第49話 ハリール僧正
十三日後の朝は、久しぶりの雨だった。
城壁沿いの道は轍に水が溜まり、ハイラックスの底を泥が叩く。
助手席のナイリザは、来てから一度も口を開いていない。
膝の上に事務用の綴りを置いたまま、窓の外を見ている。
「……何か言ったらどうだ」
「何を?」
「日当二倍分の働きを期待してる」
「契約内容に『道中の雑談』は含まれてないわ」
巡礼道の入口に辿り着くと、そこには先着した外科チームのハイエースが二台停まっていた。
その隣にハイラックスをつける。
車を降りて本院を見上げると、色布は雨に濡れて重く、風もないのに垂れ下がっていた。
* * *
前回同様、渉外僧のサーミルが門前で待機していた。
こちらの姿を認めると、傍らの若い僧侶に二、三言耳打ちする。
若い僧侶が駆けて行ったあとを、ゆっくりと案内された。
中庭では今日も炊き出しが行われていた。
雨のせいか前回よりも人が減ったように見える。
だが、回廊の庇の下に、木椀を持った人間が壁沿いに折り返して並んでいる。
列の中に、松葉杖の男がいた。片脚がない。
その男を見て、ナイリザが小さく息を吐いた。何も言わなかった。
聖堂の扉を開けたところで、少しだけ面食らう。
無人の堂内で僧正が待ち構えていたからだ。
「これはこれはカトウ殿。本日はよろしくお願いいたします」
「……ええ、こちらこそ」
挨拶のあと、僧正は自然な動きでナイリザに体を向けた。
「サーリス・ナジュラ=キル」
そう呼びながら、何かを捧げ持つように両掌を天に向け、深く頭を下げる。
一瞬、空気が止まった。
「その名で呼ばないで」
冷ややかな声だった。
僧正は面を上げて目元を細めると、両手の指先同士を合わせて、今度は軽く頭を下げた。
「失礼しました。ナイリザ殿。本日はよろしくお願いいたします」
それだけだった。
僧正もそれ以上はナイリザに語りかけず、ナイリザも何も言わなかった。
「ささ、皆様お待ちです」
僧正の先導で控室のような場所に案内される。
外科医、麻酔科医、看護師計6名。患者はいない。
俺とナイリザが席に着くと、それを待っていたかのように、最後のメンバーが入室し、僧正の隣に座った。
スクラブ姿のエルフの女だった。
この女性が、再生魔術の使い手なのだろう。
髪を布で包み、マスクをしているため、顔はわからない。
四十代半ばくらいに見える。中背で、痩せていた。ほかに目を引く特徴はなかった。
全員が揃い、術前カンファレンスが始まる。
執刀医が図を出した。
腹部の断面図に、血管の走行が書き込まれている。
「肝は全摘します。ただし、肝門部の構造は残します。門脈、肝動脈、胆管、それぞれ断端を確保します。下大静脈は温存」
追随するように卓上のスマートフォンから帝国語が流れる。
だが、スマートフォンの翻訳が終わった後も、術者の女は困ったような顔をしたままだった。
ナイリザが口を開いた。
「肝臓そのものはなくすの。でも、身体が肝臓へ通じていた道は残す。管も、血の流れも、そのまま残す」
帝国語だ。
イヤーバッズを装着した医師たちが、ワンテンポ遅れて頷く。
「それで元の形を拾える?」
ナイリザが言うと、術者の女は顔を上げた。
「拾えます」
短く答える。
「空にした状態で待つ時間は、短い方がいい。日本側の医者はそう言っている」
「短くします」
それだけだった。
執刀医の二、三の確認を挟み、麻酔科医が導入の手順を説明し、退避のプロトコルを看護師長が読み上げた。
『術式移行』の号令で日本側は全員退室。
『邦人退避確認』の後、隔壁を閉鎖。
術者の入室は隔壁閉鎖後。
再入室は術者退室と隔壁再開放の確認後。
「守っていただけますか」
執刀医が僧正に言った。
「もちろんです」
僧正が答えた。
愛想笑いはなかった。
* * *
打ち合わせが終わり、手術着を渡される。
俺もナイリザも着替え、聖堂の奥へと移動した。
