第45話 OJT評価
OJTは三週目に入った。
週明けには評価報告書を統括オフィスへ送る。正規配属かどうかは、それで決まる。
下書きは金曜のうちに作ってあった。業務遂行、良好。現地対応、可。特記事項、なし。
嘘は書いていない。適性の評価は人事の仕事だ。俺は見たものを書くだけだ。
瀬戸は、少し焦っているように見えた。
照合を頼めば、その日のうちに仕上げてくる。仕上がりは正確だが、確認に来る回数が増えた。
そして、ペットボトルの水の減りが早くなった。常に携行し、五百ミリリットルが午前中に二本空く。
「喉が渇くんです」
暑さのせいだろう。そう解釈した。
* * *
昼過ぎに、城島から電話が入った。
『瀬戸くんの適性評価の件なんですがね。今日、面談やらせてください』
「おい、急だな」
『すみません。今、本社から人事部長が来てまして。ついでと言ったらなんですが』
「部長面談なのか」
『駐在員増員は本社意向案件なので。顔だけ見たいそうです。オンラインで、十五時からお願いします』
瀬戸と自分のスケジュールを確認した。今日外せない予定があるわけではない。
受話器を置き、瀬戸に伝える。
伝票を繰る手が、一瞬止まった。
15時から。適性評価の面談。人事部長。
伝えるごとに、心なし口元が引き攣って見える。
「気にするな。本社としても、無難に進んでいることを確認したいだけだ」
「そう、ですよね」
正直に言えば、人事部長の考えなどわからない。
ただ、増員が本社意向なら、厳しくチェックして話を潰す方向にはいかないだろう。
それでも瀬戸の緊張を解す足しにはならなかったらしい。
開始時刻が刻々と近づくにつれて、目に見えて無駄な動きが増えた。
ペットボトルを傾ける頻度も上がる。
14時50分。
何か声をかけようかと思ったところで、瀬戸がおもむろに立ち上がった。
「少し、お手洗いにいってきます」
「……ああ、準備はしておく」
瀬戸の背中を見送ると、ノートPCでオンラインミーティング用のアプリを開いた。
カメラをセットして、角度を調節する。接続をテストする。
レベル2ではオンラインミーティングなど滅多にやらない。
通信が不安定だからだ。
遅延、ノイズまじりで上長の顔を拝んでもストレスにしかならない。
今回は、おそらく人事部長の指定なのだろう。
幸か不幸か、今日の通信状況は良好だった。
「お待たせしました」
セッティングが完了したところで、頃合いよく瀬戸が戻ってきた。
「加藤さんの端末でいいんですか?」
瀬戸が顔を近づけて画面をのぞき込む。
その瞬間、むっとするほどの甘い匂いがした。
バニラのような、しかしわずかに香辛料のような刺激が混じった香り。
香水や整髪料にしては嫌に強い。
指摘しようとしたところで、瀬戸が口を開いた。
「先方も入ったみたいですよ」
見れば確かに画面には統括オフィスの会議室の光景が映っていた。
城島がカメラの近くで角度を調節している。
正面には、恰幅の良い白髪交じりの男が座っていた。
人事部長だ。
こちらもカメラとマイクをオンにして、席を瀬戸に明け渡す。
自分は隣に用意したパイプ椅子に腰を下ろした。
『音声、画像、入ってますか』
城島の声が聞こえる。
「はい。どちらも入っています」
そう答えた瀬戸は、さっきまでの落ち着きのない動きが嘘のように平静だった。
ここ数日で一番静かな顔をしているように見える。
通信を確認し、城島が見切れると、面談が始まった。
『瀬戸くん、久しぶり。どうですか、業務には慣れましたか』
「はい。加藤代理に同行して、検収と検疫申請の実務を一通り。
現地の商慣習には独特のものがありますが、少しずつ対応できるようになってきました」
人事部長の問いかけはあくまで柔和で、答える瀬戸も淀みがない。
いつもどおり、いや、いつも以上に卒がない回答だった。
倉庫の枝番の件を、自分の判断過程まで含めて簡潔に説明する。
『荷札の使い回しとは、またなんとも、異界らしい話ですね』
「はい。ただ現地の皆さんにも、受領が滞っては困るという認識はありますので……」
部長が頷く。城島が補足する。
俺は求められたときだけ、二言三言添えた。
OJTの成果としては上出来だ。これなら報告書の記載とも齟齬がない。
そんなことを考えたところで、異臭が鼻をくすぐった。
焦げ臭い。
先ほどまでのバニラのような香りとは違う。
何かが燃えている臭い。
顔を上げると、ナイリザも同じように、眉根を寄せて部屋を見回していた。
咄嗟に灰皿を見るが、煙は上がっていない。
臭いを追って視線を落としたところで、瀬戸の手元の書類の端が、茶色く波打っているのが見えた。
「おい」
小声で呼んだ。
