【幕間】 随意契約
現地連絡調整室の執務室には、机が三つある。
そのうち二つは人間用だった。
残る一つは、坂崎が着任した翌年に特注されたものだ。
天板は一回り広く、脚は補強され、椅子は業務用というより工場設備に近い。
それでも、二メートルを超える巨体で書類に向かうと、どこか子供用の学習机に座っているように見えるらしい。
本人にはわからない。
人間用の机は、長いこと一つしか使われていなかった。
残る一つに主が就いたのは、二週間前のことだ。
「参事官、苦情の集計が出ました。東三区から六件、南二区から十一件、それと――あっ」
紙の束が滑った。
新任の伊藤事務官が、床に膝をついてA4を掻き集める。
後頭部で結んだ髪が振り子のように揺れた。
坂崎は椅子を軋ませて立ち、机の下まで滑り込んだ一枚を拾い上げた。
緑色の大きな掌の上で、A4の紙は葉書ほどに見える。
「す、すみません」
動揺した伊藤が勢いよく頭を下げる。
ポニーテールが跳ね、拾い集めた書類が再び手元からこぼれた。
坂崎は特に苛立ちも見せず、新たに散らばった書類を手早く拾い集めると、伊藤に手渡した。
「続けてください」
「は、はい……ええと、東三区から六件、南二区から十一件、南四区は共同水場の管理人から一件です。
……あ、すみません。南二区じゃなくて南三区でした」
「内容は」
「水が来ない、と」
坂崎は手元の報告書から顔を上げた。
「ポンプは稼働しておりますな」
「はい。昨日の揚水量は計画値の一〇八パーセントです。貯水槽の水位も上がっています」
「では水はある」
「あるんですが、来ないそうです」
伊藤は困った顔をした。
話を聞けば、仕組みは単純だった。
深井戸から汲み上げられた水は、旧帝国時代の貯水槽へ入る。
そこから先、各地区へ延びる導水路と水汲み場には、それぞれ管理者がいた。
降雨魔術が失われて十年。
乾季には水路はほとんど涸れる。権利だけが紙と口約束の上に残った。
その水路に、いま水が戻りつつある。
しかし水門は開かない。
「管理者がわかってるところには、聞き取りに行ってきました」
伊藤がメモ帳をめくる。角が折れて膨らんだメモ帳だった。
「皆さん、開けていいのかわからないそうです。あの水はヤポンの管理本部の水だから、勝手に流して咎められないか、と」
「ほう」
「その、けっこう怖がられてます。うち」
「結構なことです」
「え」
「恐れていただいている分には、話が拗れません」
伊藤は少し考えてから、真顔で頷き、メモ帳に何か書きつけた。
何を書いたのかは、わからない。
「この件、どのファイルに綴じましょう」
「原油案件の続きです」
「お水ですけど」
「原油案件です」
* * *
坂崎は机上の電話に手を伸ばした。
ヤシマ・コーポレーション。
加藤課長代理。
現地側との調整が要る案件なら、まず頭に浮かぶ名前だった。
指が受話器に触れたところで、止まる。
加藤に頼めば、水は流れるだろう。
おそらく今より早く、今より円滑に。
基本的には望ましい。しかし、管理本部がそれをやるべきかどうかは別問題だ。
それに、最近は少々頼み過ぎている。
坂崎は受話器から手を離した。
「ヤシマさんですか?」
「いえ」
改めて受話器をとる。一瞬の逡巡のあと、別の番号を押した。
呼び出し音が三回。
『はい。鰐淵でございます』
「坂崎です」
一拍、沈黙があった。
『……これは珍しい』
「少々、調べ物をお願いしたく」
『加藤さんではいけないんです?』
坂崎は電話機を眺めた。
「今回は、あなたにお願いしたいのです」
『それはそれは』
受話器の向こうで、声が笑った。
『とうとう私も政府御用達ですか』
「そういう整理にはなりません」
『残念』
* * *
三日後。
鰐淵は、厚さ三センチほどのファイルを一冊持って現れた。
「いやあ、面倒でしたよ」
黒いスーツ。黒いネクタイ。相変わらず、葬儀の帰りに寄ったような格好だった。
「旧帝国の水利というのは、なかなか味わい深い。土地の所有者と、水門の管理者と、水を売っている人間が、全部違うんですから」
鰐淵がファイルを開く。
地図。
家系図。
名前の横には、簡単な人物評まで書き込まれている。
「この堰は旧帝国の帳簿ではルファーン家の名義で登録されている。しかし、ルファーン家は三十年前に絶えています。
