第3話 帰ってきた意味なくないか?
バスはほとんど空っぽだった。
いつも通り、一番後ろの席に座っている。
公園で一日過ごしたあとは、よくこのバスで帰る。
あと数駅。それから少し歩けばレストランだ。
普段はもう少し早く帰るけど、そもそもミミは特に門限を決めていない。
『元気で、店の明かりが消える前に帰ってくればいいんだよ。そうしてりゃ、あたしに警察に突き出される心配もないだろ?』
……。
本気で言ってるのかは分からないけど、あの性格だ。試す気にはなれない。
もし救急車を待って、そのまま病院に運ばれてたら?
俺を殺すのはあの猫じゃなくて、ミミのほうだな。
後ろの席からは、バスの中がよく見渡せる。
乗ってくる人。降りていく人。
大した人数じゃない。
それでも、俺と同じくらいの歳の奴らが何人かいる。
あいつらも休み最後の一日を楽しんでるのかもしれない。
いや……。
「あいつらも」って。
俺の日曜日は台無しになったけど、まあいいか。
「次は、井草通りです」
俺が降りる停留所だ。
腕時計を見る。
十九時五十分。
バスを降りた。
「店、絶対混んでるだろうな」
俺はまたレストランに向かって歩き始めた。
……。
ミミのダイニングレストランの前まで来て、扉を押し開けた。
「いらっしゃいま……あれ、マシロじゃん。で、何かやること見つかった?」
北条メラニー。
十六歳。父親が日本人で、母親は外国人。長い金髪もあって、かなり目立つ。
日本に来てから、まだそんなに経っていない。
確か五か月くらいだったか?
明日から俺と同じ高校に通うことになる。
ミミは日本語の勉強になるからと受付を任せてるけど、誰が見たって分かる。客はメラニー目当てで戻ってくるんだ。
「別に。忙しい?」
店内を見渡した。
まだ空いてるテーブルもいくつかあったけど、いつものこの時間より客が多い。
メラニーは肩をすくめた。
「見ての通り。じゃあ、手伝ってくれる?」
「いつも通り、選択肢なしか。どうせ人手が足りないんだろ」
メラニーは両手を上げ、指で銃の形を作った。
俺は少しだけ笑った。
考えてることは同じだった。
「ビンゴ」
メラニーと別れて、バーのほうへ向かった。
従業員用のスペースに行くには、そこを通る必要がある。
遠くから、ユウスケがバーで接客しているのが見えた。
三十八歳で、この店では一番年上だ。ミミとは長い付き合いだ。
ミミの右腕みたいな存在で、いつも冷静だ。
カウンターに突っ伏している誰かと話しているようだった。
仕事中の邪魔はしたくなかったので、一言だけ声をかけて通り過ぎようとした。
「着替えてくる」
「遅刻だよ」
少しくぐもった声だったけど、聞き覚えがあった。
俺は振り返った。
ユウスケが、カウンターに突っ伏している人物の頭を指でつついた。
近づいてみると、その背中とポニーテールには見覚えがあった。
腕に顔を埋めていたそいつが、頭を上げた。
「聞こえなかった? 遅刻だって言ってるの」
やっぱりミミだった。
いつも通り、パンツにブラウスという格好で、夜の営業ではおなじみの口紅をつけている。
「分かってる」
「分かってるなら、なんで遅れてくるの?」
じっと見つめられた。
……。
「ほら、さっさと手伝ってきな。でも次は許さないからね」
怒ってるようにも見えるけど、少し酔ってるようにも見える。
どうにも調子がつかめない。
俺は頷いて、目の前の扉を開け、更衣室へ向かった。
* * *
「今の、どういうことだよ、ミミ?」
「何が?」
ミミはまたカウンターに突っ伏した。
「マシロが遅刻したって話だよ」
「遅刻でしょ」
「あいつ、今日は休みだし、門限だってないだろ」
ミミは体を起こした。
「今は二十時二分。十九時じゃないよ。日曜日はいつも十九時ごろ帰ってくるのに」
「心配なら門限を決めてやればいいだろ」
「私が心配? 馬鹿なこと言わないでよ」
ミミはくすっと笑い、グラスの中身を飲み干した。
* * *
扉を抜けたら、右手の廊下を進む。
一つ目の扉。女子更衣室。
違う。
二つ目。男子更衣室。
ここだ。
中に入って、扉に鍵をかけた。
ロッカーの一つを開け、着替え始める。
上着を脱ぐのがきつかった。
右腕を少し大きく動かすだけで痛む。
上半身裸のまま、制服のズボンのファスナーを上げていると、誰かが扉を開けようとした。
悪いけど、今は裸なんだよ。
なのに相手は諦めず、ドアノブを無理やり回した。
鍵がかかってるの、分かんないのか?
それからノックしてきた。
「なんで鍵かけてるの? 開けなさい」
「ミミ? 何の用?」
「早くして。話があるの」
ユウスケも、もう酒を出すのやめればいいのに。酔っ払ってるじゃないか。
シャツに腕を通しながら、そんなことを考えていた。
待てよ。
なんで扉を無理やり開けようとしたんだ?
俺の裸が見たかったのか?
『元気で、店の明かりが消える前に帰ってくればいいんだよ。そうしてりゃ、あたしに警察に突き出される心配もないだろ?』
くそっ。
こんな時間に帰ってきた理由を聞くつもりに決まってる。
慌てて鏡の前に行き、顔を確かめた。
特に変わったところはない。
シャツの裾を下ろした。
右の前腕に、とんでもなく大きな青あざができていた。
指の形までうっすら分かる。
まずい。焦ってきた。
なんだよ、これ?
