第44話 瀬戸
城島が来る、という一報は、前日のファクシミリで届いた。
用件欄には「駐在員増員の件(打合せ)」とだけある。
打合せ、と書いてくるときの城島は、たいてい決定事項を持ってくる。
翌日の午前、城島は定刻通りに事務所へ現れた。
「増員候補です。瀬戸といいます。北大卒、入社四年目。現在はレベル1勤務」
応接テーブルに履歴書と職務経歴書が置かれた。
顔写真は短髪の若い男。清潔な印象。目に濁りがない。
勤務評定は良好。健康診断、所見なし。
経歴書をめくった手が、一箇所で止まった。
異界統括オフィス配属、八か月前。
「研修八か月?」
「はい」
「一年やる話じゃなかったのか」
「休職、自主退職、異動願。どうもレベル1で研修漬けの一年というのは、かえってメンタルヘルス的によろしくないようで」
城島は湯呑みに口をつけた。ナイリザが出した茶だ。今日も置く音が硬かった。
「それで、途中から現場に放り込むと」
「机上研修だけでは限界がある、という判断です。実際の成功例を見せた方が早い」
「成功例?」
「加藤さんですよ」
履歴書から顔を上げた。
「……俺のどこを見てそう判断した」
「正規常駐1名、契約社員1名だけで、レベル2事務所の運営を安定させています」
「それだけか」
「会社としては十分です」
碌な引継もなく放り出されたから、統括オフィスにいちいちお伺いを立てない癖が染みついた。
それを「安定運営」と評価されると妙な気分になる。
だが、現場に余裕があるように見えたのなら心外だ。
俺は履歴書を無造作にテーブルに置いた。
「研修済みの人員ならともかく」
「一応、レベル2への出張は何度も経験させてますよ。正式配属になれば加藤さんの負担も減ります。
その先の人事は、まあ適性を見てですね」
その先。
含みのある言い方だった。
ナイリザにも聞こえているだろう。
「後任という話ではないのか」
「今すぐ加藤さんを帰す予定は、私は聞いてません」
城島の回答に、諦念とも安堵ともつかない感情が沸く。
何かを棚上げできたことは確かだ。
望むと望まざると。
「いずれにせよ、教育までやる余裕はない。事故が起きれば、書類上の責任者は俺だ」
「そこをなんとか、というお願いでして」
城島は笑顔でそう言い放ったあと、少し姿勢を崩し、声を潜めた。
「恩に着ろとは言いませんがね。佐藤常務の件でお預けした示談金二百万円。
示談書も領収書もなしで消えた金を説明するの、結構大変だったんですよ?」
この男と対面するのはマーリハの件以来だ。
その話は出るだろうと思っていた。
懸念は死んだ社員のことではなく、二百万円の行方であるらしい。
「消えたわけじゃない。ザファル商会に渡した」
城島の表情が止まった。
「……それ、初耳なんですが」
「報告書に書いただろ」
「『現地協力者を介して交渉』としか書いてませんでしたよ」
「その現地協力者が、ザファル商会だ」
「……今の、聞かなかったことにしますね」
城島は湯呑みを置き、額を押さえた。
「勘弁してくださいよ。Z案件ならそう言ってもらわないと」
「報告書に協力者名まで書くべきだったか」
「や、絶対にやめてください」
しばらく指先でこめかみを揉んでいたが、顔を上げたときには元の営業用の顔に戻っていた。
「それじゃあ加藤さん、人事も無理は申しません。正式配属の判断は保留。三週間だけ、OJTをお願いします。適正評価と教育責任はこちらで持ちますんで」
「同行と実務だけだ」
「結構です」
城島は書類を鞄に仕舞いながら、思い出したように言った。
「宇田川さんは、あれでかなり気をつけてましたからね。加藤さんはもう、どっぷりレベル2でしょ」
「業務上の必要だ」
「上は手放しで喜んでますけどね。長期常駐は労務的にもコンプラ的にも、ちょっと。
……気づいてます? 加藤さん。着任当時と、報告書の書き方、全然変わってますよ」
「読みやすくなっただろう」
「そうですねえ。こちらの事情がわかりやすくなったのは、そうなんですが」
城島は珍しく言い淀むような、考え込むようなそぶりを見せた。
そして、こちらを見ながら半笑いで告げた。
「加藤さん。帰れなくなっちゃいますよ?」
咄嗟に言葉を返そうとして、何も出てこなかった。
開きかけた口を閉じる。
城島は笑いながら鞄を提げ、帰っていった。
* * *
瀬戸は三日後に着任した。
「瀬戸です。三週間、お世話になります」
アイロンの効いたスラックス。磨かれた革靴。写真の印象よりも上背がある。
名刺の出し方、お辞儀の角度、どれも研修ビデオのように正確だった。
ナイリザにも同じ角度で頭を下げた。
「経理の、ナイリザさんですね。よろしくお願いします」
