第1話 だから猫は嫌いなんだ
この公園に来るのが日課になって、どれくらい経ったんだろう。
毎週日曜、俺は決まって同じベンチに居座ってる。
朝から晩まで。
腕時計を見る。
十五時三十二分。
もう何時間もここにいる。
そして、何もしてない。
いつも通りだ。
そのうち誰かに、覗き魔だと思われても驚かない。
まあ、やってることだけ見れば似たようなもんか。
人を見る。
本人たちは気づかれてないつもりでも、俺には見えてる。
別にわざと見てるわけじゃない。
他にやることがないから、勝手に目があちこちに向くだけだ。
たとえば、あそこにいる男。
隣を歩いてる女のことを、見てるこっちが痛くなるくらい見てる。
惚れてるな。
間違いない。
ただ、あの顔じゃ告白する勇気はなさそうだ。
頑張れ。
心の底から応援してるぞ。
まあ、それはいい。
そもそも俺は、こんなことしたくてここにいるわけじゃない。
全部、ミミのせいだ。
俺がレストランで必要だっていうのに、毎週日曜に無理やり休みを取らせやがって……。
こんなの契約に入ってなかっただろ、クソ。
最初は本気で面倒だった。
自分のために時間を空けるなんて習慣、今までなかったし。
……で。
何をするんだ?
別にやりたいことなんてない。
最初の頃は、店のテーブルに座って、働いてるミミを眺めてた。
どうやらミミの中では、それは休みとは呼ばないらしい。
それどころか、不気味だと言われた。
いまいち理由が分からない。
ただ座って、
働いてるのを見てただけだ。
……
まあ。
こう言うと、少し分かる気もする。
結局、次の週には追い出された。
それからはここに来てる。
少なくとも、一日中働いてるとは言われない。
そういえば、明日から学校だ。
少しは忙しくなるかもしれない。
だからって何か変わる気もしないけど。
何組かのカップルは帰っていた。
代わりに別の連中が座ってる。
告白できなさそうだったあの男も、とっくにいなくなっていた。
俺はもう一度時計を見る。
18時01分。
……
さらに三時間近く。
その間、何もしてない。
意外と、それは苦じゃなかった。
ジョギング中の女の子が一人、近づいてきた。
……若くないか?
見た感じ、たぶん俺と同じくらいだ。
キャップを目深にかぶっていて、顔はよく見えない。
何本か髪がはみ出していて、汗で張りついている。
息の上がり方を見る限り、走り始めてそんなに長くなさそうだ。
ここを走ってるのは、普段なら年寄りばかりなのに。
きっと、自分はまだ若いんだって思い込みたいんだろう。
でも、あの子は……。
速度を落とした。
顔が少しだけ自販機の方を向いた。
喉が渇いたのか。
飲み物でも買うんだろう。
そのあと、少し先のベンチにでも座るんだろう。
彼女は自動販売機の前で立ち止まった。
ビンゴ。
缶が一本落ちる。
ブラックコーヒー。
……
待て。
ブラック?
俺たちの歳で?
まあ。
別にいいけど。
彼女は缶を開けた。
そして向かってきたのは――
俺の方だった。
は?
「あの……すみません。ここ、座ってもいいですか?」
なんだ、この女。
俺と同じくらいの歳で、ブラックコーヒー飲んで、知らない男の隣に平気で座ろうとするのか?
参った。
「好きにすれば」
「ありがとう」
彼女は俺の隣に座ると、缶を傾けてゆっくり一口飲んだ
俺は少しだけ顔を彼女のほうに向けた。
彼女はベンチに完全にもたれかかっていた。
しかも、脚の開き方が俺よりひどい。
ああ。
ヤマトが見たら絶対うるさいな。
『お前と同じ歳の女の子が、人前でそんな座り方をするもんじゃない』
想像しただけで、ちょっと聞いてみたくなる。
「変態。」
「ん?」
彼女が何か呟いた。
でも、ほぼ間違いなく「変態」と聞こえた。
いつかこういう日が来るとは思ってた。
「落ち着け。俺は変態じゃない。」
彼女が勢いよくこっちを見る。
「見てたじゃん!」
「見てた」
彼女の表情が固まった。
「……」
「何?」
「せめて否定してよ!」
なんで?
