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第46話 メンタルヘルス

 東門を抜け、レベル1に向けてハイラックスを走らせる。


 葛原と押し問答している時間はなかった。

 とにかく容体が安定しているうちに、レベル1まで運ぶ必要がある。

 界差への曝露が続く限り、いつ変異が再発するとも限らない。


 瀬戸をハイラックスで搬送することになり、葛原は何も言わずに同乗した。


 バックミラー越しに後部座席を見る。

 瀬戸はうな垂れたまま微動だにしない。顔は見えない。

 付き添う葛原の様子からすると、眠ったまま、異変はないようだ。


 窓の外は大きく傾いた第一太陽で、濃い朱の色に染まっていた。

 第二太陽はとうの昔に沈んでいる。


「加藤ちゃんには言ったことあったかな」


 葛原がだしぬけに呟いた。


「俺さ、患者の遺族に訴訟起こされて、負けてこっち来たんだよね」


「……噂では」


 ナイリザから聞いた。

 自分から、『殺人医』だと言っていたと。


 医療事故を起こした医師の自虐的自称だったか。


「『患者の死に対する過失は否定できない』んだと。いろいろ理由がついて、賠償額自体は少額だった。全額、医賠責から出た」


「……」


「けどね……そういう問題じゃないんだよ」


 地面が舗装路に切り替わった。

 エアコンの勢いが増す。

 電装系が一気に本来の性能を取り戻したように感じる。

 レべル1が近い。


「法律はクソだ。あれは責任を押しつける順番を決めるだけのもんだよ」


 葛原は独り言のように言った。

 そこで会話は途絶えた。


 やがて、レベル1を囲うフェンスの前までたどり着く。


 検問所は、沈みかけた夕陽を受けて影絵のように暗かった。

 深緑の人影たちが検問の閉鎖の準備を進めている。


「搬送だ! 通してくれ!」


 サイドガラスを下げて声を張り上げる。


 近づいてきた人影は、見知った顔だった。

 以前ブルーシートの検問で荷台を検めた、あの若い自衛官だった。

 向こうも覚えていたらしく、小さく会釈をしてから、駆け寄ってくる。


「ヤシマさん? 今からの入域手続はちょっと……」


「指定医の葛原だ」


 葛原が後部座席から身を乗り出し、食い気味にIDカードを呈示して言った。


「急患だ。現地薬物の急性中毒」


 若い自衛官の表情が変わった。

 サイドウィンドウから車内を覗き込み、懐中電灯で後部座席を照らす。

 電灯の光が、瀬戸の寝顔の上で止まった。


「……変異兆候は?」


 事務的な確認の声。

 ハンドルを握る手に汗が滲む。


 バックミラー越しにちらと葛原を見た。

 表情まではわからない。ミラーに映った口元だけが動いた。


「見ての通りだ。出ていない」


 葛原が答えると、若い自衛官はさっと身を引いた。


「失礼しました。通過、問題ありません。お大事に」


 その言葉に、ゆっくりとハイラックスを発進させる。

『変異兆候者の即時申告義務について』。

 そう書かれたポスターの前をゆっくりと通り過ぎた。


 振り向くと、若い自衛官が、まだじっとこちらを見つめているような気がした。


 検問を抜けきったところで、肺から息を吐き出す。

 ハンドルを握り直した。

 葛原に礼を言う。


「恩に着る」


 葛原はシートに背を預けたまま、俺の言葉には反応しなかった。


「二区の医療棟に回してくれ。裏口の方に」


 瀬戸を見つめたまま、ぞんざいに言った。


 * * *


 医療棟の裏口では、既に職員が待っていた。


 書式の挟まったクリップボードが差し出され、葛原が手早くペンを走らせる。

 そして、書き終わったボードを突き返すと、内容を突き合わせるように、職員に口頭で申し送りを始めた。


「静謐香の経口摂取。量と常用期間は不明。急性高熱と解離症状。ミダゾラムで鎮静、酸素投与中。変異固定所見は現時点で認めない」


「現地薬物ですね。隔離病床ですか」