現地人の、しかもエルフの契約社員に「さん」をつけて挨拶する日本人は珍しい。
ナイリザは老眼鏡越しに瀬戸を眺め、それだけ言った。
「マシなほうね」
仕事は、できた。
伝票の起票は二度目から形式が揃った。検疫申請の添付書類も、一覧を渡せば漏れなく集めてくる。ファクシミリの送信記録の整理は、俺より丁寧だった。
ハシュラは、瀬戸が来てから母屋に近づかなくなった。
伝票の受け渡しはガレージの前で済ませ、事務所の敷居はまたがない。
理由を聞くと、肩をすくめた。
「知らないやつがいるうちは入らないし」
猫のような理屈だった。
* * *
二週目に入った日、瀬戸を外回りに連れ出した。
ギンネの店で支払条件の確認。それから倉庫で検数の立会い。
倉庫では、寄り合いの搬入分と原票の照合をやらせた。
木箱を数え、荷札を原票と突き合わせる。単純な作業だ。
途中で瀬戸の手が止まった。
「加藤さん。この三箱、枝番が原票と合いません」
荷札を見る。確かに違う。搬入側が先週分の荷札を使い回している。数はあっているが、このまま受ければ、月末の照合でナイリザの手を煩わせることになる。
「どうする」
「受領は数量のみで起こして、荷札の訂正を先方に依頼します。……でいいでしょうか」
「それでいい」
瀬戸は荷役のコボルトたちに囲まれながら、イヤーバッズ越しに訂正依頼を伝えた。声は落ち着いていた。怯えた素振りもない。
荷役の親方が牙を見せて笑い、瀬戸の肩を叩いた。瀬戸はよろけながら、礼を言った。
思ったより使える。
三週間も要らないかもしれない。
気になる点が、ないではなかった。
瀬戸はレベル1のコンビニで買ってきたペットボトルの水とサンドイッチで手早く昼食を済ませる。休憩を勧めると「大丈夫です」と即答した。仕事を渡すと、ほっとしたような顔をした。
定時になると、何か手伝えることはないかと聞いてくる。
それも毎日だ。
理由を聞くと、真顔で答えた。
「早く、業務に慣れたいんです」
OJT中にやたらと残業をさせるわけにもいかない。
そう言うと、不満そうな、あるいは不安そうな顔をした。
真面目な男なのだろう。
* * *
昼になった。三番通りの入り口の屋台に車を寄せる。
「このあと葛原先生のところに寄る」
「くずはら……クリニックですか」
瀬戸が言葉を濁した。
「知っているのか?」
「研修資料に載っていました。指定医ですよね」
「定期検査のタイミングだ。お前も一度受けておいた方がいい」
「……はい」
返事まで、微妙な間があった。
検査と聞けば緊張もするだろう。そう解釈した。
屋台の卓に、煮込みが二皿並んだ。動物性の脂に香辛料。青い種子の痺れる酸味。この街の昼飯だ。
「すまんな、こんなところで。今日は手早く済ませたい」
「はい、いえ」
瀬戸は匙を取ったが、煮込みの上で止めた。
青い油の膜を見つめている。
喉がひくりと動いた。
「……加藤さんは、いつもこれを?」
「まあ、すぐ慣れる」
「……そうですね。ちょっとお手洗い、行ってきますね」
瀬戸は席を立ち、屋台の裏手の共同便所へ消えた。
俺は先に食い始めた。
瀬戸は数分で戻ってきた。
落ち着いた顔をしていた。すれ違いざま、かすかに甘い匂いがした。屋台の香辛料の匂いに、すぐ紛れた。
「すみません。いただきます」
先ほどまで手のつけようもなかった煮込みを、今度はためらいなく口へ運んだ。
「どうだ」
「意外と、平気ですね」
やはり、慣れの問題だったらしい。
俺はそう判断して、皿の残りを片付けた。
* * *
くずはらクリニックの待合は、今日も空いていた。
メビウスのカートンを差し出すと、葛原は白衣のポケットに突っ込むような雑さで受け取った。
「悪いね。いつも」
それから、俺の後ろに目を留めた。
「あれ?」
瀬戸は一瞬目を逸らしてから、黙って会釈した。
葛原は無精ひげを掻きながら、何でもない口調で言った。
「……定期検査、二名ね」
それだけだった。
検査は瀬戸からということになり、俺は待合の長椅子で書類を読んだ。
長かった。三十分は待たされた。
入れ違いに診察室へ入る。俺の方はいつも通り、あっという間に終わった。
「相変わらず、気持ち悪いくらい身体所見がないね」
「瀬戸と比べて早すぎるだろう」
「それだけ何もなしってこと。少なくとも、見れる範囲ではね」
葛原は椅子を軋ませて背を反らした。
「それに問診はもう、するだけ無駄でしょ。加藤ちゃん、真っ黒だし」
「スマホは操作できる。進化論も理解できる。精霊の声は聞こえない」
「でも、帝国語はペラペラでしょ」
葛原は自分の耳を指さして見せた。
俺がもうイヤーバッズをつけていない、という意味だ。
「そういうやつは何を言っても無駄だから。身体的不調が出たら、すぐにおいで」