「見てたけど、隠れて見てたわけじゃない。」
俺は顎で彼女の姿勢を大雑把に示した。
「ただ、人前でそんなに平気でいられるのが、ちょっとすごいと思っただけだ。」
彼女は目を伏せた。
自分の脚を見る。
沈黙。
顔が赤くなる。
ああ。
本当に気づいてなかったのか。
彼女は慌てて脚を閉じた。
「もう終わり?」
俺はため息をついた。
「ちょっと残念だな。」
「何が!?」
俺はもう顔をそらしていた。
彼女の顔はどんどん赤くなっていく。
完全にどうしていいか分からないって顔だ。
「もう、いいでしょ! 放っておいてよ! これはただ、練習のあとについた悪い癖で……。」
彼女は説明を始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
しばらくすると、俺は話を聞くのをやめていた。
話の内容が特別つまらなかったからじゃない。
いや、まあ。
少しはつまらなかったけど。
それより、どうしてそこまで必死に言い訳するのか分からなかった。
「別に自分のことを全部話さなくていいだろ。」
彼女が止まった。
「え?」
「別に責めてない。」
俺は肩をすくめた。
「ただ、いいと思う。」
彼女は数秒黙った。
「いい、ね……。」
彼女は缶を見る。
それから俺を見る。
「そうやって思ったことをはっきり言うところ、友達に似てる。」
友達?
その言い方だと、ただの友達って感じじゃなかった。
俺がため息をつこうとした、そのとき。
「きゃああああ!」
彼女は自分で話を止めた。
助かった。
俺は顔も上げなかった。
少なくとも、これで話すのはやめてくれた。
すると、何か柔らかいものが俺の脚に触れた。
毛。
俺は目を下げた。
犬だ。
飼い主のボールを追って、俺のベンチの近くまで来たらしい。
犬はボールを拾い、それから俺の前で立ち止まった。
反射的に、俺はその背中に手を置いた。
頭のてっぺんを軽く撫でてやる。
尻尾がすぐに振り始めた。
ああ。
お前は少なくとも分かりやすいな。
俺は撫で続けた。
もっとやれと言わんばかりにせがんでくる。
気づかないうちに、俺の口元が緩んでいた。
「何、その顔?」
……
「さっきからずっと仏頂面だったくせに、犬が来た途端、変態みたいな顔で笑うんだね。」
彼女が吹き出した。
……
俺はすぐにいつもの表情に戻した。
そして立ち上がった。
犬はまだボールをくわえていた。
俺はそれを受け取って、飼い主のほうへ投げた。
犬はすぐに追いかけていった。
「もう、拗ねないでよ。冗談だって。」
拗ねてない。
ただ、イラついてるだけだ。
「そうやって笑うところも、あの人を思い出す。」
また「友達」か。
そうかよ。
なら、そうなんだろ。
せっかく立ったんだ。
このまま帰るか。
俺は時計を見た。
19時03分。
……
もう一度見る。
19時03分。
違う。
時計は動いている。
一時間。
彼女と一時間も話していた。
これはさすがに初めてだ。
いつもなら、このベンチで午後いっぱい過ごしても、時間が進んでいる感じなんてしない。
でも今日は、時間が経つのをまったく感じなかった。
……
まあ。
一時間も無駄にした。
もう十分だ。
「帰る。」
「え? もう?」
俺は歩き始めた。
「ちょっと! 雰囲気ぶち壊しじゃん!」
振り返らず、軽く手を上げる。
これで十分だろ。
引き分けで終われるだけありがたく思え。
それに、夜の営業ならミミもそろそろ人手が欲しい頃だろう。
帰るか。
俺はもう、彼女の声が聞こえないところまで離れていた。
これでやっと静かになった。
少なくとも、そう思っていた。
誰かが俺の後をついてきていた。
こう言われてもおかしくない。
『公共の公園なんだから、後ろに誰かいるのは当たり前だろ』
そうだ。
分かってる。
ただ、人は歩く。
走ることもある。
何分も俺とまったく同じペースで歩いたりはしない。
後ろで葉が鳴った。
パキッ。
もう一枚。
俺は歩く速度を落とした。
音の間隔も遅くなった。
俺は立ち止まった。
音は消えなかった。
ただ、少し弱くなった。
ミシッ。
もっと軽い。
もっと遅い間隔。
まるで、後ろからついてきていた何かが、急に歩き方を変えたみたいだった。
……
俺は振り返った。
誰もいない。
後ろに続く道。
木々。
いくつかの街灯。
そして、あの音。
ミシッ。
まだ聞こえる。
俺は数秒、耳を澄ませた。
さっき感じたものとは、何かが違う。
俺はまた歩き始めた。
パキッ。
音が戻った。
もっとはっきり。
最初と同じ音だ。
……
まあ。
俺が疑心暗鬼になってるのか、本当に誰かが俺をつけてるのか。
それでも歩き続けた。
暗くなってから一人で歩いていると、こういう妙な緊張を感じるのは初めてじゃない。
目から入ってくる情報が減ると、脳は勝手にいろんなものを作り出す。
公園の出口はもうすぐだった。
向こうから男が歩いてきた。
やっと誰かいた。
男は俺の横を通り過ぎた。
そして――
「うわああああ!」
俺はすぐに振り返った。
何だ?
