第54話 自力救済
応接セットは使わなかった。
テーブルが小さく、膝を突き合わせるような距離になる。武装勢力の幹部と相対するには向かない。
オフィスの通り道の端と端にデスクチェアを一脚ずつ置いた。
ナイリザとファリードが向かい合う。その中間、少し脇にずれた位置に俺が座る。
互いに杖を伸ばしても先と先が触れ合わないくらいの距離だった。
ファリードは背筋を伸ばして座っていた。
初老と言ってよいエルフ。擦り切れた外套。節くれだった手。その手には、長年使い込まれた杖が握られている。
ナイリザはいつもの事務用ベストにブラウス、タイトスカート。
老眼鏡をかけ、足を組んでいる。
十年ぶりに対面した師弟には、およそ似つかわしくない場所だった。
「何の用かしら。決算月で忙しいのだけど」
ファリードの表情から、わずかに毒気が抜けた。
しばらく口を開かなかった。
もっと別の言葉を用意していたのかもしれない。
やがて居住まいを正し、深く頭を下げた。
「お迎えに上がりました。……ナイリザ様。私とご同行ください。イシュヴァーリ殿下がお待ちです。同志が集まっておるのです」
イシュヴァーリ。
第一皇女の名前だ。さすがに調べた。
生き残った皇族たちの中でも抗日派の首魁だ。
帝国残党をとりまとめ、双陽戦線を名乗っている。
「第一皇女殿下を推戴して、今さら何をしようというの」
「瓦解の日、双陽はお隠れになった。爾来十年。陽が昇らぬには余りに長い。我らは我らの権利を力で回復しなければなりませぬ」
「不敬ね」
ナイリザは即座に言い放った。
「皇城には第二皇子がおわすわ。あなたたちがやろうとしていることは帝国の回復ではない。ただの私戦よ」
「師よ。何をおっしゃるか」
ファリードの声が一段上がる。
「玉座に御着座なされば、イシュヴァーリ殿下が皇統を継がれる。これ以上の尊き正統性はありますまい」
坂崎によれば第二皇子に即位の意思はないという。
第一皇女が僭称しても案外誰も反対しない気もするが、そう簡単でもないのだろう。
『玉座への御着座』とやらが重要なのかもしれない。
ナイリザの反応は冷ややかだった。
「言いたいことはそれだけ?」
ファリードが顔を下げた。
膝の上で、杖を握る指がわずかに動く。
「……耳を傾けてもいただけぬのですか」
「興味がないわ」
ファリードは、複雑な表情を浮かべたまま、しばらくナイリザの事務服姿を凝視していた。
やがて、絞り出すように口を開く。
「師は変わられたのだと、そう申す者もおりました。ですが……私には、御身がヤポンに忠節を捧げておられるなどとは、どうしても信じられぬのです」
ナイリザが小さく溜め息を吐いた。
そして、ブラウスの襟を摘まんで見せる。
「当たり前でしょう。ヤシマとはただの契約よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
「契約……」
ファリードは小さく繰り返した。
その言葉が意味するものを確かめているようだった。
「では、師は……第二皇子に連なる者ですか」
ナイリザが鼻で笑った。
「瓦解以後、拝謁したこともないわ」
「まさかマハーラ教団に」
「侮辱かしら」
「では……では、一体何を」
ナイリザは答えない。
ファリードはしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて、探るように言った。
「まるでご自身だけを恃みにしておられるようだ」
「他に何があるというの」
渇いた声だった。
問いかけではない。
強がりでもない。
ただ淡々と、事実を述べたように聞こえた。
だが、その言葉を聞いたファリードの目に浮かんだのは憐憫だった。
「……おいたわしい」
まるで痛ましいものを見たかのように顔を伏せる。
ナイリザの眉が、ごくわずかに動いた。
ファリードは顔を上げ、ナイリザの目を見つめながら言った。
「師よ。今日は御身の責苦を除いて差し上げるために参ったのです」
「……責苦?」
ナイリザが眉をひそめた。
はじめて無関心、不機嫌以外の感情が漏れる。
その反応に、ファリードはむしろ勢いづいた。
「貴女は瓦解以来、ずっとご自分を責めてこられたはずだ。貴女が門を。ルーヴァンの門を開いたから、双陽が自尽されたのではないかと」
双陽帝国の皇帝が『偶発的接触』の日に自害したことは、知識として知っていた。
『ルーヴァンの門を開けた女』
『なぜ死んで陛下に詫びぬ』
いつか聞いた言葉と、歴史と、目の前のナイリザが初めてつながる。
ナイリザは何も言わなかった。
「違うのです」
ファリードが身を乗り出す。
「私はあのとき宮殿におりました。東門が抜かれた第一報を受け取ったのが私なのです。私が上奏にまかり越した時にはすでに……すでに双陽が毒杯を仰がれた後でした」
オフィスの蛍光灯が、一度だけ瞬く。
