第50話 宇田川
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日曜日の昼下がり。雀荘『輪廻』。
触れただけで剥落しそうな漆喰壁。長年のヤニが染みて飴色に焦げた柱。
元は酒場だったのだろうが、今は古い手積み式の雀卓が並んでいる。
田村がやっている『パラダイス座』の並びにあった。
どういうわけか帰還不能者の気配が強い一角だ。
鰐淵から「卓を囲む面子が足りない」と呼び出しがかかった。
足を運ぶ気になったのは、やはり休日の無聊を持て余していたからだ。
麻雀は好きでも嫌いでもない。
学生のころに覚えて、会社の付き合いで何度か打った程度。
牌の種類と、何を揃えれば上がれるかくらいはわかる。
他の面子は赤肌の帰還不能者――顔を見たことはあるが名前は知らない――と、ナズィムだった。
最近、このヤポン由来の賭博にハマっているのだという。
自分の店は従業員に任せ、今日は朝から入り浸っているらしい。
「加藤さん、最近どうです?」
鰐淵が紫煙をほう、と吐き出しながら言った。
「何がだ」
「何でも」
生白い手が無造作に牌を切る。
この男は話しながらでも手が止まらない。
「景気とか。仕事とか。女とか」
「最後のは余計だ」
「そうですか」
対面でナズィムが鼻を鳴らした。
「カトウさん、最近ブルーシート売ってくれないからね。こっちは景気悪いですよ」
「あれは台風時の特別対応だ」
「また来ればいいのに」
「来てたまるか」
牌を引く。
使えそうにない。
端へ寄せていた一枚と入れ替えた。
「仕事なら、一つ片付いた」
「ほう」
「マハーラの案件」
鰐淵の手は止まらなかった。
「ああ、再生術の?」
何でも知っている。
驚く気にもならなかった。
「あそこの僧正は曲者という噂ですが」
鰐淵が牌を捨てる。
ナズィムが一瞬だけ河を見たが、何も言わなかった。
「よく、わからん」
灰皿に置いていた吸いさしを咥え直す。
ゆっくりと煙を肺に入れ、吐き出した。
再生手術から三日後、寄進の品の納品のため、マハーラ本院を訪ねたときのことだ。
僧正に呼び止められた。
『西の下院?』
『ええ。城壁外の。そちらに、ヤポンの方がお一人、寝泊まりをしておいでです』
『……日本人が』
『ええ』
『名前は』
『さて。皆、ヤポンと呼んでおりますので』
要領を得ない話だった。
『なぜ、それを俺に』
『ヤポンの会社に勤めておられたそうで。もしやお心当たりがあればと』
僧正は『ご縁は繋いでおくものです』と言って、例の胡散臭い笑みを浮かべた。
それだけの話だ。
「カトウさん」
痺れを切らしたナズィムの声。
見回すと、俺以外の三人がこちらを待っていた。
「カトウさんの番ですよ」
「……ああ」
慌てて不要な牌を切る。
「ロン!」
ナズィムだった。
「……あ」
ナズィムが嬉しそうに牌を倒す。
「カトウさん、今日は駄目ですね」
「そうみたいだ」
「仕事のことを考えながらやるからですよ」
「仕事じゃない」
「じゃあもっと駄目じゃないですか」
点棒を渡す。
鰐淵が薄く笑った。
「何か気になることでも?」
「……ん」
牌を裏返し、中央へ押し出す。
四人で混ぜる。
乾いた音が店内に重なった。
「城壁外のマハーラの下院に、日本人が一人住んでいるらしい」
「城壁外。レベル3スラムですか」
「知っているか」
牌を積みながら、鰐淵が答える。
「いえ。知りませんねえ」
「知らない?」
「そんなに意外ですか?」
鰐淵がようやくこちらを見た。
「帰れなくなっても生活は続きます。寝床を探す。飯を食う。円を銀貨に替える」
「それはそうだろう」
「どこかでは話を聞くものです」
「ワニブチさんの枝は広いからね」
ナズィムが混ぜ返すように口を挟んだ。
「ただ、レベル3スラムは少々、ね。加藤さん、行ったことは?」
「一度だけ」
「そうですか。無茶をしますね。もう驚きませんけど」
鰐淵は喋りながら牌を引いた。
一度だけ、指先で裏を撫でる。
それから、何でもないように一枚捨てた。
「反日組織が潜伏しているという話もありますし」
「私らだって、あそこは好んでは行きませんよ」
ナズィムが牌山に手を伸ばした。
「それこそマハーラの坊さん方くらいじゃないですかね」
ナズィムの言葉を反芻しながら、牌を捨てる。