男は俺の後ろにある何かを見つめていた。
顔から血の気が引いている。
俺もその視線を追った。
何もない。
男のほうを見ると、もう逃げ出していた。
……
俺の顔に小さな笑みが浮かんだ。
ビビりかよ。
暗闇が怖いのか?
そう思った、その矢先だった。
爪が俺の脚に食い込んだ。
「ちっ!」
体が先に反応した。
痛みに顔をしかめながら、一歩後ろへ下がり、俺を掴んだ何かに思いきり蹴りを入れた。
何かが飛んだ。
二メートル。
もっとかもしれない。
そして――
「ミャアアアア!」
……
この声……間違いない。猫だ。
俺は脚に残った傷跡を見下ろした。
ほら、だからだ。
俺がこいつらを嫌いなのは、こういうところだ。
こいつらとは色々あってな。
引っかいたら?
殴る。
目には目を。
興奮が少しずつ引いていく。
そこで気づいた。
足音が消えていた。
これが原因だったのか?
でも、こいつどこから出てきたんだ?
まあ、いい。
そのほうが助かる。
俺はまた歩き始めた。
そして、立ち止まった。
さっき蹴り飛ばした猫が、俺の前にいた。
……
待て。
こいつ、後ろにいたはずだ。
間違いない。
俺は少しだけ首を回した。
二メートル後ろには、もう何もない。
いつ動いた?
俺はまた猫を見る。
猫は何もしない。
ただ俺を見ている。
暗闇の中に浮かぶ、鋭い二つの目。
そのまま歩き続けるべきだった。
なのに、俺はそこに立っていた。
猫を見つめながら。
見れば見るほど……。
それ以外のものが消えていく。
葉。
風。
公園の音。
足の裏に感じていた地面の感触まで。
……
何が起きてる?
突然、胸を激痛が貫いた。
「ぐっ……。」
反射的に胸へ手を伸ばそうとした。
動かした……はずだ。
たぶん。
腕の感覚がない。
脚も。
それどころか、体そのものが分からない。
まだ立っているのか?
それとも、倒れたのか?
分からない。
ただ、痛みだけは残っていた。
どうして他のものが全部消えたのに、痛みだけは感じるんだ?
そのとき、何かが聞こえた。
ミャア。
もう一つ。
また一つ。
中には、叫び声みたいなものもあった。
あちこちから聞こえてくる。
頭をかき回されるようだった。
「うるせえな、いい加減にしろ!」
どこかで自分の声が響いた。
少なくとも、まだ話せた。
……そう思っていた。
「最後の時間を野良猫がくたばる声を聞いて過ごすなんて、まっぴらだ!」
騒音が止まった。
……
やっとか。
少なくとも、俺より先に死んだ。
目には目を。
そして、声が返ってきた。
「私を野良猫呼ばわりするのか、人間!」
声は少ししゃがれていた。
男なのか女なのか、判断できない。
でも、その声を聞いた直後、何かが戻ってきた。
喉。
ようやく。
……思っていた形ではなかったけど。
息を吸うのが苦しい。
何かが喉を締めつけている。
パニックになり、俺は腕を上げようとした。
動かない。
いや……。
たぶん。
「は、放せ……。」
圧力が強くなる。
「ぐあっ……!」
言い返せない。
何も見えない。
そして、すべてが始まってから初めて、本気で怖いと思った。
こいつに殺される。
意識が遠のき始めた。
その瞬間、圧力が消えた。
俺はすぐに咳き込んだ。
唾が出るほど激しく。
なんで今になって放した?