管理しているのは分家筋の三兄弟。水売りは別の商人に委託」
ページをめくる。
「こちらの水門は五家の合議制なんですがね。十年のあいだに二家が絶えて、一家は権利を質に入れました。
質は流れて三回転売されている。残った二家は反目し合っている」
さらにめくる。
「権利者に数次の相続があって、相続人は二十七人、うち十一人は所在不明、なんていうところも」
そして微笑とともに最後のページを開いた。
「現時点で権利を主張している、またはその可能性のある人物のリストです」
リストは長大だった。
「多いですね」
「ええ。ですが皆さん立場は異なります。力関係も一様ではありません。半分くらいは『整理』できそうですよ」
坂崎の目がリストを追う。
貴族。寺社。街区の寄合。権利者が個人であっても、背景には必ずそうした団体が絡んでいる。
帝都ではそうやって希少資源である水を管理してきたのだろう。
「こちらで一案、作ってみました。管理本部のお墨付きがあれば、協力的な方たちだけを残せます」
「素晴らしい」
別のファイルを取り出そうとした鰐淵の手を坂崎が制した。
「ですが、不要です」
鰐淵の笑顔が、そのまま固まる。
「……どこが?」
「この中の誰を権利者と認め、どれだけ水を流すか。
行政がそこに手を突っ込むということは、つまり、裁定です」
「はあ」
「管理本部は現地中間団体の裁定はいたしません。それは統治ですから」
坂崎はぬっと手を伸ばし、最初のファイルだけを引き寄せる。
「調査結果は大変すばらしい。ありがとうございました」
「いやいや。ちょっと待ってくださいよ。私、結構頑張りましたよ?」
「承知しております」
「もう少しこう……使えるところだけ使うとか」
「どこを使っても裁定になります」
坂崎の言葉に、鰐淵は嘆息して天井を見上げる。
「……加藤さんなら使いますよ、これ」
小声で呟くと、ちらと坂崎の方をみやった。
「でしょうな」
坂崎は淡々と頷く。
「ですから今回はお願いしなかったのです」
「……なるほど」
少しだけ恨みが混じった「なるほど」だった。
鰐淵は取り出しかけた提案ファイルを鞄にしまい、腰を上げかけ、そして、思い直したように座り直した。
「で、どうなさるんです。裁定しないで」
「随意契約を持ちかけます」
「随意契約」
「あなたの調査で判明した、権利者たる可能性のある方、全員に」
「全員」
鰐淵は繰り返した。
「二十七人に増えた相続人も」
「全員です」
「質流れの帳面上の持ち主も」
「全員です」
沈黙があった。
それから、鰐淵の目がゆっくりと細くなった。
「……ああ、なるほど」
今度の「なるほど」には、恨みも驚きもなかった。
「調査業務はここまでで結構です。請求書は月内に回してください」
「ええ、ええ。お役に立てて何よりです」
鰐淵は妙に機嫌よく帰っていった。
* * *
「随意契約って、何の契約ですか」
伊藤が通知文の下書きを持って立っていた。
「水の売買です」
「誰が売るんですか」
「権利者の皆さんです」
「誰が買うんですか」
「当室です」
伊藤は手元の下書きと坂崎の顔を、二往復した。
「……買うんですか。うちが汲んだ水を」
「買うんです」
「汲んだのに」
「買うんです」
通知文の要旨は三行で足りた。
貴殿が水利権者である可能性に鑑み、ご連絡差し上げます。
貴殿が管理する堰、導水路等を経由し、指定の共同水場に到達した水を、時価にてお売りいただきたい。
数量の定めはなし。
「上限は書かないんですか」
「書きません」
「同じ堰に権利者が三人いるところがありますけど。三人全員に送るんですか」
「送ってください」
「揉めるのでは?」
「揉めるでしょうな」
「いいんですか」
「水利権者間の紛争は、当室の所管外です」
伊藤は真顔で頷き、メモ帳に書きつけた。
所管外、と口の中で復唱する声が聞こえた。
「伊藤さん」
「はい」
「本件は長引きます。今日は定時で上がってください」
「まだ十四時ですが」
「では、定時までで」
* * *
初日、申込はゼロだった。
二日目もゼロ。
三日目に、一件来た。
「売主、ルファーン家分家。三名連名です。それで、あの、代理人の欄なんですけど」
伊藤が申込書を差し出す。
代理人氏名、鰐淵。
「この方、先週まで、うちの調査を」
「そうですね」
「いいんでしょうか」
「買ってください」