「それ、ポン」
赤肌の男が初めて口を開いた。
「……あ」
「背中が煤けてますよ、加藤さん」
鰐淵が笑った。
* * *
麻雀は、半荘回して、鰐淵はもちろんナズィムにまでカモにされて終わった。
帰り道、頭の片隅で『ヤポン』の話が回り続ける。
場所がスラムというのは珍しいが、正体不明の日本人など旧帝都にはありふれている。
僧正はなぜ、その話をわざわざ俺に聞かせたのか。
食えない老人だ。何か理由はあるはずだ。
それと、鰐淵さえ知らなかったという事実を突き合わせれば、推測はできる。
会社からも日本人社会からも姿を消した男。
帰還不能者のコミュニティにさえ行き着かなかった男。
俺の知る限りでは、そんな人間は一人しかいない。
翌朝、事務所に出勤すると、ハシュラがナイリザの伝票チェックを受けていた。
「ハシュラ」
「ん?」
「マハーラの西の下院の場所はわかるか」
「わかるけど?」
「どんな場所だ。危険か」
鰐淵ですら尻込みする場所だ。流石に警戒もする。
それに、危険を押して行くような話でもない。
だが、ハシュラの回答は拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。
「寺の近くでしょ。あの辺ならさ、まあ治安はいいよ」
「治安がいい? スラムだろう」
「その中じゃ、ってこと。夜寝てて靴盗られないくらい」
「十分悪いな」
「おっさん基準だとね」
「案内頼めるか?」
「もち。行って帰って半日ってとこ」
ハシュラが片目を閉じてサムズアップをした。
どこでそういった仕草を覚えてくるのかわからない。
だが、そこでナイリザの物言いが入った。
「ちょっと。事務所を空ける気?」
「午後は私用外出で頼む」
「私用? レベル3のスラムの、しかもマハーラの寺に何の私用よ」
問い詰めるナイリザに、少し間を置いてから答える。
昨日から考えていたことだ。
「たぶん、そこに宇田川次長がいる」
* * *
スラムは西門から旧帝都南西にかけて、外壁に沿うように帯状に広がっている。
西の下院は南西の更に端にあるから、西門から行くとスラムを縦断しなければならない。
スラムは通りが狭くて車が入らない。
しかも、入り組んだ縄張りの隙間を縫うように進む羽目になる。
だから、マハーラの寺にだけ用があるなら、南門からぐるりと回るのが正解なのだという。
昼休憩の後。
ハイラックスを回し、南門を抜けた。
門を出た瞬間に、カーステレオにノイズが混じり、エアコンの風が弱まる。
ポスチュレートの変化が肌で感じられた。
「で、そのウタガワ? て誰?」
助手席のハシュラが口を開いた。
「俺の元上司だ」
「なんで会いに行くの? 義理? 借金?」
一瞬答えを探す。
義理も借金もない。
職務上の関係も薄い。直属の上司というには、職位が離れていた。
「今どうなっているのか、見ておくためだ」
「ふうん?」
ハシュラが、わからないまま流したような返事をした。
宇田川次長の耐性評価はA。
アンカー資格持ちだった。
そのせいで統括責任者なのに現場の面倒も見ていた。
変異にはかなり気をつけていたという。
だが、それは変異しない保証にはならない。
なぜ、帰任の内示で姿を眩ませたのか。
何か、後戻りのできない変異症状が出たのではないか。
そんな疑惑はずっとあった。
「あ、そこ右ね」
ハシュラの指示に従って、街道を逸れ、まばらなバラック群に踏み入れる。
進むほどにバラックの密度が上がり、建物と建物の間が路地の体を成していった。
行き交う人影が増え、猥雑な熱気を帯びてくる。
荷馬車の轍が見えるので、ハイラックスが進める程度の道幅はありそうだ。
徒歩と大差ない速度でゆっくりと車を進ませながら、ウィンドウの外を眺める。
正体不明の肉を焼く露店、泥濁りの酒を呷る男たち。そして、安っぽい耳飾りをジャラジャラと鳴らした女たち。
この辺りは、スラムの繁華街なのだ。
レベル2のニュー・エデンや夢幻楼のような、日本人の客を意識した小綺麗な設えなど何一つない。
人身売買の気配すら生々しく漂う、底辺の享楽が煮詰まったような場所だ。
だが、少なくとも取引がある、活気がある。
だから無気力と死臭が蔓延するスラムよりは、人が人の顔をしている。
これがつまり「まあ治安はいい」ということなのだろう。