殺すつもりだったんじゃないのか?
息を整えようとしていると、少しずつ視界が戻ってきた。
白。
どこまでも白い。
夜じゃなかったのか?
何が何だか分からない。
そして、その白いものの上に置かれた足が見えた。
じゃあ、ここが地面なのか?
……たぶん。
視線が低すぎる。
俺は膝をついているのかもしれない。
あるいは、しゃがんでいるのか。
分からない。
ただ、目の前に大きな裸足があることだけは確かだった。
爪がやけに長い。
マジで、こいつ何者だ?
俺は目が動かせる限界まで顔を上げた。
長い脚。
腰に巻きつけられた薄手の服。
むき出しの腹。
夜中の東京をこんな格好で歩き回る男を想像している夢なんだ、と信じたかった。
でも、現実じゃないと思い込むには、あまりにも痛かった。
その人影は右手を握りしめ、ほとんど聞き取れない何かを呟いていた。
やがて、その手を開く。
そして、こちらへ戻ってきた。
爪が俺の顎の下に入り込んだ。
頭を持ち上げられる。
俺たちの顔が、ほとんど同じ高さになった。
「それで、人間? まだ生きてる?」
……
女。
しかも、とんでもない女だった。
その視線があまりにも鋭くて、俺は身震いした。
白い髪が顔の周りで四方八方に跳ねている。
まるで、ぼさぼさのたてがみだ。
もう限界だった。
息は荒い。
口の中は唾液だらけ。
心臓はめちゃくちゃだ。
それに、顎の下に食い込んだ爪が死ぬほど痛い。
「かわいそうに。私の爪、痛い?」
彼女は笑い始めた。
……
こいつ、俺の考えが読めるのか?
彼女の笑みが広がった。
そうだ。
本当に読んでいる。
彼女はようやく俺を放し、背を向けた。
彼女が離れていくにつれて、その背後で何かが動いた。
先端が黄色い、長くしなやかなもの。
俺は目を細めた。
尻尾?
……
二つの三角形が髪の中から突き出ている。
白の上に白だから見分けにくい。
でも、猫の耳だった。
頭に血が上った。
彼女は俺の反応を感じ取ったらしい。
大きな笑みを浮かべて振り返った。
「さっき、何かを蹴飛ばしたのを覚えてる?」
俺は彼女を見つめた。
「あの猫……お前だったのか?」
その笑顔だけで答えは十分だった。
「さっき、なんて言ったっけ? 目には目を?」
これ以上、こいつを喜ばせたくなかった。
だから、俺は口をつぐんだ。
ようやく息も戻ってきた。
「自分に何が起きてるのか、気になってるだろ、人間。」
当然だ。
彼女はもう分かっている。
彼女のそばにグリモワールが現れた。
いや……。
どこからともなく現れた。
開いた状態で。
宙に浮いている。
「あなたに起きていることは簡単よ。」
彼女はページに手を置いた。
「今、あなたの体を乗っ取っているの。」
は?
「簡単に言えば、もうすぐ死ぬ。」
……
別に、それほど驚かなかった。
さっきから、何かを少しずつ失っているような感覚があった。
でも、俺の体を乗っ取る?