回廊の床が樹脂に切り替わる。
立会人の魔術師は退避室へ。
アンカーは手術室へ。
手術室に入り、所定の位置に立った。
麻酔器の隣。
床にはご丁寧に青いテープでアンカー立ち位置が示されていた。
「ここに立っていればいいんですね」
「はい。こちらの指示があるまで、そのままで」
看護師が答えた。
触らない。動かない。立っているだけ。
それだけで済むなら、楽な仕事だ。
手術灯が点いた。モニターの数字が並ぶ。日本製の機械が、日本の音を立てている。
患者が運ばれてきた。
六十二歳。
八千万円の喜捨をする男は、写真で見たときより痩せていた。
日焼けした顔に、点滴のラインが何本も走っている。
傍らに僧正と術者の女が立った。
どちらも手術着、サージカルキャップ、マスクを着用していた。
「お名前を」
僧正が日本語で告げた。
「……チェン」
患者が自分の名前を答えたようだった。
日本語が通じると聞いていたが、かすれていてよく聞き取れない。
「違います。御名を。マハーラ」
患者が困惑した顔をした。それから、思い出したように口を動かした。
「……マハーラ」
「はい。お唱えください。マハーラ。マハーラ。アル=サフィール」
「……マハーラ……マハーラ」
麻酔科医が傍らで器具を確認していた。
唱名を待つでも、止めるでもない。
「では、お薬が入ります。ゆっくり息をしてください」
麻酔科医の言葉が聞こえているのかどうか。
僧正の唱名に術者の唱名が重なり、それをうわごとのような患者の声が追いかける。
モニターの電子音は、一定の間隔で鳴り続けていた。
「……アル……」
唐突に患者の声が途切れる。
僧正と術者は、最後まで唱えた。
そして目配せをし合う。
「つながりました」
術者の女が答えると、僧正が頷いた。
二人はそのまま退室する。
入れ替わりに医師たちが所定の位置についた。
「入ります」
執刀医が言った。
* * *
そこからは、機械と刃物の無機質な時間だった。
執刀医の手が動き、電気メスの焼ける特有の臭気と、吸引器の規則的な水音が手術室を満たす。
じっと息を潜めながら、右足から左足へ、左足から右足へと体重を移す。
手術が順調なのかどうかもわからない。
誰も慌てていないことだけが頼りだった。
時間感覚が麻痺しかけた頃、助手がステンレスの角トレイを差し出した。
「全摘、完了」
トレイの上に、赤黒く、縮み、表面が凸凹に硬化した組織が置かれる。
「断端処理」
声が続く。
しばらくして、執刀医が顔を上げた。
「終了。術式移行」
その一声で空気が変わった。
慌てる者はいない。全員の動きが一斉に、迷いなく、別の作業に切り替わる。
器械が定位置に固定され、ラインが延長され、麻酔科医が最後にモニターを一瞥する。
「加藤さん、こちらへ」
看護師の声に応じて、青いテープの位置を離れる。
分厚い観察窓の向こう、術野のモニターが並ぶ観察室には、腕を組んだナイリザが立っていた。
「邦人7名。退避確認」
扉が滑り、重い音とともに閉じる。
閉じ切ったところで、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
ナイリザの隣に立って観察窓を眺める。
窓の向こうでは、手術着姿の術者が台の脇に立っていた。
同じく手術着姿の僧正は、術者の隣に助手のように並ぶ。
法衣姿のときよりも背が低く見えた。
術者は開腹部の上に手をかざした。
何も起きない。
「今、何をやってる」
小声で聞いた。
「探してるのよ」
ナイリザが答えた。
「何を」
「あの人の肝臓の可能性を」
囁くような会話だったが、静まり返った退避室では思いのほか響いた。
ナイリザの言葉に、医師の誰かが鼻を鳴らした。
しばらくの間、術者も僧正も微動だにせず、モニター越しの術野にも何も起こらなかった。
やきもきした空気が生まれてきた頃。