水が銀貨に変わった、という話は、水よりも速く流れた。
翌日、各所の水門が開き始めた。
乾季の通水は十年ぶりだという。
「開けていいのかわからない、と怖がっていた皆さんは」
「売り物なら流せるそうです」
「そうですか」
申込は日を追って増える。
増えると同時に、値が動き始めた。
「南三区、昨日の一・八倍です」
伊藤が報告書を読み上げる。
「東三区は」
「二・一倍」
「買ってください」
伊藤が顔を上げた。
「買うんですか」
「渇水対策用の生活用水です。必要量を確保してください」
「昨日までの倍ですよ」
「予算は」
「まだあります」
「では問題ありません」
翌日。
「南三区、三倍になりました」
「買ってください」
「東三区も三倍です」
「買ってください」
「西一区は四倍を提示しています」
「必要量は」
「まだ足りません」
「では買ってください」
伊藤は手元の紙を見つめた。
「……価格交渉は」
「不要です」
「不要」
「交渉している間、水は増えません」
坂崎は決裁書に判を押した。
買い上げた水は、各地区の共同水場で無償配布させた。
水利権には触れない。
水売りを禁止もしない。
価格統制もしない。
ただ買う。
必要なだけ。
* * *
「参事官。予算が、そろそろ厳しいです」
「では作りましょう」
「作る」
坂崎は受話器を取り、番号を押した。
「――ああ、どうも。管理本部現地連絡調整室の坂崎でございます。ご無沙汰しております。
ええ、その渇水の件で。このたび地域安定化協賛金という枠組みを設けまして、進出企業の皆様にご協力を仰いでおります。
……いえいえ、あくまで任意です。……ええ、任意で。……ああ、それとは別件ですが、御社のレベル三出入域許可、更新が来月でしたな。……ええ、別件です。まったくの。
……ほう、それはそれは。ご英断に感謝申し上げます」
受話器を置く。
三十分後、任意の協賛金が振り込まれた。
「次はどちらに掛けるんですか?」
「全社です」
坂崎は進出企業の一覧を机に広げた。
電話は夕方までかかった。
どの社も極めて協力的だった。
「集まりました。……こんなに、いいんでしょうか」
「任意の御厚意ですので」
伊藤は集計表を見て、それから坂崎を見た。
「あの。現地の方には言い値で買うのに」
「はい」
「日本の会社には、その、任意で」
「進出企業は当室の所管ですので」
伊藤は真顔で頷き、メモ帳に書きつけた。
所管、と復唱する声が聞こえた。
* * *
申込みを受けた端から買い取り、確保した水を流す。
確保量、供給量とも足りているか。
地区ごとの状況を整理した報告書が坂崎に集まる。
「マハーラ教団管理の共同水場だけ、価格が上がっていません」
「ほう」
坂崎は報告書を右から左へ読み流しながら答えた。
「あちらの僧正猊下は、随分と金に細かい方だと聞いておりましたが」
伊藤が首を傾げる。
「そうなんですか」
「世評では」
「じゃあ、いい人なんですね」
「さて」
坂崎は報告書へ視線を戻した。
「では、そのままで」
次の報告書に伸ばした手が一瞬止まる。
「東二区」
「ああ、お風呂屋さんがあるとこですね」
「浄土湯です」
「そんな名前でしたっけ? このあたりは確保量供給量とも問題なしです。お風呂屋さんも営業を続けています」
「そうですか」
坂崎は小さく頷いた。
「続けてください」
「はい。次は南四区……あのう、これはなんと言ったらいいか。新規の売却申込が十二件ありまして」
伊藤が言い淀んだ。
「それが、配給用のポリタンクのまま持ち込まれてます」
「うちのタンクですか」
「うちのタンクです。管理本部の刻印が入ってます。今朝、南四区の共同水場で配ったばかりのものかと」
坂崎は報告書を受け取った。
揚水ポンプが汲み上げ、貯水槽に溜め、権利者の導水路を通し、金を払って買い上げ、共同水場で無償で配った水。
それを汲んで、並び直して、売りに来ている。
「買ってください」
「確保量には」
「入れないでください。増えてませんので」
「でも、買うんですか」
「買ってください」
伊藤はしばらく黙っていた。
それから真顔でメモ帳を開き、少し考えて、何も書かずに閉じた。
* * *
月が変わる前に、製油所の月次確認を行う。
揚水ポンプのフル稼働で消費が早い。
製油所が止まればポンプも止まる。
検問所の隣。