「まだ気づいてないの?」
彼女は小さく笑った。
「あなたはもう、現世にはいない。」
彼女は一拍置いた。
「まあ……正確には、あなたの無意識の中よ。そこを霊界側に引っ張っただけ。」
俺は少しだけ目を上げた。
彼女は何かを待っている。
反応を。
それが分かった。
「どうして自分なのか、知りたい?」
俺は口を閉ざした。
彼女は勝手に続けた。
「今日、あなたを見ていたの。」
彼女は俺の周りをゆっくり歩き始めた。
「何時間も同じベンチ。」
「一人。」
「人が通り過ぎるのを見ていた。」
彼女の声が、ほとんど優しいものになる。
「死人でも泣きそうな顔をしてな。」
……
「ひどく弱そう。」
……
彼女の笑みがわずかに薄れた。
「ねえ……」
彼女は続けた。
「あのベンチに座っていたあなたからは、死にたいっていう匂いがしていた。」
俺は目を上げた。
彼女はまた笑っている。
彼女が近づいてくる。
「ただ、まだ自殺する勇気が見つかっていないだけの人間なんだと思った。」
……
このクソ女。
彼女はまた爪で俺の顎を持ち上げた。
「だから、手伝ってあげることにしたの。」
笑みが広がる。
「死ぬっていうのが、どれだけ痛いのか教えてあげる。」
俺は彼女の顔に唾を吐いた。
笑みが消えた。
視線だけは変わらない。
鋭いままだ。
「哀れんでたって?」
自分でも驚くほど、声は冷たく出た。
「俺が? 自殺?」
「お前、何様のつもりだ、このクソ猫。」
彼女は動じない。
俺の唾が、ゆっくりと彼女の頬を伝っていく。
頭を引きちぎってやりたい。
それも分かっているんだろう。
「俺が蹴ったこと、許したんだろ?」
俺は無理やり体を動かした。
「後悔する前に、考えを変えたほうがいいぞ。」
彼女は数秒、俺を見つめた。
ゆっくり顔を拭う。
それから背を向けた。
まるで、俺への興味が薄れたみたいに。
彼女はもう一度グリモワールを見る。
幽霊。
精霊。
どっちでもいい。
一つだけ確かなことがある。
こいつは人間じゃない。
グリモワールはまだ彼女のそばに浮いていた。
やがて、彼女はそれを閉じた。
「ねえ、私の犠牲になる人たちは、いつも泣き出すの。」
彼女はため息をついた。
「命乞いをする。」
グリモワールが、彼女の周りをゆっくり回り続ける。
「ネズミはだいたい追い詰めやすいのよ。考えすぎるし、先のことを考えすぎる。」
彼女が俺を見る。
「でも、あなたは……。」
笑みが戻った。
「私なら、いけそうね。」
俺の心臓が、理由を理解するより先に反応した。
「ぐわああああ!」
胸から熱が走った。
そして下へ。
腹。
脚。
俺は燃えていた。
違う。
燃えているわけじゃない。
でも、体だけはそう思っているらしい。
猫が笑い声を上げた。
「始まった。」
彼女はグリモワールを開いた。
「契約が現れた。」
その目が輝く。
「あなたは私のものよ、人間。」
契約?
俺は何も受け入れてないぞ!
熱は体を上へ向かって広がり続けた。
もう終わりだ。
涙が出てくるほど、そう感じていた。
そして、俺は壊れた。
クソ猫。
クソみたいな一日。
ミミと、あのくだらない休み。
あのジョギング女にまで、一時間も無駄にさせられた。
施設のクソ野郎ども。
教師ども。
全部だ。
いつだって俺の代わりに決める。
いつだって、俺の頭の中を分かったつもりでいる。
そして今度は、こいつ。
「ひどく弱そう」
「死にたい」
ふざけんな。
……
俺もな。
なんで俺はまだ地面にいる?
動け。
クソ、動け。
俺は頭の中で世界中に悪態をついていた。
そして、いつの間にか立っていた。
どうやって立ったのか、自分でも分からない。
感覚が戻っていた。
いや、ほとんど。
俺の体は、俺が考え終わるより先に動いていた。
前に進みたい。
もう進んでいる。
走りたい。
もう走っている。
猫が勢いよく振り返った。
「どうして――」
拳はもう、彼女の顔の前にあった。
ただ、スーパーマンパンチでこいつの顔面をぶっ飛ばしたかった。
シュッ!
彼女は重心を落として、ギリギリでかわした。
クソ。
俺の体はそのまま突っ込んでいく。
俺は転んだ。
その落下の途中、何かが視界を横切った。
グリモワール。
開いている。
すぐそこに。
……
そうか。
頭を取れないなら……。
せめて、これを奪う。
通りすがりに、それを掴んだ。
腹が地面にぶつかった。
ズザァァッ!
背を彼女に向けた状態で、その音に俺は思わず体を震わせた。
これは、怒った猫の音だ。
彼女の手が俺の襟を掴んだ。
そして――
足が地面から離れた。
彼女は俺を袋みたいに持ち上げた。
なんて力だ……。
俺は反射的にグリモワールを胸に抱え込んだ。
「放しなさい、愚かな人間!」
声が変わっていた。
低く、荒い。
ずっと甘ったるさがなくなっている。
宙に浮いたまま、彼女は俺を激しく揺さぶった。
揺らされるたびに、頭が後ろへ叩きつけられる。
こんなことで放すつもりはない。
でも、何かがおかしい。
これだけの力があるのに、なんでこれだけなんだ?