天井を見上げた。特に変化はない。
すぐに二人へと視線を戻した。
「おそらく、ヤポンの砲弾が結界を破ったときに、聖断なされたに相違なく」
ファリードはそこで言葉を切った。
ナイリザは「そう」とだけ応えた。
先ほどまでよりも、更に一段低く、硬質な声だった。
「それがどうしたの」
「ですから師よ。御身が崩御の引き金を引いたと考えておられるのなら、違うのです」
言葉に熱が籠もる。
それに反応するように、どこかで「ジジジ……」という音が聞こえた。
「あれはやむを得ぬ敗戦でした。ナジュラ=キルの家名はいささかも傷付いてはおりませぬ」
音の源をたどってナイリザを見る。
ナイリザの近くに置かれていた書類が、風もなくふわりと捲れた。
「殊更にご自身を卑しめるのはおやめ下され」
蛍光灯が再び瞬いた。
「そのような、ヤポンの奴婢の衣を纏う必要もない」
ファリードがまくしたてる。
室内の変化に気づいていないようだ。
ナイリザも、気づいていないのかもしれない。
「殿下が玉座に就かれれば、サリヤーン家相伝の結界術があれば、再び帝都を結界で覆うことも……」
「まだそんな夢みたいなことを言っているのね」
ファリードの言葉に被せるように、ナイリザが押し殺した声を発した。
低く、鋭い声だった。
「門を開けば、陛下がどうなさるかなんてわかっていたわ」
ファリードの表情が止まる。
「それでも私は門を開けた」
ぴしり。何かが凍結するような音が響いた。
ナイリザの足元を見ると、スニーカー周りの床から色が抜けていた。
「たまたまその前に陛下が毒杯を仰いでいたからといって、私の選択は変わらない」
「師よ……」
「私を師と呼ぶな」
ナイリザがゆらりと立ち上がった。
反射的に、俺も腰を浮かせる。
「門を開き、位階を捨て、今はヤシマの契約社員。そのヤシマも、日本企業の一角でしかない」
一歩。
ナイリザがファリードとの距離を詰める。
踏み出した先の床面から、広がるように色が抜けた。
「ナイリザ!」
声を上げる。
しかし、ナイリザは止まらなかった。
もう一歩踏み出す。
「人々が求めているのはね。清潔な水と、腐っていない食糧と、抗生剤を買うための円よ」
ファリードが後ずさろうとしてデスクチェアに足をぶつけた。
そしてナイリザを押しとどめるように左手を突き出す。
ナイリザとの距離はまだ遠い。
だが、ファリードの突き出した手の先から、皮手袋の色が抜けた。
褪色し、灰色になり、徐々に白くなっていく。
「あなたたちの夢物語には、ペットボトルほどの価値もない」
ナイリザが手を伸ばす。
空気が歪む。
蛍光灯が激しく明滅する。
気が付けば、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「ナイリザ、止せ。魔術は禁止だ」
ナイリザがこちらを見た。
ひりつくような視線。
瞳孔が収縮した瞳。
そして、たっぷり一拍の間ののち、静かに手を下ろした。
途端に、重しが取れたように空気が軽くなる。
最後に何度か瞬いたあと、蛍光灯がもとに戻った。
ファリードは、信じられぬものを見るような目でナイリザを見つめていた。
ナイリザはその様子を一瞥し、口を開いた。
「失せろ。二度と私の前に顔を見せるな」
低い声だった。
「お前たちの蜂起は失敗に終わる。杖を捨てろ。死を振りまくな」
ファリードの顔が強張った。
そして、視線を落とし、そのまましばらく動かなかった。
ナイリザも何も言わなかった。
ファリードが呟いた。
「……魂まで腐ってしまわれたか」
杖を握りしめ、立ち上がる。
そして、ナイリザの方を見ることなく、背を向けて歩き出した。
ドアのところで一度立ち止まる。
「私が師と仰いだお方は、もうおられぬようだ」
振り返らずそれだけ言い残して、部屋を出て行った。
* * *
「今日は、疲れたわ」
自室に戻ったナイリザは、ベッドに腰を下ろしながらそう言った。
ファリードが去った後、念のためしばらく警戒態勢で待機していた。
だが、何も起こらなかった。
周囲にも異変がないことを確認し、早々に事務所を締め、ナイリザを家まで送った。
運んでやった魔法の杖入りのナイロンケースを、フローリングの上に静かに置く。
「ありがとう。もう行っていいわよ」
ナイリザは床を見つめたまま言った。
素直に帰るつもりなら、もともと送りはしない。
壁に背を預け、腕を組んでナイリザを見下ろした。
「何?」
ナイリザが顔を上げる。
半笑いで言った。
「部下のメンタルヘルス管理ってわけ?」
「つまらないことを言うな」
それだけ言い返し、キッチンに向かう。
冷蔵庫の蓋を開けた。ストロングゼロしか入っていない。
諦めてそれを二缶持ち、ローテーブルに置いた。
そのままナイリザの隣に座り、自分の分のストゼロのプルタブを引く。
ナイリザも同じように蓋を開け、缶に口をつけた。