その混沌とした通りの終点には、原色で彩られた紙提灯が並んでいた。
紙提灯の下を潜ると、奇妙な静けさを保った一角に出る。
「あそこだよ」
ハシュラが指さした先に、原色の色布を張り巡らせた木造の伽藍が見えた。
マハーラ教の下院だ。
門前には施療を待つ貧民や病人たちが列をなし、棍棒を持った屈強なオークの僧兵が、無表情に周囲を睨みつけている。
歓楽街の狂騒は、寺院の結界に阻まれるようにして、その門前でぴたりと途切れていた。
車を寺院の塀際に止める。
「んじゃ、あたしはここで番をしてるから」
「大丈夫か?」
「ここならね」
ハシュラがオークの僧兵を指さして言った。
「むしろおっさんの方こそ。揉めないでよ」
「人を探すだけだ」
車を降りて、ドアを閉める。
こちらをじっと見つめていた僧兵に近づき、声をかけ、「ヤポン」について尋ねた。
僧兵は黙ったまま首を振り、少し通りに戻った先にある酒亭の二階を指さした。
どの「ヤポン」かは聞かれなかった。
こんな場所にいる日本人は、本当に一人しかいないのだ。
酒亭に入ると、一階は昼間から客で埋まっていた。
圧迫感のある狭い階段を上がり、吹き抜けになった二階のテラス席へ出る。
乾季の強い日差しを避けるように幕が張られ、日陰に籐椅子が置かれていた。
腰掛け、あるいは寝そべる数組の男女。酒。水煙草の煙。
一番奥の席に、いた。
派手な原色のアロハシャツ。ハーフパンツにゴムサンダル。
例えばパタヤかアンヘレス。リゾートリタイヤを決めた中高年。
あるいは、沈没したバックパッカーといった装いだった。
雨季でもウィンザーノットを緩めない男だったのだが。
その隣には、親子ほども年の離れたダークエルフの少女がぴったりと寄り添っていた。
薄い布を巻きつけただけの扇情的な格好で、男の腕にしなだれかかる。
こちらの足音に気づき、男が気怠そうに顔を上げた。
「……誰だ」
眉根を寄せてこちらを見上げる。
「加藤です」
「……カトウ」
訝しむような白けた間をおいてから、すっと目が細まった。
「ああ! 加藤君か」
宇田川次長だった。
* * *
「どうしてここが分かったのかね? いやはや、驚いたな」
立ち上がり、笑みを浮かべる宇田川の顔を見返した。
服装こそ変わり果てたが、顔は同じだった。
髪。肌。耳。指。
服の上から目に付く範囲では、身体変異は見当たらない。
そのことに、拍子抜けしたような、妙な安堵を覚える。
「先に帰っていろ」
宇田川は帝国語で隣の少女にそう告げると、銀貨を二枚握らせた。
少女は宇田川の頬に口をつけてから、立ち上がる。
こちらを一瞥して、階段を降りて行った。
「何人か面倒を見ている……まあ、売られるよりはマシだろう」
宇田川は悪びれもせず言った。
「座りたまえ」
言われるまま、向かいの椅子に腰を下ろす。
宇田川は店員を呼び、酒をもう一杯注文した。
「会社では失踪扱いになっています」
「だろうな」
「探している人間も」
「いないだろう?」
言葉に詰まった。
宇田川が笑った。
「ははは。正直でよろしい」
卓上の木杯を持ち上げる。
「私はもう退職しているんだろう?」
「自然退職扱いです」
「なら何も問題ない」
運ばれてきた酒を店員が置く。
濁った琥珀色をしていた。
「生活は」
「見てのとおりだよ」
宇田川が両腕を広げる。
「足掛け五年も統括責任者をやっているとね。まあ、三回アーリーリタイヤしてお釣りが出るくらいは金が溜まる。ここは金さえ払えば神様扱いだ」
「日本租界には行かないんですか」
「あそこは駄目だ」
即答だった。
「あそこは、鰐淵のような連中の溜まり場だ。日本企業にツテをつないで、おこぼれに与ろうとするような。私はね、ああいう元エリートの落ちぶれた空気が耐えられんのだ」
「しかし、ここはレベル3です。治安も、ポスチュレートも」
「ここで快適に過ごすにはな。コツがあるんだよ」
宇田川はグラスの縁を指で叩き、したり顔で身を乗り出してきた。
「実はな、教団で寝泊まりをしている」
「マハーラの」
「そうだ。まとまった寄進をしてやれば、個室もくれるし用心棒もつく。下手に租界で借家を借りるよりも余程安全だ」
「信者になったんですか?」
「まさか」
宇田川が笑った。
「あれはな、加藤君。宗教というより、帝国の統治技術の一種だ」