俺を殺せる機会なら、いくらでもあったはずだ。
彼女はまた揺さぶった。
そして、空いた手をグリモワールに置いた。
その本に重さが加わった瞬間、体が俺より先に反応した。
俺はその揺れを利用して体をひねった。
肘を彼女の顔へ叩き込む。
彼女はかわした。
回転した勢いで、俺は彼女の手から滑り落ち、背中から地面に落ちた。
クソ。
体が考えるより先に動いても、こいつはついてくる。
グリモワールはまだ胸に抱えたまま。
彼女は俺の上。
また視線がぶつかった。
彼女の目は赤くなっていた。
「あなたの小細工、分かったわ。」
俺は自分の腕を見た。
ほとんど真っ黒になっている。
「俺を傷つけるのを抑えてる。そうだろ?」
息がどんどん苦しくなる。
「何のつもりだ?」
俺はさらにグリモワールを強く抱えた。
「こいつを取り戻すには、俺を殺すしかない。俺を行かせてくれれば、喜んで返してやる。」
彼女の喉を鳴らす音が変わった。
低い。
さらに低い。
俺は目を上げた。
「おい……。」
彼女が俺を見つめる。
「本当に猫なのか? 虎みたいだぞ。」
彼女の髪が逆立った。
……
あ。
気に障ったらしい。
これで二対一だな。
彼女は一瞬、目をそらした。
それから、俺たちの頭上にある白へ視線を上げる。
「この輪廻は諦める。次こそはうまくいく。」
爪が伸びた。
「人間なんかに馬鹿にされて、黙っていられるもんですか!」
クソ。
今度こそ、本当に殺される。
俺は彼女の動きを止めようと、できる限り素早くグリモワールを立てた。
無駄な反射だった。
彼女はまったく速度を落とさない。
手は本を回り込み、最初から狙っていたものへ届いた。
俺の喉。
手がそこへ突き刺さった。
真っ白な痛みが首全体に広がった。
そして、ほとんど何も感じなくなった。
「どう?」
彼女が顔を俺に近づける。
「放す?」
残った声を振り絞って、一言だけ出した。
「は、放さない……。」
彼女の顔が歪んだ。
手は抜かれない。
そのまま喉に突き刺さっている。
俺は息ができない。
体が、首を塞いでいるものをどけろと叫んでいる。
空気を探せ。
このクソみたいなグリモワールを放せ。
まぶたが重くなる。
熱はほとんど全身を覆い終えていた。
足。
脚。
腹。
腕。
残っているのは、ほとんど頭だけ。
彼女がさらにグリモワールを引っ張った。
両腕は動かなかった。
俺のほうが強いからじゃない。
もう、ほとんど感覚がない。
両腕は硬直していた。
本に押しつけられたまま。
彼女が叫んだ。
何の声なのか分からない。
猫でもない。
虎でもない。
怪物だ。
こんなつもりじゃなかったのに、こいつを怒らせることに成功したのが少し可笑しく思えた。
でも、もう疲れ切っていた。
叫び声が終わった直後、彼女の歯が俺の前腕に食い込んだ。
……
圧迫感。
遠い感覚。
それから、湿った熱。
彼女が引っ張った。
何かが切れた。
鈍い音。
肉が一片、もぎ取られた。
見なくても分かった。
それでも、腕は動かない。
彼女はもう一度噛んだ。
さらに深く。
今度は、この霧のような感覚の中でも、硬いものが伝わってきた。
歯が何かを擦る。
骨。
……
こいつは本当に、女らしいところが何もない。
本当に俺の腕を引きちぎろうとしている。
放したい。
いや、違うのかもしれない。
もう、自分でも分からない。
それでも俺の腕は、グリモワールを抱えたまま閉じていた。
彼女がまた引っ張る。
また肉が裂けた。
そして、何かが折れた。
肩が一方へ。
残った腕が、もう一方へ。
……
ほとんど何も感じない。
ただ、自分の一部が消えたような、馬鹿げた感覚だけが残っていた。
目が閉じる。
痛みのせいか?
恐怖のせいか?
息ができないせいか?
分からない。
最後に聞こえたのは、彼女の叫び声だった。
「やったぁぁぁ!」
そして、闇が落ちた。