お互い無言のまま、喉を湿らせる。
やがてナイリザが呟いた。
「もう弟子一人止められない。笑えるわ」
「笑えない」
止めるために会ったというのは、わかっていた。
ファリードは馬鹿ではない。ナイリザへの敬愛もおそらく本物だ。
だが、今さら何かを変えられる状態には見えなかった。
口にはしない。それを言って慰めになるとも思えなかった。
しばらく無言でアルコールを流し込んだ。
話を聞くべきかどうか。
おそらく聞くべきなのだろう。
聞いてどうなるという気持ちもある。だが、知りたくないと言えば噓になる。
「ルーヴァンの門」
最初に自然に出た言葉はそれだった。
「ファリードも、ラズワーンも言っていた。東門のことだったんだな」
「そうよ」
「お前が守っていた」
「……そうね。そして、門を開いたのも私」
「聞いてもいいか?」
ナイリザは返事の代わりにぐいと缶を呷る。
そして、ぼそり、ぼそりと語り出した。
「十年前の合の日。ゲートが開き、異界の理を持ち込む奇妙な一団が現れた」
十年前。日本中が熱狂した一連のニュースのことは覚えている。
筑波山中に突然ゲートが開いた。
調査の結果、とにかく別の世界に繋がっているらしいことだけわかった。
異世界の調査、知的生命体との接触のため、自衛隊の第一波が派遣された。
「深緑の衣。鋼鉄の馬。火薬の弓。でも重要なことは見た目や武力そのものじゃない。彼らが別の理に従っていて、それを持ち込むということ」
缶を握るナイリザの手に力が籠もった。
「直ちに討滅の勅が下されたわ。言葉を交わすな。捕虜も取るな。異界のものを持ち帰るな。ただすべてを無かったことにせよ、と」
当時から、なぜいきなり武力衝突にまで発展したのか、という批判はあった。
自衛隊側があえて交戦を選んだのではないか、という疑惑を唱える者もいた。
だが、それほど大きな声にはならなかった。
派遣された公務員の集団が、突如侵略者に豹変したという想定には、無理がある。
「奇襲をかけ、あらん限りの大魔術を撃ち込んだわ。……けれど、最初は何一つ通じなかった」
声から抑揚が消えていた。
報告書を読み上げるような声だった。
「ゲートの直ぐ近くだったから。今思えばそれだけの話だけれど。魔術はことごとく日本の理に打ち消され、彼らの打ち出した銃弾は、魔術師たちを薙ぎ払っていったわ。前線を下げて、少しは魔術が通じるようになってからは、もっと悲惨な消耗戦になった。陽読みは銃弾を浴びて死んだ。月読みは爆弾で四散した」
そこで一旦言葉を切る。
ナイリザの視線が宙を彷徨った。
まるで十年前の光景を幻視しているようだった。
「停戦の打診らしきものは何度かあった。だから私は陛下に上奏した。敗北を認め、友誼を乞うように。けれど陛下は、私にルーヴァンの門の守護をお命じになった」
緑色の瞳が揺れた。
台風の日を思い出す。
昔の夢の中でも、ナイリザは玉座を守っていた。
「帝都守護の結界に最後の望みを託した。でもね。彼らの打ち出した砲弾は、苦も無く結界を打ち破った。……いいえ、打ち破ったんじゃない。通り過ぎたの。魔法ではないものね。魔王すら退けた結界も、なかったのと同じだった」
ナイリザは空になった缶を膝の間に置いた。
「砲撃で門楼が消し飛び、結界が消失したとき、私は開門を命じて投降したわ」
部屋の中は静かだった。
外から、遠く、歓楽街の喧騒が聞こえてくる。
「陛下が毒を仰いで自尽したと知ったのは、その後。開門が先か、崩御が先か。そんなことは、どちらでもいいわ。結果は同じ。帝都は陥落し、帝国は滅び、私はここにいる」
「正しい判断だったんじゃないのか」
「わからない。わからないわよ、そんなこと」
ナイリザの声が震えた。
「悔しいわよ、そりゃあ」
缶を握る指が白くなった。
「私だって、あの子みたいに叫びたい。こんな事務服脱ぎ捨てて、あんたたち日本人を一人残らず焼き尽くしてやりたい」
目が据わっていた。酔いだけではない。
「でも、意味がないのよ」
声が落ちた。
「あんたたちを焼いたところで、次が来る。次の次も来る。機械と銃弾を持って。門を開けたあの日に、わかったのよ。もう、終わったの」
長い話が終わった。
言うべき言葉は見つからない。ただ疲れた横顔を見つめていた。
ナイリザは眼鏡を外した。
緑色の瞳が、裸のまま俺を見ていた。
「……ねえ、カトウ」
低い声だった。
ナイリザはしばらく黙っていた。
それから、俺の腕に額をつけた。
額が熱かった。小刻みに震えている。
「今夜だけ、わたしがまだ壊れてないってことにして」
ナイリザの肩に手を置いた。
薄い肩だった。
手を腰に回す。
強く引き寄せると、ナイリザが小さく吐息を漏らした。
震えを止めることはできた。
眠らせることもできた。
だが、ナイリザが失ったものを埋め合わせることはできなかった。
次回は10/24(土)更新予定です。