「一般観察でいい。ただし魔素代謝の検査は一式。内地搬送を前提にして」


「承知しました」


 それだけだった。

 瀬戸を乗せたストレッチャーが、自動扉の向こうへ消えていく。


 一般観察。内地搬送を前提に。

 葛原が口にした言葉を、文字に変換して反芻していると、葛原が顎でしゃくるようにして奥まった一角にあるスペースを示した。

 待機所のような一角で、自動販売機とソファーが一脚置かれていた。


 ソファーに腰を下ろす。

 リノリウムの床に安いビニール張りのソファー。

 そこだけ見るとまるで日本の病院に来たようだった。


 葛原は自販機に向かった。ガチャン、という音が暗い待合所に響く。

 そして俺の隣に座ると、買ったばかりの缶コーヒーのプルタブを開けた。


 無言でコーヒーを嚥下する葛原に向き直り、頭を下げる。


「すまない」


 それだけ伝えた。


「……俺は嘘は言っていないよ。『変異固定所見は現時点で認めない』。事実だ」


 だが、急性変異症状については申し送りしなかった。

 それがすべてだろう。

 葛原はため息をつきながら言った。


「ここで再発したらどのみち収容だしね。あとは本人次第だ」


「ああ、十分だ。ありがとう」


「……ふん」


 そこで会話が途切れ、再び沈黙が戻った。


 組んでいた手を開き、両掌をじっと見る。

 瀬戸を押さえつけたときの熱を思い出した。

 かえりたい。その言葉が頭の中をぐるぐると回り出す。首筋を汗が伝う。


 葛原が口を開いた。


「あそこまで急なのは、俺も初めて見たよ。静謐香を相当量入れたんだろうな」


「……そうか」


「定期検査のときには所見がなかった。溜まっていたのかもな。なんにせよ間に合ってよかった」


「そうだな」


 緊張が抜けた弛緩と疲労感が言葉を軽くしているのかもしれない。

「溜まっていたのかもな」。

 妙に耳に残る言葉だった。

 葛原がさらに何か口を開こうとしたところで、ソファーを立ち上がる。


「加藤ちゃん?」


「お手洗いに」


「ああ、トイレならそこを曲がったところよ」


「どうも」


 角を曲がろうとした背中に、葛原の声がかかった。


「案外、冷静だねえ」


 返事はしなかった。

 男性用を示す青いピクトグラムの付いた扉を開け、後ろ手に締める。


 そのまま用は足さず、洗面台の前に立った。


 鏡を見る。

 髪に隠れた耳の先を左右それぞれ確認した。尖ってはいない。

 肌も日本人の色をしている。

 口を開き、歯を見た。

 犬歯も伸びていない。舌の形も変わっていない。


 わかりきったことを一つずつ確認した。


 そして、蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。

 濡れた指先をじっと見る。

 火花は出ない。ただ、少しだけ震えが出ていた。


 冷静なわけがない。

 田村、坂崎、変異した人間は何人も見てきた。

 だが、今まさに人間の形を失いかけている者を目の当たりにしたのは、初めてだった。


 顔を上げる。

 鏡の中には、見慣れた、ありふれた、中年間際の日本人の男が映っていた。


 健康診断問題なし。定期検査も身体所見なし。

 だが、それは瀬戸も同じだった。


 首もとに、じんわりと汗が浮く。


 洗面所を出ると、ちょうど葛原が、同じように白衣スクラブ姿の若い男と立ち話をしていた。


 若い男はここの医師だろう。

 葛原の言葉に真剣に耳を傾けていた。思ったより丁重に扱われている。


 会話はすぐに終わり、若い男は奥へと下がっていった。


「加藤ちゃん」


 振り向いた葛原がこちらを呼び寄せる。


「今のは」


「ここの医師ね。瀬戸くんの様子は安定しているみたいよ」


 現実に引き戻される。

 瀬戸もまだ、再発や収容の可能性が消えたわけではない。

 なのにもう自分のことに意識が向かっていた。


「俺はもう少し残るわ。正式な書類も書かないとだし、明日の内地搬送まで見届けるよ。加藤ちゃんは帰っていい」


「……ああ。瀬戸を頼む」