窓越しに手術室を眺めていたナイリザが、わずかに身を乗り出した。
直後、モニターの画像が乱れる。
横縞が走り、砂嵐になり、一瞬、黒く落ちた。
慌てて目を観察窓に転じるが、術者も僧正も変化はない。
分厚い隔壁越しのためか、肌が粟立つような感覚もない。
映像が戻る。
画面の中の術野に、赤黒いものがあった。
血管の束の先で、何かが膨らんでいく。表面が濡れて、滑らかな艶を帯びていた。
やがて、開腹部の窪みがそれで埋まった。
それだけだった。
術者が手を下ろす。
ふらり、と二歩下がったところで、膝が折れた。
すかさず僧正の手が伸びて、崩れる体を支える。
脇の下に肩を入れて、ゆっくりと引き上げる。
そのまま、矮躯で術者を担ぐようにして退室していった。
踏みしめるような、揺るぎのない歩みだった。
ただ、左足はほとんど引きずるようにして歩いていることに、その時初めて気が付いた。
手術室の扉が閉じると同時に、退避室の扉が開く。
「再入室。血流確認から」
執刀医の声は、さっきまでと何の違いもなかった。
* * *
閉腹が終わった。
器具の片づけなどに追われる医療従事者たちを残し、役目を終えた俺とナイリザは控室に戻った。
室内では、僧正が待っていた。
すでに法衣に着替えている。
「お疲れ様でございました。無事に済んだようで、何よりです」
「こちらこそ、お世話になりました」
促されて椅子に腰かける。
目の前に、僧正手ずから注いだ紙コップの茶が置かれた。
「術者の方は?」
「休ませております」
「倒れかけていたようですが」
「大きな再生のあとは、二週間ほどはまともに術を使えません」
紙コップを持ち掛けた手が止まった。
施術は一か月に一回。
予備日を組めたのではないか、そんな考えが咄嗟に浮かんだからだ。
表情には出ていなかったと思う。
だが、僧正は紙コップの茶を一服してから呟いた。
「何事も余裕は必要でしょう」
そして皺深い顔で笑った。
いつもの、胡散臭い笑みだった。
そして、ナイリザの方を向いて深く頭を下げた。
「本日はありがとうございました、ナイリザ殿」
「仕事だから」
「左様でしたか」
僧正はもう一度深く一礼した。
それ以上は、何も言わなかった。
* * *
雨は上がっていた。
ハイラックスで城壁沿いの道を戻る。轍の水たまりが、二つの太陽を映していた。
一仕事終えたあとだというのに、車中は行きよりも重い空気が漂っていた。
左手で煙草を取り出しかけたが、助手席の気配を伺ってダッシュボードに戻した。
ナイリザは窓の外を見ている。
「僧正と面識があったんだな」
「昔ね」
前方から杖をついた老婆が歩いてきた。
ハイラックスが見えないわけでもないだろうが、虚ろな瞳は、道の先、マハーラの本院だけを不乱に見つめているようだった。
轍を外れ、徐行で余裕をもって老婆を避ける。
「……避けたい相手だったか」
答えはなかった。
しばらく走ったところで、ナイリザが口を開いた。
「彼は、聖者と呼ばれていたわ」
何も言わず、続きを待つ。
「襤褸を纏い、貧者に施し、信仰に捧げていた」
遠い目だった。
金糸を重ねた法衣と、胡散臭い笑顔を思い出す。
「飢饉のとき、信徒を連れて東門の前で座り込んだこともあった。
乾季の盛り、熱風の中、毎日。城の穀倉を開けろと言って、動かなかった」
今の姿からは想像し辛い話だ。
元宮廷魔術師が言うのだから、事実なのだろう。
「彼が……変わってしまったからか?」
「違うわ」
探るような問いかけだったが、返事は硬かった。
ナイリザは窓の外を見ながら物憂げに言った。
「変わらなかったからよ」
* * *
翌日、統括オフィスから術後の報告が届いた。
経過良好。
現時点で変異兆候なし。
予定通りレベル1へ移送済み。
ようやく肩の荷が下りた。
次に添付されていた、入域関係の書類へ目を通す。
今回の精算に必要だという。