ミミに見られたら殺される。
そして焦りが怒りに変わった。
このあざ……あの女の子に腕を思いっきり握られたときのやつか?
冗談じゃない。まだ俺を放っておいてくれないのかよ!
脚にもジーンズにも、あの猫の爪痕が残っていたけど、これに比べたら大したことじゃない。
隠せるものがないか、慌てて自分のロッカーをあさった。
ない。何もない。
仕方ない。うまい言い訳さえあればいい。
急いで着替えを終え、扉を開けた。
正面にはミミがいた。壁に寄りかかって腕を組み、俺を睨みつけている。
「どこにいたの!?」
答えなかった。でも、ミミには伝わったらしい。
近づいてきて俺の顔をつかみ、じろじろと確かめ始めた。
本当に飲んだのか?
アルコールの匂いはほとんどしない。
素面だったら余計に厄介だぞ。
「で、説明してくれる? なんで急にこんな時間に帰ってくるの?」
「えっと、俺は……」
「嘘つこうなんて考えないことね、不良少年」
元、不良少年だ。
「女の子と一緒にいて、時間を忘れてた」
また睨み合いだ。
悪いな、ミミ。今夜はもっと怖い目に遭ってるんだ。
ミミは俺の顔から手を離した。
「まさか、うちのクールで一匹狼なマシロが女の子と一緒にいたなんてね」
笑い出した。
「それで、何て名前? その子のこと好きなの?」
ここは恥ずかしがっておかないと、いつまでも離してくれない。
俺は俯いて、笑みを作ろうとした。
「はいはい。分かった、恥ずかしいのね」
ミミは一歩下がった。
「元気に家に帰ってきてくれれば、それでいいんだから!」
軽く咳払いした。
「元気だよ、もちろん」
ミミは俺を見つめ、それから穏やかな笑顔に戻った。
「じゃあ、この話はおしまい」
ふう。うまく切り抜けた。
「ホールに出る前に、ちょっと事務室までついてきて」
機嫌がよさそうだったので、特に心配せず、黙ってついていった。
更衣室の右手には階段がある。
ミミの事務室は二階なので、その階段を上った。
扉の前で、ミミはポケットを探り始めた。
すぐにやめた。
「合鍵、貸して」
俺に手を差し出し、何度も開いたり閉じたりする。
ため息をつきながら鍵束を取り出した。
ミミは鍵を受け取って扉を開けた。
そして明かりをつける。
つけないでほしかった。
ミミの事務室は、もともと簡素な部屋だ。奥に机が一つと来客用の椅子が二脚。棚が二つ。それからソファとローテーブル、小さなテレビ。
ところが床には書類が散らばり、ローテーブルにはミミの服が積まれ、食べ残しまでそのままになっていた。
本人はまったく気にしていない。
さっさとソファに向かい、座る場所を空けると、自分の隣をぽんぽん叩いて座れと合図してきた。
慣れてるので、表情も変えずに腰を下ろした。
「明日から高校一年生だね。楽しみ?」
「別に、それほど」
「学校に嫌な思い出があるのは分かってる。でも今度は、ヤマト以外にあんたの事情を知ってる人はいないんだから」
ミミはすぐに続けた。
「もう話したでしょ?」
「分かってるよ、ミミ」
「分かってるなら、その死人みたいな顔やめて、楽しみだって言いなさい」
頭を叩かれた。
「それと、もし事情を知ってる昔の同級生に会ったら、一人で抱え込まずに私たちに言うんだよ。いいね?」
……。
また頭を叩かれた。
「痛っ」
「返事が聞こえないんだけど」
「分かった」
「よし。分かったなら、これ。ヤマトからのプレゼント」
ビニールに包まれた服の束と、靴を一足差し出してきた。
学校の制服?
「それ、部屋にしまっておいて。私はホールに戻るから」
これで学校に行かない言い訳もできなくなったってことか。
ミミは鍵を返して出ていった。
俺は事務室に鍵をかけ、すぐ隣の休憩室を開けて、全部ベッドの上に置いてからホールへ戻った。
「感じる。ここにいる」
ん?
バーの裏手にある扉を開けると、ユウスケが掃除をしていた。ミミはいない。
「ミミ、また飲みに戻ってこなかったの?」
「いや、さっき来た予約のお客さんと冗談言い合ってるよ」
腕時計を見た。
「二十時半に予約?」
「遅れて来たんだ。それで店長が場を和ませてる」
「ついでに、その席はお前の担当な。二十番テーブル」
メモ帳を取って、そちらへ向かった。
ここからでも声が聞こえる。
「やればできるじゃない、駄犬」
駄犬?
頭の中から聞こえた気がする。
テーブルに近づいた。
ミミが俺に気づいた。
「こっちよ、マシロ。このテーブルお願いね」
目の前まで来て、信じられなかった。
あの猫がテーブルの上に座って、にやりと笑っていた。
「マシロ?」
俺にキスしたあの女の子もいた。向こうも俺を見て驚いている。
「サツキ、この子と知り合いなの?」
母親が何気なく尋ねた。
「二人、知り合いなの?」
ミミが笑みを隠すように口元に手を当てた。
隣の男は黙ったまま俺をじっと見ている。
あれが父親か……。
くそ、もう勘弁してくれ。
あの猫が俺の目をまっすぐ見た。
「やっほー、人間」