瀬戸が一瞬こちらを見る。
自然な受け答えの顔のまま、口元には余裕の微笑さえ浮かべている。
その額から、滝のような汗が流れていた。
書類の焦げが見る見る広がり、白い煙の筋が渦を描いてこちらに流れてきた。
『――それで、瀬戸くんとしては現地勤務についてどう考えて』
部長の声は続いている。瀬戸は画面に向き直り、談笑を続けた。
画面の外で、マウスを握った右手が小刻みに震えている。
その指の間から、火花が散った。
「すみません! 機器不良のようです!」
ノートパソコンを叩き閉じた。
回線の切れる電子音。
「瀬戸!」
瀬戸は微笑のまま固まっていた。
「発火魔法よ!」
ナイリザが椅子を蹴って立った。
「大丈夫です」
瀬戸は動かない。
デスクの塩ビマットが、瀬戸の手元周りからじわりと泡立った。
「大丈夫です」
瀬戸の言葉とともに、また大きな火花が散った。
ネクタイの結び目から、白い煙が上がる。
ナイリザが給湯室から濡れタオルを引っ掴んできて、瀬戸の首から胸へ叩きつけるように被せた。
じゅ、と音がして、湯気が立つ。
瀬戸が椅子から崩れ落ちた。
抱き起こして、首筋に手を当てる。
「熱い!?」
思わず手を引いた。
首筋に、血管が浮いている――ように見えた。違う。皮膚の下に、火脈のような赤い亀裂が走っていた。
「……変異ね」
ナイリザが低く言った。
「ハイラックスを出してくる。水を。タオル続けてくれ」
「わかった。どうするの」
レベル1までは時間がかかり過ぎる。
検問を抜けて、医療施設まで運ぶのにどれくらいかかるか。
一刻を争うかもしれない。
「……葛原のところへ運ぶ」
「統括オフィスの方は?」
「通信、不良だ。それで頼む」
「わかったわ」
* * *
瀬戸を後部座席へ押し込み、シートベルトを引き出した。
金具を差し込む間にも、ワイシャツの肩口で火花が散った。
ブルゾンを被せ、火種を叩き潰す。
「大丈夫、です」
「喋るな」
アクセルを踏んだ。
5分ほどで目的地に着く。
くずはらクリニックには、休診の札が下がっていた。
運がいいのか悪いのか分からない。少なくとも、待合室に患者はいない。
休診日にメビウスを届けたことが何度かある。葛原は診察がなくても、たいてい奥にいる。
扉を叩いた。
「葛原! 葛原先生!」
じきに鍵を開ける音がして、葛原が顔を出した。
「急患か!?」
「変異だ!」
後部座席のドアを開けると、熱気が噴き出した。
葛原は半身を突っ込み、呼気、首筋、瞳孔を手早く確認していく。
そして最後にもう一度、瀬戸の顎を持ち上げ、口元に顔を寄せて呟いた。
「静謐香か」
「何だって?」
香。バニラの香り。
屋台に戻ったとき。画面をのぞき込んだとき。すべてが連想のようにつながる。
「話はあとだ。いつから使ってる」
「……甘い匂いなら、40……いや50分前くらいに」
「量は?」
「わからない」
「くそっ」
葛原は苛立たしげに舌打ちした。
「とにかく診察室へ。運ぶぞ」
促され、二人がかりで瀬戸を運ぶ。
火傷しそうな熱を帯びた瀬戸の体を、ブルゾンと濡れタオルでどうにか掴んで引きずる。
どうにか診察台に乗せると、葛原はワイシャツを鋏で裂き、胸元を開いた。
鎖骨の下まで、赤い亀裂が伸びていた。
亀裂の縁が、熾火のように明滅している。
「加藤ちゃん、こいつ自身の話をさせろ。名前でも住所でも何でもいい。向こうで生きてた自分を思い出させろ」
「話……」
「早く」
瀬戸の顔を覗き込んだ。目は開いているが、焦点が天井のさらに向こうにある。
向こう、日本での来歴などわからない。
か細い記憶をたぐり、城島の言葉を思い出す。
「おい、瀬戸。北大卒だったな。学部は」
瀬戸の喉から、空気の漏れるような音がした。
「……けい、ざい」
「そうだ。経済学部だ。出身は札幌か」
「……ひろ、さき」
弘前市。青森県。
「……すまん、青森だったな」
部下になるかもしれなかった男。
三週間だけ。そう思って、ろくに履歴書も読んでいなかった。
瀬戸の指先で火花が散った。葛原が濡らしたガーゼで押さえる。
「続けて」
「東京で、何がしたかった」
「……ほん、しゃ、が」
「本社に行きたかったのか」
瀬戸が小さく首を振った。
振り終わったところで、再び大きな火花が散った。
火の粉が顔にかかり、一瞬怯む。
「続けて!」
葛原の鋭い声が飛んだ。
濡れタオルを重ね、隙間から電極を貼り付けている。
「じゃあ、何だ。何をしたかった。教えてくれ!」
瀬戸の耳元で叫ぶ。
瀬戸は、うわ言のように呟いた。
「か……、たい」
「何?」
耳を口元に近づける。
まだ会話は成立している。喋らせなければならない。
瀬戸の唇がもう一度同じ動きをした。
