第51話 帰依
退職金関連の手続でよくわからない点があったので、統括オフィスに電話をかけた。
しばらく待たされ、城島が出た。
事務的な確認なので誰でも良かったのだが。
駐在員窓口は城島という不文律でもできているのかもしれない。嬉しくはない。
『元奥様の口座は人事の方で把握しているんですけど、勝手に振り込むわけにも』
「宇田川次長本人が希望した場合は」
『それならもちろん。確認書に署名さえいただけるなら、送金先はどこを指定してもらっても構いません。でも希望されるかなあ。離婚してるわけですし』
電話の向こうで書類をめくる音がした。
『確認書がとれない場合は、失踪宣告ルートですね。七年待って、相続人に渡す』
「……七年?」
『まあ、そのころには僕も加藤さんも担当じゃないでしょうけど』
城島は軽く笑った。
『で、実際のところ、どうでした?』
「何がだ」
『宇田川さんですよ。どんな感じでした』
受話器を肩と耳で挟み、煙草に火をつける。
「少なくとも見た目は何も」
『……そうですか。意外ですねえ。それなら、まあ、変異所見なしってことで』
「変異の疑いあり」となった場合、会社には通報義務がある。
人事としては一応確認した、ということだ。
仮に通報したとして、管理本部や自衛隊がわざわざスラムまで保護収容に出向くとも思えない。
だが、現場は何かせざるを得なくなるのだろう。誰も幸せにならない。
「宇田川次長の」
『はい?』
「お子さん、いま何歳かわかるか」
『お嬢さん? たしか養育費の差押えのときの書類で年齢が……ええと、今は十三、十四。中学二年生ですかね』
「そうか」
子どもの性別や学年が曖昧になるというのは、普通ではない。
ただ、それが変異なのかどうかは、よくわからない。
* * *
西の下院を再訪し、前回と同じ塀際にハイラックスを停める。
門前には相変わらず施療を待つ人々がいた。
炊き出しの大鍋から白い湯気が上がっている。
棍棒を持ったオークの僧兵は、前と同じ男だった。
近づいて「ヤポン」の居場所を尋ねる。
僧兵は、通り沿いの酒亭ではなく、無言のまま自らの背後――寺院の奥へと続く木造の重い扉を指さした。
「中?」
僧兵が頷く。意外だったが、それ以上の説明はなかった。
軋む扉を押し開けて足を踏み入れる。
外の喧騒が、分厚い漆喰と木造の梁に吸い込まれるようにして一瞬で途切れた。
薄暗い堂内はひんやりと冷たく、バニラに似た静謐香の甘い匂いが、ほのかに沈殿している。
静謐だった。
静まり返った回廊の奥から、低くかすかな唱名が幾重にも重なって響いてくる。
歩みを進めると、声は密度を増していった。
礼拝堂の入り口に辿り着き、薄暗がりの中を見渡す。
床に敷き詰められた粗末な毛氈の上に、二十人近い人影が、頭を垂れて平伏していた。
目に布を巻いたダークエルフの女、右手を欠いた獣人、空の産着を抱えて蹲るゴブリン。
そうした人影の最後列、入り口近く。
派手な原色のアロハシャツ姿があった。
周囲の人々と同じように、両手の指先だけを合わせ、頭を垂れ、身じろぎもしない。
「……マハーラ。マハーラ。アル=サフィール……」
正面で僧が一人、低く唱えていた。
参加者が、半拍遅れて和す。
波のようだった。
抑揚も感情もない。上がりも下がりもしない波だ。
その波に合わせて、堂内の空気がうねる。
軽い立ち眩みを感じて、壁に手をついた。
以前見た、マハーラ教の壁画を思い出す。
瀬戸を追って入った礼拝所で見かけたものだ。
跪き、頭部が燃えた人々。
炎から白い筋が伸び、渦へと巻き込まれていく。
気分が悪くなり、回廊の入り口まで引き返した。
柱に寄りかかって、終わるのを待つことにする。
祈りは二十分ほど続いた。
鐘の音がひとつ、重く鳴り響き、唱名が静かに途切れる。