カルテを閉じかけて、葛原は世間話の調子で言った。
「最近、駐在員に悪い遊びが流行ってるね」
「……色街とか?」
「それは昔から。馬鹿だなあとは思うけどね、女を抱きたいと思ううちは、まだマシなんだよね。性欲まで死んでるやつはうちに来る。で、処方薬じゃ足りなくなって、来なくなる」
「……」
「加藤ちゃんはそういうタイプじゃないと思うけど。みんながそうじゃないから」
俺は礼を言って診察室を出た。
会計の間も、葛原は特に瀬戸に話しかけたりはしなかった。
瀬戸も距離を置いて立っていただけだ。
自然だが、だからこそ、二人の最初のやりとりが浮いて感じる。
葛原は明らかに瀬戸に気づいて反応したし、瀬戸も誤魔化しきれず会釈を返したように見えた。
帰りの車中、ハンドルを握りながら瀬戸に聞いた。
「葛原先生のとこ、初めてじゃなかったんだな」
「……はい」
カマかけに近かったが、瀬戸は誤魔化さなかった。
「レベル1の施設だと、会社に伝わるからな」
責める言い方にならないよう、事実だけを言った。
瀬戸はしばらく窓の外を見ていたが、やがて、ぼそりと口を開いた。
「統括オフィスに配属されてしばらくは、なかなか眠れなくて。睡眠導入剤を、少し出してもらってました」
狼狽する様子もなく、吐露というほど深刻そうでもなく、淡々と語る。
いかにもありそうな話だ。
レベル1での研修期間は、刑の執行を待つ囚人に似ている。俺も胃薬が手放せなかった。
「同期は、けっこう辞めました」
「そうか」
「自分は研修、嫌いじゃなかったんですけどね。毎日やることが決まってて」
「今は、眠れてるのか」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
診療歴は私生活の領域だ。本人が眠れていると言うなら、それでいい。
* * *
その日の退勤間際だった。
「加藤さん。すみません、少しいいですか」
瀬戸が財布を手に立っていた。
「現地通貨に、両替をお願いできないでしょうか。小口で構わないので」
両替自体は珍しい話ではない。事務所の小口金庫には手数料込みのレートを貼ってある。
銀貨と銅貨を数え、円を受け取った。
「助かります。お先に失礼します」
瀬戸は頭を下げて出て行った。
伝票を綴じる手が、途中で止まった。
定時に、瀬戸が何の抵抗もなく帰るのは初めてのことだった。
残業を申し出ても断られるので、諦めただけかもしれない。
だが、小口の両替も気になると言えば気になる。
現地で好んで飲食しない。夜の街に興味を示した様子もない。
その男が、現地通貨を何に使うのか。
事故が起きれば書類上の責任者は俺だ。
椅子から立ち上がり、上着を取った。
「もう帰るの?」
ナイリザが老眼鏡越しに見上げてきた。
「少しな」
「管理職は大変ね。下手くそな尾行で、バレないようにね」
何も言わずに出た。
瀬戸の背中は、まだ通りの先にあった。
社員寮のある区画は右だ。瀬戸は左へ折れた。
夕刻の人混みに紛れて、距離を保って歩く。瀬戸は一度も振り返らなかった。目的地のある人間の歩き方だった。
日本語の看板が途切れ、石畳が古くなる。
日本租界の外れ、現地の住宅区に入る境目に、その建物はあった。
漆喰の壁。入り口の上に、極彩色の吹き流しが何本も垂れている。
瀬戸は迷いなく、その中へ入っていった。
建物の前まで歩き、開いたままの戸口から中を覗いた。
薄暗い屋内に、蝋燭の明かりが揺れている。
正面の壁一面に、壁画が描かれていた。
並んで拝む人々の絵だ。どの人物にも顔がなく、頭部が炎になっている。
人々の頭の炎から白い筋が伸び、天井へ向かって合流し、一つの大きな渦を巻いている。
床に敷物が並び、人影がいくつか座っていた。
瀬戸は跪き、礼拝する人影たちを一瞥すると、そのまま通り過ぎていく。
礼拝には加わらない、声をかけてくる者もいない。
瀬戸の背中が部屋の奥の暗がりへと消えた。
建物の中は香を焚きしめているらしい。バニラに似た香りが、戸口まで流れてきた。
「……マハーラ……マハーラ……アル=サフィール……」
礼拝する人々の口々から、低い祈祷の声が漏れてくる。
マハーラ教か。
着任前の資料で名前だけ見た。現地最大の宗教。教義までは覚えていない。
日本租界では表立った活動はしておらず、これまで業務上の接点もなかった。
入るか。
あるいは、出てくるのを待って声をかけるか。
戸口の前で少し考えたが、結局、来た道を戻ることにした。
業務時間外だ。信教は私生活の領域で、私生活は管理の範囲外だ。
眠れなかった男が、眠るために祈る。それを咎める規定は、就業規則のどこにもない。
次回は8/8(土)更新予定です。