「それが仕事だからね」


 言われるままに立ち去りかけたところで、振り返る。


「先生」


「何」


「何も出ていなくても、進んでいることはあるのか」


 葛原は怪訝な顔をした。

 質問の意味を確かめるように、しばらくこちらを見る。


「あるよ」


 あっさりと言った。


「検査で見てるのは、今、測れる範囲だけ。身体所見が出る前に、精神変容だけ進行することは珍しくない。それである日いきなり、ってこともある」


「そうか」


「ただ、今日のを自分に重ねる必要はないよ。瀬戸くんは薬を使った。加藤ちゃんは使ってない」


「原因が違うだけだ」


「まあね」


 葛原は否定しなかった。


 * * *


 駐車場に戻ったところで、携帯が鳴った。城島だった。


『いやあ、大変だったみたいですね。医務室から一報入りまして』


「悪かったな。面談の途中で」


『機器不良じゃ仕方ないですよ。レベル2ですし』


 含みのない声だった。


『それで、瀬戸くん、なんでも急性中毒?』


「現地では広く流通しているものらしい。用法を誤った」


『ああー……はいはい。ありますよねえ、そういうの』


 城島の声が、慣れた書式に流し込むような調子になった。


『八か月で現場は、やっぱり早かったですかねえ。研修一年に戻すのかなあ。どっちにしても部長は渋い顔ですよ。増員の件は、まあ、白紙ですね』


「そうか」


『しばらくはまた加藤さんお一人で回してもらうことになると思います……いやあ、丈夫な人がいてくれて助かりますよ、ほんと』


 短い通話だった。

 終えたところで、襟回りが嫌な汗で濡れていることに気づいた。


 携帯の画面を確認すると、城島の携帯や統括オフィスからの大量の着信履歴が残っていた。


 ハイラックスに乗り込み、発進させる。


 検問はあっさりと通過した。

 時間外とはいえ、出るときは入るときほど厳しくは見ないのかもしれない。

 どんなやりとりをしたかは覚えていない。


 15分ほどで東門を潜り、日本租界に戻った。

 あたりは既に暗い。

 事務所が立ち並ぶ一角は灯りも少なく、日本の感覚では深夜のような静けさだった。


 ほどなくして事務所に到着する。

 事務所前に車を停めた。


 ドアを開けて降りようとしたが、開かない。


 ロックを確認したが、解除されている。

 もう一度レバーに手をかけるが、やはり開かなかった。

 見ると、自分の手が震えていた。まるで力が入らない。


 両手を体の前に抱え込み、ゆっくりと数を数えた。

 少しだけ震えがマシになる。

 シートにもたれていた背中は、流れた汗でびしょ濡れになっていた。


 再々度、レバーに手をかける。今度はドアを開けることができた。


 ハイラックスを降りる。


 ガレージのシャッターは閉まっていた。ハシュラは不在か、もう寝ているのか。

 事務所の母屋を見上げると、二階にはまだ灯りがついていた。


 ナイリザはまだ退勤していなかったようだ。

 灯りに吸い寄せられるように、母屋の中に入り、階段を上がり、二階の事務所の扉を開ける。


「おかえり」


 白色LEDの灯りの下、ナイリザが自席に座って、普段の顔つきでこちらを見ていた。


 それを見ただけで、一気に肩の力が抜けた。


 ナイリザは老眼鏡を外して眉間を揉む仕草をした。

 デスクに広げた帳簿を閉じて立ち上がる。


「どうだった?」


「メンタルヘルスで通した。明日、内地へ送る」


「そう。こっちはオフィスから鬼のように電話がきたりで大変だったけど……」


 デスクを回り込んだナイリザが目の前に立った。

 腕を組み、不機嫌そうな、つまり、いつもどおりの表情を浮かべていた。


「よかったわね」


「ああ」


 返事をしたつもりだったが、声になったかはわからない。

 気づいたときには、ナイリザを抱きしめていた。


 自分でも加減がわからなかった。細い身体が腕の中で固まる。

 ナイリザは驚いたようだったが、振りほどかなかった。

 理由も聞かなかった。