聞き覚えのある調子になった。
商社の管理職らしい、物事を上から俯瞰したような言い草だ。
「魔力の有る者が、無い者を支配する。科学技術のないこの世界では、それが一番単純な権力になる」
宇田川は指で卓上に二層に分かれたピラミッドを描いた。
「エルフの魔法貴族が上。魔力を持たない大多数が下だ。当然、不満は溜まる。だが、マハーラの御名を唱えれば、魔力がなくても渦に繋がれる。渦に溶けて救われる。現世の格差をひっくり返すのではなく、有耶無耶にする。実に都合が良い」
そう言って、口の端を歪めて笑う。
「そんなわけだから、カーストの最下層ほど存外信仰が篤い。レベル3のどん詰まりでも、寺の周りだけは平穏というわけだ」
語り終えた宇田川が木杯を一気に呷った。
* * *
その後も宇田川は饒舌だった。
上機嫌という様子ではないが、不機嫌でもない。
話題は、現地についての淀みのない講釈が多かった。
窓の外を見ると、日射はすでに大分緩んでいた。
とうの昔に第二太陽は沈み、乾季の長い夕刻が始まっていたようだった。
そろそろ帰るか。
そう思い始めたところで、ふと、当たり前の疑問を口にしていなかったことに気づく。
「もう、日本に帰るつもりはないんですか」
問われた宇田川は、軽く面食らったような表情でこちらを見た。
「帰る?」
その言葉を口の中で転がすようにして続ける。
「帰って、どうする?」
「ご家族は」
「子どもの親権はあちらだ。問題ない」
あっさりとしたものだった。
かつて口にした『設定』を弥縫しようという素振りもない。
「息子ももう中学……」
言葉が止まった。
木杯の縁を指でなぞっている。
「娘。娘だったかな」
顔を上げた。
「まあ、同じ話だ。もう中学……高校だったか? とにかく、そろそろ父親はいらん年だ」
宇田川の顔を見返す。
耳も尖っていない。
肌の色も変わっていない。
影になってもいない。
ただ、世間話の延長で答えたような表情をしていた。
『小学生の娘がいるんだが、中学受験の予定でね』
ニュー・エデンで聞いた言葉が脳裏に浮かんだ。
だが、何かを指摘する気にはならなかった。
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
鞄を持ち上げ、頭を下げる。
「本日は、ありがとうございました」
「ああ。まあ、君もあまり根を詰めないことだ。言ったろう、加藤君」
窓の外。通りの紙提灯に灯が入り始めていた。
「ここは夢の国だよ」
* * *
夕方が終わる前に、日本租界に戻ってくることができた。
事務所に入ると、ナイリザが顔を上げた。
「いた?」
「ああ」
「生きてたのね」
「元気そうだった」
「そう」
それだけ言って、ナイリザは興味を失ったようだった。
自席に座り、PCを起動する。
私用外出とは言ったものの、失踪扱いの元統括責任者を見つけて、業務外というわけにもいかない。
メールソフトを開き、報告メールを打ち始める。
宇田川次長生存確認。
どこまで書くべきか少し迷ったが、結局、見た事実だけを並べた。
外形上、身体変異は見当たらず。
最低限のことだけ記載して、送信ボタンを押した。
あとは人事が必要な範囲で処理するのだろう。
そう思っていた。
だが、翌朝、受信トレイに届いていた返信は、予想外に長く、添付ファイルまでついていた。
宇田川の退職手続自体は既に完了しているが、一点だけ未処理のものがあったらしい。
退職金。
本人の所在不明により支払いができず、社内で保留処理になっていたのだ。
このまま本人が死亡したかどうかもわからない状態が続けば、失踪宣告だの相続だの、面倒な話になるところだったという。
長い説明を読み飛ばす。
要するに、宇田川本人の署名さえ取れれば円満に処理できるということらしい。
『つきましては、本人に受領意思を確認のうえ、添付書式への署名を取得願います。』
添付ファイルを開く。
表題は、『退職金受領確認書』だった。
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プリンターが紙を吐き出す音を聞きながら、昨日走った道を思い出した。
もう一度行け、ということだ。業務命令である。
次回は9/26(土)更新予定です。




