、たしかにそこに女の人がいます。あなたを大切に想っている人です」
「誰もいないってば!」
チドリはつい声を荒げた。今のチドリには、もう死者の声は聞こえない。そう、死者だ。サンが視ているのは死んだ人間に違いないという、確信がチドリにはあった。チドリには、その女の子に心当たりがある。
(アヤちゃん……)
糸井アヤ。チドリがただ一人心を許す魔法少女は、今はもういない。彼女は人々の悪意によって死んだ。そんなアヤが、今もチドリを見守っているとしたら……
「私は、やり遂げる」
チドリは、サンと、サンが視ているであろう少女へ、そう告げた。
「私は、母からこう聞いたことがあります」
サンがそう言う。
「死んでしまった人間は、どんな魔法でも生きかえらせることはできない。でも、死んだ人間は、完全に消え去ってしまうわけではない。天国の誰かを想う時、その人は私たちのそばに、そっと立っている……と」