「かえり……たい」
心臓を突き上げられた気がした。
帰りたい。
その言葉を聞いた途端、息が詰まり、胸がざわめいた。
「なら帰れ」
咄嗟に口をついて出た。自分の心音が早鐘のように響く。
「本社が嫌なら辞めろ。東京でも青森でも。日本ならどこでもいい。ここよりはマシだ。くそったれ!」
「かえ……る」
「そうだ。帰るぞ、瀬戸」
繰り返し、呼びかける。
「戻ってきた。今だ、押さえろ」
葛原の指示が飛んだ。
瀬戸の肩を掴む。掌が焼けるようだった。診察台に押し付ける。
葛原が瀬戸の左腕を抱え込んだ。
針を刺し、テープで留める。
「ミダゾラム入れる。呼吸を見てろ」
葛原がシリンジの目盛りを睨みながら言った。
瀬戸の口元を見る。浅い呼吸が続いて見える。
そして、瀬戸の全身から徐々に力が抜けていくのがわかった。
「呼吸数十八。酸素つけるぞ。眠ったら顎を上げろ」
瀬戸の口元にマスクが当てられた。
規則的な電子音が診察室に響き始める。
瀬戸は目を閉じていた。
「気絶しているのか」
「眠らせただけだ。それ以上は、ここではできない」
* * *
葛原は丸椅子に腰を下ろし、大きく息を吐いた。
白衣の袖が焦げていた。
「急性変異だね」
葛原が淡々と告げた。
漠然と、なぜ、と思う。
同時に、具体的な疑問が浮かんだ。
「静謐香、というのは、なんなんだ」
葛原がもう一度大きく息を吐いた。
「……現地の坊さんが祈祷のときに焚く香だよ。ただのお香。喜捨すれば分けてもらえる。鎮静、安眠、邪気払い。
ただ、最近は、これを経口摂取する馬鹿がいる」
「なんのために」
「さあね。レキソタンより効くらしいよ。眠気もふらつきも出ない。頭も鈍らない」
「都合のいい薬だ」
「薬ならね」
「……」
「消えるのは不安だけじゃない。輪郭が緩む。界差に、無防備になる」
そう言って、葛原はこちらに背を向けて、モニターの数字を確認しはじめた。
「……礼拝所に入るところを見た」
白衣の背中に向けて言った。
「いつ」
「先週の頭だ」
「やっぱりね」
葛原は天井を仰いだ。
「定期検査に来たとき、嫌な感じはしたんだよ。前の処方を切るのが早すぎた。
……分かってりゃ、もっと早く手を打てた」
苦みのある言い方だった。
自責のように聞こえる。こちらを責めているようにも聞こえた。
返せる言葉がない。
思えば、気づくべきタイミングは無数にあったのだろう。
部下の私生活や、信仰に口を出すべきではない。それは正しい判断に思える。
実際には信仰などなく、香が欲しかっただけかもしれないが。
会社員として正しい線引き、レベル2の正しいリスク判断の線引きは、明瞭ではない。
瀬戸を見た。
死んだように眠っている。
胸が規則的に上下していた。
「身体所見、消えたな」
葛原が言った。
言われて首筋を見る。
亀裂は、跡形もなかった。焦げも、火花もない。
「急性期は越えた。固定する前に抑えられたからな。あとはレベル1へ搬送して、安静にして様子を見るしかない。
……ただ」
葛原はこちらを見ずに言った。
「変異兆候だ。報告した時点で、即収容だよ」
沈黙が落ちた。
モニターの電子音だけが規則的に鳴っている。
収容。不穏な響きの言葉だ。
渡航時に配られた、政府の安全講習ハンドブックの記載を思い出す。「一時保護」「汚染の除去」。具体的に何をされるのか。どのくらいの期間が必要なのか。
「収容されたら、どうなる」
「やれることは大差ないよ。曝露を減らして、安静にして、ひたすら経過観察。それだけ。ただ、少しでも変異の残留が疑われる限り、移動の自由はない」
それが終わったあとに、まだゲートを潜る資格は残っているのか。
瀬戸の手首に触れた。
ぬるりと汗に濡れていて、温かい。
だが、火傷するような熱ではない。ただの、眠っている人間の体温だった。
「……薬物だろう」
「なに?」
「急性薬物中毒だ。症状も一過性だった」
そう呟くと、背後から、苛立ち交じりの大きなため息が聞こえた。
「……加藤ちゃんさあ。俺に何を書かせたいの?
身体所見もあった。俺はこの目で見てる。簡単に言ってくれるね」
「薬物由来を否定できないだろう」
「発火が?」
「高熱だ」
振り返る。
葛原は射るような目でこちらを見ていた。
「メンタルヘルス案件なら、休職命令が出る。内地で治療だ。収容ではない」
葛原は答えなかった。
胸ポケットから潰れたメビウスの箱を取り出し、一本振り出して口に咥えた。
火はつけない。
それから、不機嫌そうに髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
「……頼む。葛原先生」
次回は8/15(土)更新予定です。