 しばらくして、俺の背中に手を添えた。

 それだけだった。


「ナイリザ」


 震える自分の体を引きはがして、ナイリザの手を取った。

 白く、細い指。

 手のひらを、自分の頬へと押し当てた。


「俺はまだ人間か」


 ナイリザは答えなかった。


 頬から耳、顎へ、指先がゆっくりと動く。

 何かを測るような手つきだった。

 最後に顎へ指をかけて、名残を置きながら、低い声で囁いた。


「大丈夫。いつも通りの仏頂面よ」


 胸の奥で、何かが切れた。

 ナイリザの指が離れる前に、その唇を塞いだ。


 力加減を誤ったせいで、ナイリザの背中が、机の縁へ当たる。

 書類の束が崩れ、床へ落ちた。


 それでも離れず、息を奪うように口づけた。

 お互いを絡ませ合う。

 ナイリザは押し返さなかった。


 しばらくそうしてから、唇が離れた。


「珍しいわね」


 ナイリザが浅く息をしながら言った。


「あなたから来るなんて」


 窓。

 帳簿。

 焦げた書類を捨てたゴミ箱。


 一瞬、ここが事務所であることを思い出す。


 しかし、ナイリザは事務デスクの縁に腰かけ、足を組むと、俺のネクタイを掴んだ。

 ぐいと引き寄せられる。


「いいわよ、ここで」


 机の上で、残っていた書類の束が崩れた。


 * * *


 ネクタイは椅子の背に掛かっていた。

 床には書類が散らばっている。


 ナイリザは机の端へ腰掛け、俺の煙草を勝手に吸っていた。

 俺は床からシャツを拾い、袖を通した。


 安易かもしれないが、手の震えは止まっていた。

 だが、不安が消えたわけではない。


 煙草の薄い煙を目で追う。

 わだかまっていた気持ちが、ようやく疑問の形を作った。


「……俺も、ああなるのか」


 ナイリザが煙を吐く。


「ならないわ」


「なぜわかる」


「変異は、理の衝突の作用だからよ」


 白い指先が、煙草を灰皿の縁にそっと置いた。


「怯え、日本にしがみつき、自我を保とうとする人間に、世界はより一層牙を剥く。

 例えば……そうね。サカザキみたいなタイプ」


 坂崎。そして瀬戸。

 まるで似ていない二人だが、大きな補助線が引かれたような気がした。


 デスクチェアに腰を下ろし、ナイリザに向き直る。

 ナイリザはデスクに腰掛けたまま、俺の目を覗き込んで言った。


「あなた、サカザキのこと好きでしょう」


「好き嫌いで付き合ってるわけじゃない」


「でも信用はしている」


 信用、というかは微妙だが、坂崎は機能している。それは事実だ。


「……私は、ああいう均衡は信用しない。理に逆らって自分を固め続けているだけだもの」


 俺は何も言わなかった。

 ナイリザが縁に置いた煙草を手に取り、深く吸い、吐き出す。


「ほかにやり方があるのか」


「アレと比べたら、ワニブチみたいなのの方がずっと安定しているわ。

 どこにでも入れるし、何にでも合わせる。自分の形を守ろうとしないから、壊れようがない」


「予想外の高評価だな」


「軽蔑してるのよ」


 にべもない。

 ナイリザはそこで視線を外し、低く呟いた。


「あなたも少し、そうなりかけてる。

 帰属が曖昧で、境目を踏み越える。恐れない。揺るがない」


「今まさに恐れてるんだが」


「知ってるわ。そういう意味じゃない」


 短くなった煙草を灰皿に置いて、顔を上げる。


 ナイリザがまっすぐこちらを見ていた。

 眼鏡をかけていない緑色の瞳。


「怖がっても、あなたは構えを変えない。書類を作る。車を出す。交渉する。必要なら嘘もつく」


「嘘はついてない」


「そういうところ」


 ナイリザが笑った。

 からかう笑いではなかった。


「安心しろとは言わないわ。あなたは変わる。もう変わってる」


 灰皿から細い煙が上がっている。


「でも、ああいう変わり方はしない」

次回は8/22(土)更新予定です。

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