しばらくすると、人が雑然と動き出すときの小さなざわめきとともに、信徒たちが礼拝堂から出てきた。
俯いた人影が三々五々回廊を抜けて行く。
宇田川は最後尾だった。
足取りはしっかりとしている。
こちらに気づくと、驚く風でもなく、ただ薄く口の端を歪めた。
「……加藤君か」
* * *
下院を出て門前の段差に腰を下ろすと、宇田川はふー、と長く息を吐き出した。
「意外だったかね」
「イメージとは違いました」
正直に答える。
宇田川は両手を膝にだらりと垂らして言った。
「入信したわけではない」
「……ええ」
「だが、あれに参加すると、余計なことを考えなくて済むようになる。あれは、そういうものだ」
「余計なこと?」
「日本のことだ」
宇田川の手がアロハの胸ポケットを探すが、ポケットは空だった。
煙草を一本差し出して、火をつけてやる。
「止めてたんだがな」
「すみません」
「いや、助かった。吸いたい気分だった」
宇田川は長く吸って、肺の底から吐き出した。
「今さら子どもに会いたいという気持ちはない。薄情と思うかもしれんが、本当だ。元妻に頭を下げるのもごめんだ」
指先から立ち上る紫煙が、乾いた空気に散っていく。
「だがね。……この前、日本の夢を見た」
掠れた声だった。
「保育園のころだったかな。子どもを連れて行った公園だ。滑り台があった。赤かったと思う。砂場もあったな。そこで、靴に砂が入ったと泣いていた」
ジリジリとした日差しの下。
長い施療待ちの列が少しずつ前へ動いている。
誰かが咳をした。
「妙な話だろう。もう顔も思い出せなくなっているのに、そういうものだけ残る」
宇田川は、汗ばんだアロハシャツの胸元を摘み、ばさばさと扇ぐ。
不快な空気を追い払うようにしてから、ぼそりと呟いた。
「それが見苦しくてたまらない」
「……見苦しい、ですか」
「あれは……祈りはな、便利なものだよ。酒より残らない。女より揉めない。翌朝、ちゃんと起きられる」
そう言って、おどけるように笑った。
「で、要件はなんだ。昨日の今日で、またこの顔を見たくなったわけではないだろう」
顎をしゃくってみせる宇田川に、クリアファイルを差し出した。
『退職金受領確認書』。ボールペンも添える。
「退職金の件です。本人の署名が必要でして」
「ああ、それか」
宇田川は咥え煙草で書類とペンを受け取った。
そして、文面をまともに見ようともせず、手にしたペンで無造作にサインを走らせる。
引継書で何度も見た字だった。角の立った、読みやすい字だ。
「送金先はどちらに?」
「言ったろう。金ならある。君の方でよしなにしておいてくれたまえ。教団に喜捨しても構わん」
紙とペンを突き返された。
「全額を、ですか」
「ああ、まあ」
宇田川は煙草の火を石段で揉み消す。
大儀そうに立ち上がり、ハーフパンツの尻についた砂を払った。
「任せるよ」
* * *
宇田川のサインが入った確認書をスキャンし、城島宛のメールに添付する。
送金先については悩んだ。「よしなに」としか言われていない。
一瞬、「失踪なら相続人に渡す」という城島の言葉が脳裏をよぎる。
支給額のうち半分は娘へ。残り半分は教団に寄付。
「よしなに」の範囲で作った案としてメール本文に書いた。
城島からはすぐに返信が来た。
宇田川の意思確認を求める記載はなかった。新しい書面の提出も不要だという。
寄付をどのような方法で行うかだけ、教団側に確認するよう指示があった。
教団の連絡先に電話をかけたが、つながらなかった。
越界障害だろう。電話は受け手の状況次第だ。こちらでアンカー効果を効かせてもつながるとは限らない。
翌朝、再架電してもつながらない。
出向いた方が早いと思い直し、ハイラックスを回した。
マハーラ本院に乗り付けて、渉外僧のサーミルを探す。