患者の氏名。生年月日。国籍。
耐性評価。
A。
もう一度見た。
耐性評価A。
アンカークラスだ。
「……おい」
思わず声が出た。
この男が手術室にいるだけで、日本の医療機器は動いたのではないか。
舌打ちしかけたところで、いや、と思い直した。
現実問題として、全身麻酔中のアンカー効果の安定性には疑問符がつくだろう。
だが、それならそれで事前に説明は欲しかった。
そんなことを考えていたところに、電話が鳴った。
事務所の固定電話だ。
「はい、ヤシマ」
『ああ、加藤さん? 技術試験隊の真鍋です』
受話器を持ち直した。
「……お世話になっております」
『坂崎さんに聞いたら、瀝青の取扱窓口はヤシマさんだって言うから』
「はい」
『製油所のサンプルで、面白い結果が出たんですよ』
「……はあ」
『軽質分。捨ててるでしょう』
「坂崎参事官からは、使えないと」
『普通はね』
電話越しにくぐもった笑いが聞こえた。
『条件次第では、結構いいのが取れます。内燃機にも回せるやつ』
「条件」
『教えてもいいですよ』
なるほど、と思った。
「……何が欲しいんですか」
『話が早いなあ』
真鍋の声のトーンが、わずかに低くなった。
ボールペンを手に取り、メモ帳を手繰り寄せる。
『再生術、昨日だったんでしょう?』
「ええ」
『術前・術後データ。可能なら術者周辺の環境計測。次回施術に観測班を一名でいいので立ち会わせてほしい。あと、術者本人への聞き取り』
目を閉じる。
ボールペンを放り出した。
「無理です」
『即答?』
「契約条項です。研究目的の接触及び観測は認められていません」
『触らないですよ』
「目的が研究です」
『固いなあ』
「契約なので」
受話器の向こうで、椅子が軋む音がした。
『……御社もですか』
独り言のような呟きがすべてだった。
教団との接点。再生術を依頼できるという実績。
大金はかかるが、重要なのは金で買えるということだ。
自衛隊の顔色をうかがうために差し出すには重い。
おまけに、契約上の義務というエクスキューズまで用意されている。
利用企業に端から声をかけて、どこからも断られているのだろう。
『参ったなあ』
「そんなに調べたいものですか」
『そりゃ調べたいですよ』
真鍋の声が急に高くなった。
『臓器が一個生えるんですよ?』
それは、そうだ。
『界差を観測したら、凄い数値が出るはずなんですよ。安全性評価のためって言えば、御社としても断りづらいと思うんだけどなあ。実際、危ないんだから。あれ』
「僧正には」
『言いましたよ。何度も』
前回、真鍋を本院で見かけた理由が分かった。
『進出企業とのお付き合いを理由にされると、こちらも弱い。何も手荒な真似をしようってわけじゃない。数値を取らせて欲しいだけなんですがねえ』
言葉どおりに受け取るかはともかく、真鍋の憤りには筋が通っているようにも思える。
安全のため。
調査し、測定し、使用条件を洗い出す。
しかし、わかれば効率利用をしたくなる。二週間で戻るならと、スケジュールを組む。
予備日を組めるのでは。
俺もそう思った。
『まあいいや。軽質分の話、また今度』
「それは坂崎……」
『次の交渉材料に取っておきます』
切れた。
ツーツーという無機質な電子音を聞きながら、受話器を置く。
溜め息をひとつついてから、手元の納品書を持ち上げた。
銘柄まで指定された粉ミルク。
渉外僧のサーミルの受領サインが入っていた。
何が変わり、何が変わらなかったか。
向かいで電卓の音が止まった。
「何?」
いつの間にか、ナイリザを見ていたらしい。
「いや」
ナイリザは少しだけ次の言葉を待った。
俺が何も言わずにいると、そのまま伝票へ目を落とした。
納品書を帳簿に戻す前に、粉ミルクの品番を仕入先の在庫表に控えた。
また次の機会もあるだろう。
次回は9/19(土)更新予定です。




