第53話 ファリード
酒亭を出た後、ナイリザと二人でまた事務所に戻った。
反日組織と接触した直後、それぞれ一人で家に帰るというのは、どう考えても危険だ。
主に俺が。
それに話をしないわけにもいかないだろう。
照明を点ける。オフィスがLEDの人工的な光で満ちると、それだけで随分安心できた。
デスクチェアに腰を下ろす。
ナイリザは俺のデスクの端に寄りかかるように腰を乗せた。
手には封書を握ったまま。表情は険しい。
「……ファリードというのは」
「不肖の弟子よ。私の、最初の」
言葉は少なかったが、返答はあった。
私的な、過去に関する事柄だが、立ち入られるのを拒むつもりはないようだ。
「目的はなんだ」
「……戦線に加わってることは知ってたわ。巻き込みたいんでしょう。私を」
ナイリザは封書を開いた。
そして一瞬で目を通すと、俺の前に無造作に置いた。
置かれた手紙を手に取る。
仰々しく封蝋されていた割りに、内容はひどく簡潔だった。
日時の指定。
場所は西門先のスラム第二街区。
一対一の面談を希望する。
俺がなんとか帝国語を読み終えたのを見計らい、ナイリザが口を開いた。
「自分たちの支配領域に、一人で呼び出すつもりね」
スラム第二街区。
一度だけ、西門先に足を踏み入れた時のことを思い出す。
鉄錆と、膿んだ傷口の腐臭。
「双陽は不滅なり」の落書。
凝視する冷たい目。
他の街区と比べても、明らかに空気が違った。
「会いたいというのは口実で、拘束や不当な取引を狙っている可能性もある?」
「説得して勧誘したいというのは本心だと思うわ」
ナイリザは、外した封蝋を指で撫でながら「あのファリードならね」と付け加えた。
「だが、勧誘を断られたら?」
「それはわからない。そのまま『さようなら』でいいのか、戦線としての判断もあるでしょう」
「ファリードというのは手強いのか」
「馬鹿言わないで。あの子一人なら、別に怖くないわ」
「一対一と書いてある」
「本当に一人なわけないでしょう?」
それはそうだ。
ナイリザが個人としてどの程度の武力を持っているのか、正直なところ、俺にはよくわからない。
本人たちの話を総合すると、エリファスのような人外級ではないものの、坂崎でも手を出せない程度。
十分規格外なことだけは間違いない。
だが、戦線の魔術師に十重二十重に包囲されても大丈夫、というわけでもないのだろう。
「戦線側も警戒しているということか」
あちらからすれば、十重二十重で包囲しなければ安心して会談できないということになる。
ナイリザが敵対勢力と通じていて、会いに行った幹部が成す術なく捕縛されてしまう。
そういう可能性も当然考慮する。
「……行けるわけがない」
ナイリザは悔しそうに呟いた。
その言い方が既に、ナイリザの意思を示しているようだった。
「会いたいのか?」
念のため確認する。
ナイリザは押し黙り、答えなかった。
酒亭で封書を突き返さず、受け取ってきた。それがすべてだろう。
煙草に火を点ける。状況を整理する。
要するに、双方とも会談意思はある。問題は安全保障条件だけ、ということだ。
お互いの安全の線引きが折り合わない。
「相互に火力を抑止できればいいわけだ」
「……何を考えてるの」
「場所のセッティングを」
ナイリザは戸惑うような、苛立つような複雑な表情を浮かべた。
「あなたが口を挟むことじゃない。業務とは関係ないわ」
「業務になる」
「は?」
「事務所を使うからだ」
* * *
明けて翌日。早い時間に例の酒亭に向かった。
第二太陽の日の出が日に日に早まっていくせいで、11時頃にはもう正午のような暑さに仕上がってしまう。
既に入り口のタペストリーは外されていた。
中はがらんとしている。客も店員もいない。
椅子テーブルなどはそのままだったが、装飾類は外されて酒も残っていなかった。
つい先日まで、昼もカフェ営業のようなことをしていたはずだ。
それが一夜で廃屋のような雰囲気になってしまった。
返答はこちらで、と言っていたのだが。
奥も無人であることを確認して、出ようとしたところで、入り口を人影に塞がれた。
「何の御用です、ヤポンの方」
酒亭の主人が立っていた。
こちらに向けて杖を構えている。入り口に立っているので、逃げる先もない。
俺はゆっくりと両手を上げた。
主人が怪訝そうな顔を浮かべ、微妙な間が空く。
こんな洋画のようなポーズをとっても、現地で通じるわけがないと気づいた。
幸い、羞恥心が沸くまえに主人がこちらの意図を察した。
「まさかとは思いましたが本当にお一人のようだ」
油断なく周囲を伺っている。
同行者がいないこと、周囲に手勢を潜ませていないこと、そこまで確認してから姿を見せたのだろう。
「どうかと思いますが、お話くらいはうかがいましょう」
「……会談の場所の件だ」
「ほう」
主人が入り口を塞いだまま一歩踏み込んだ。
杖は相変わらずこちらに突き付けられたままだ。
「そちらの勢力圏にナイリザ一人で来いという」
「ええ。そうですね」
「一対一の面談というが、そちらの護衛は?」
「必要でしょう」
「何人?」
「それをお話する理由はありません」
「それじゃ、ナイリザは行かない」
そこまで話したところで、主人が小さく呟いた。
「……でしょうね」
たった一言だったが、それでようやく気持ちが落ち着いた。