トタン壁の腐食は、先月よりまた進んでいた。
土瀝青を炊く重い臭い。油と、金属と、熱を持った機械の臭い。
検問所の側には、自衛隊の車列が並んでいた。
管理本部のやり方を快く思っていない組織であることは、書面の端々から伝わってくる。
こちらを止めることはない。
ただ、返答は遅く、文面は慇懃で、判は重い。
武装して、鬱屈して、動かない。
だから管理本部側も極力近づかない。それだけだ。
坂崎は稼働記録を繰りながら施設を回る。
そして、作業台の前に制服姿を認めた。
技術試験隊の真鍋二等陸佐だった。
いつ入ったのか。
設備担当者に目をやると、担当者は青い顔で首を振った。
「ああ、どうも」
真鍋は一瞬ちらと振り返っただけで、視線を作業台に戻した。
作業台には小さな採取瓶が並び、その一本一本に、胸ポケットから出した計器を近づけている。
「真鍋二佐。何か問題ですか」
「いえ。データをいただけないかと思いましてね」
真鍋は紙を一枚差し出した。
蒸留温度。収率。各留分の比重。稼働時の越界障害の記録。
一通り目を通す。
「本設備は現地事業者との共同事業ですので、操業データは当室の判断では提供できません。必要でしたら、正式に照会してください」
「正式照会は三週間かかるんですよ」
「では三週間後に」
「三週間後だと、条件が変わっちゃうんだよなあ」
何の条件かは言わなかった。
坂崎も聞かなかった。
聞けば、付き合いが始まる。
真鍋は諦めたように瓶の列へ視線を戻した。
そして、端に置かれた琥珀色の液体の瓶を持ち上げ、光に透かした。
「これは?」
「軽油を取るときに出る軽質留分です」
設備担当者が答えた。
「今は使い道がなくて、まとめて処分してます」
「へえ」
真鍋は瓶に計器を当てた。
針を覗き込んで、少し笑った。
何がおかしいのかは、わからなかった。
「これ、一本もらっていいです?」
坂崎は設備担当者を見た。設備担当者は慌てて首を縦に振る。
「用途は?」
「試料です」
「採取量は」
「五百もあれば」
「ならば結構です。記録は残します」
担当者が用意した試料採取記録用紙を真鍋に差し出す。
真鍋が書き、担当者が確認し、坂崎が判を押した。
十秒で終わった。
真鍋は瓶を布に包んで胸に抱え、来たときと同じように、いつの間にかいなくなっていた。
* * *
三日後。
「必要量、確保できました」
伊藤が言った。
「全地区です」
「では、買い上げを終了してください」
「今日から、ですか」
「今日からです」
「昨日、五倍を提示してきたところもありますが」
「もう必要がありませんので」
伊藤は一瞬、口を開けたままになった。
「……わかりました」
その日の午後、鰐淵がふらりと現れた。
今度は何の書類も持っていない。
「景気がいいですね」
「何のことでしょう」
「水ですよ。管理本部が言い値で買ってくれると、ちょっとしたお祭りでした」
「必要量を確保しましたので、本日で終了しました」
「あら」
鰐淵の笑顔が、少しだけ引きつった。
「もう?」
「はい」
「随分、急ですね」
「必要がなくなりましたので」
「昨日のうちに、もう少し仕込んでおけばよかったなあ」
坂崎は顔を上げた。
鰐淵も坂崎を見返す。
沈黙。
「鰐淵さん」
「はい?」
「最後に五倍を提示してきた水利権者ですが」
「ええ」
「あなたが最初に持ってこられた調整案にも、名前がありましたな」
「ありましたかねえ」
「ありました」
「偶然でしょう」
坂崎は鰐淵の顔を眺めた。
能面のような笑顔。
「……まあ、構いません」
「いいんです?」
「必要な水は確保できました」
「加藤さんなら、もう少し怒るところですよ」
「でしょうな」
坂崎は小さく笑った。
「私は加藤さんではございませんので」
「それは、この半月でよくわかりました」
* * *
坂崎は決裁済みのファイルを閉じた。
渇水対策費の執行額だけが、予定より大きく膨らんでいた。
伊藤が新しいファイルを差し出す。
表紙には、丸みのある字で、
『生活用水緊急買上げ実績』
と書かれていた。
「参事官」
「はい」
「来月も同じことになったら、どうします」
坂崎は少し考えた。
「来月の予算で買いましょう」
伊藤は真顔で頷き、メモ帳に書きつけた。
来月の予算で買う、と復唱する声が聞こえた。
次回は9/5(土)更新予定です。