応対に出た若い僧侶に用向きを伝えると、首を横に振られた。
「少々お待ちください。僧正にお取次ぎいたします」
「ただの喜捨だ。施主も俺ではない。手続きだけでいい」
「いえ」
若い僧侶は困ったような顔をした。
「カトウ様が見えられたらお通しせよと、そのように言いつかっております」
案内されたのは、聖堂のさらに奥、私的な小礼拝堂のような一室だった。
清浄だが、暗く、狭く、調度品はない。
部屋の中央で、老齢のエルフが一人、床に膝をついて祈りを捧げていた。
先日身に着けていた赤や金糸を重ねた法衣ではなく、鼠色の長衣を纏い、背を丸めていた。
「カトウ様がお見えです」
若い僧侶は小さな声でそう告げて、静かに立去る。
僧正のハリールがゆっくりと振り返った。
部屋が暗くて表情がよく見えない。
「ウタガワ殿にお会いになりましたか」
落ち着いた声だった。
「やはり、知っていたんですか」
「どうなさるか、気になりましてな」
「悪趣味ですね」
「そうかもしれません」
薄暗がりの中、僧正は悪びれもせずに笑ったようだった。
「カトウ殿は、情けのある方のようだ」
「ただの会社員です」
「左様ですな」
僧正は静かに頷いた。
「少し、歩きましょう」
左足を引きながら、小礼拝堂の更に奥の扉を開く。
付き従って外に出ると、緑の濃い樹木が並ぶ小道に出た。
礼拝堂をぐるりと回り、中庭に続いているようだった。
「宇田川次長は祈りに参加していました」
黙ったまま進む僧正の背中に話しかけた。
「あれは、何なんですか」
歩みが止まる。
「静謐の祈りと申します」
僧正はちらりとこちらを振り向いて言った。
「どうしても苦が解けぬ者たちにだけ、参加を許しております。粥や薬では癒せぬ類の。それでも、西の下院では週に一度は実施せざるを得ない」
「入信していない者でも?」
「祈りは異世界にも開かれております」
商談の席でも聞いた言葉だった。
「まずはそれをお伝えしたかった。ヤポンのお方に」
「まずは?」
僧正は答えずに歩みを進める。
中庭が近づくにつれ、行き交う人影が増えていった。
僧正の姿を認め、深々と頭を下げる者も多い。
だが、寺院の壁に体を預け、ただ無気力な視線を投げかけてくるだけのものも少なからずいた。
「双陽没して以来、寺院の門を叩く者たちは増えましたな。貧しく、飢えた者は、むしろ減ったのですが」
粥を啜る者の中に剣を佩いた獣人がいた。
木陰で杖にもたれているエルフもいた。
「杖を置いた者はまだ幸いです。そうでない人間は、なお苦界の中にある」
「何が言いたいんですか」
「何も。ただ、ナイリザ殿によろしくお伝えください」
「……マハーラの救いを求めているようには見えません」
「そうでしょうな」
「では、なぜ俺に」
「さて」
僧正は一旦言葉を切った。
顔を上げ、視線を遠くに彷徨わせる。
「昔、双陽眩き頃。乾季にひどい飢饉がありました。飢えた者が壁の外にまで溢れた。そのとき、あの方は、民のために穀倉を開くよう上奏してくださった」
そして、呟くように続けた。
「聡明な……聡明すぎる方だ」
いつの間にか中庭が終わり、門を入ってすぐの広場に辿り着いていた。
僧正が立ち止まる。
こちらに向き直り、しばらく考え込むようにしてから、口を開いた。
「濃き酒を亡びんとする者に与え、酒を心の傷める者に与えよ」
古めかしい言葉だ。
書かれた言葉を諳んじるような言い方だった。
「……かれ飮みてその貧窮をわすれ、またその苦楚を憶わざるべし」
「それは」
「あなたの世界の聖典の言葉ですよ。……こうしたものは、理の差を超えるのかもしれませんな」
それきり、僧正は口を噤んだ。
渉外僧のサーミルが、門の近くで待っていた。
次回は10/3(土)更新予定です。