話が通じる相手だとわかったからだ。
「場所の変更を提案する。ヤシマの駐在員事務所だ」
「……そちらの勢力圏ですね」
「そうだ。だが、日本租界だ。双方とも魔術は扱い難いはずだ。そして、アンカーも同席する」
「誰が?」
「俺だ」
「ご自分が何を言っているか、お分かりですか?」
呆れたような声だった。
「わかっている。だから来た」
無表情だった主人の口元が、そこで初めてほんの少し緩んだ気がした。
つまらないものを見るような目つきは変わらなかったが。
「双方とも魔術は禁止だ。そちらから事務所に入るのは一人だけ。会って、話して、帰る。それだけだ」
事務所に入るのは一人だけ。
外周警護については触れなかった。言ったところで守るとも思えない。
だが、日本租界内に大人数を配置するのは難しいだろう。
しばらく考えるような間があった。
「いいでしょう。変更をお受けします」
持ち帰り検討するのかと思っていたが、意外にも断言された。
思ったよりも立場が上なのだろうか。
「日時は封書にある通りで」
「異論ない」
そこでようやく、主人が杖を下ろした。
何も言わずに立ち去ろうとする。
その背中に声をかけた。
「本当に、ナイリザを説得できると思っているのか?」
主人は肩越しにこちらを見返して言った。
「私は無駄だと申し上げましたよ」
相変わらず表情はない。
「ずっと見ていましたからね。嫌でもわかる」
そして、吐き捨てるように続けた。
「サーリスはもう、抜け殻です」
何も返せなかった。
それ以上聞くことも思い浮かばなかった。
主人は今度こそ振り返らず、酒亭を出て、通りの人ごみへと消えていった。
* * *
当日は日曜日だった。
今日は事務所に近づくなと伝えて、ハシュラを使い番に出した。
それ以外に変化はない。
休日だというのに、俺もナイリザも出勤している。
封書の指定によれば、正午に「来客」がある。
坂崎には特に連絡を入れていない。
予定の時刻よりも大分早く、ドアホンが鳴った。
ドアを開けると、ハシュラが息を切らせて飛び込んできた。
「カトウ!?」
「……なんで戻ってきた」
自分の声に余裕のない怒りが滲んでいるのがわかる。
それに気づいていないのか、ハシュラは俺の手を引いてさっとドアの影に滑り込んだ。
「角に三人いる。裏にも二人。通りの露店商も剣を隠してるのが二人。ここ、囲まれてるよ」
「事務所に近づくなと言ったはずだ」
「ど、どうすんだよ。衛兵隊? カンリホンブ?」
「ハシュラ」
「あたし行ってくる」
「いい。行かなくていい」
「でも」
ハシュラは青ざめた顔でこちらを見上げる。
その肩に手を置いて続けた。
「お前に詳しく説明していなかったのは悪かった。外の連中は今日の『来客』の連れだ。臆病な連中だが、こちらに危険はない」
「……ほんとに?」
「本当だ。ナイリザがいるからな。だがこちらの人数が多いと警戒させる。お前はニャーラのところに行ってろ」
「二人とも無茶しない?」
「しない。安心しろ」
「う……ん」
「報告は助かった。管理本部に行くと思われるとまずい。出て、そのまま堂々と夢幻楼に行け。わかるな?」
「……わかった」
「今度は戻ってくるなよ」
背中を叩いて送り出す。
外はいつもの日本租界の大通りに見えた。
通りの真ん中を徐行するトラック。ゴブリンの物売り。日傘を差したサラリーマン。
ハシュラが通りの先に消えるところまで見送ってから、事務所に戻る。
二階のオフィスでは、ナイリザがいつものようにデスクチェアに腰掛けていた。
「ハシュラは?」
「戻ってこないよう言い聞かせた」
机の上にはナイロンケースが置かれていた。
ナイリザは、ケースから取り出した杖を持ち上げて、点検するように握りを確かめている。
「事務所の周りに七人いるようだ」
「そう」
杖を銃のように構えて、片眼を瞑りながら言った。
「その程度なら日本租界でもどうとでもできるわ」
「アンカーがいてもか?」
「ええ、保護対象がいてもね」
* * *
正確に正午。
事務所のドアホンが鳴った。
モニターを確認する。
フードを被った人物が一人、ドアの前にいた。周囲に人影はない。
俺は一階に下り、玄関前に立つ。
なんと声をかけるか。
反日組織の幹部を招き入れるときのビジネスマナーなど知らない。
「……どうぞ」
結局至って普通の声をかけてドアを引いた。
正確には、引きかけたところで、外から乱暴に押し開けられた。
バタンと音を立ててドアが開き、目の前にぬっと杖が突き出された。
咄嗟に後退って杖の主を見る。
ドアを杖で突き開けたのは、一人のエルフだった。
フードは既に外している。
くすんだ白髪交じりの金髪を総髪にしていた。
顔には深い皴が刻まれていた。
五十歳から六十歳というところだろうか。
ナイリザの弟子、ファリードは、想像していたよりも年配だった。
「ナジュラ=キルはいずこにおわす」
ファリードは猜疑心に満ちた瞳でこちらをじろりと舐め上げて言った。
「ここにいるわ」
背後からナイリザの声が響く。
振り向くと、ナイリザが階段を降りてきていた。
手には杖を持っている。
白いブラウスに事務用のベスト、スカート、スニーカー。
そして老眼鏡。
いつもの装いだ。
「ナイリザ様……!?」
ファリードの声が裏返った。
「……そのお姿は」
次回は10/17(土)更新予定です




