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第39話 献杯

 曇天だった。


 乾いた風が、麦畑を通り抜けていく。

 雨季の終わりを予感させる風だった。


 帝都からほど近い、どこかの荘園。見渡す限りの麦畑と、その縁に申し訳程度の溜池がある。

 試運転には、ちょうどいい土地なのだという。現地の有力者が持つ荘園ではない。管理が崩れかけた末端の農地。万一しくじっても、誰も困らない。


 集まっているのは、日本人ばかりだった。

 現地人の姿は、麦畑の向こうにある。小作農たちが、農具を手にしたまま、遠巻きにこちらを眺めていた。


 日本人は、皆、現地の垢のついていない者ばかりだった。

 レベル1の管理本部か、各社のオフィスに常駐しているタイプ。ただし交代要員ではなく、公共部門や他社を相手に、レベル1内での調整業務を主な仕事にしている管理職級。そんなところだろう。


 ジャケットを羽織っている者すらいた。

 日本人の現地滞在歴は、服装でだいたいわかる。

 駐在員になれば、まず真っ先に、暑さと湿気でジャケットを着る習慣がなくなる。

 代わりに、酸性雨除けの薄手で通気性のいいブルゾンが要ると気づくのは、その後だ。


 坂崎に対する態度は、追従一色だった。

 やたらと先回りして、小物をどかしたり、椅子を引いたりと、気を利かせてみせているのは若手の官僚だろう。

 どうでもいい世間話に、ひきつったような高笑いで応じているのは、同業者くさい。


 そうした普通の日本人の中に置くと、坂崎の異物感はいっそう際立つ。

 頭三つ分は抜けた緑色の巨体が、スーツの群れに囲まれている。

 廷臣に傅かれる王のようでもあり、供物を捧げられた本尊のようでもあった。


 あちこちで名刺交換が始まっていた。

 どういうわけか、少し離れて立つ俺のところには、誰も来ない。

 まさか、小作農の側だと思われているわけでもないだろうが。


 * * *


 技術担当らしき男が揚水ポンプのスイッチを入れる。

 小さなエンジンが咳き込むように震え、それから低く回り始めた。配管が唸る。

 しばらくは何も起きなかった。やがて、黒いホースの先から泥水が吐き出された。


 最初は濁っていた。

 水と砂と空気が混じり、ぶつぶつと泡立つ。

 それが次第に透明になり、勢いよく流れ出した水が、溜池へ落ちた。


 開通と同時に、参加者たちは笑顔で拍手をする。

 その様子を、小作農たちは奇妙なものでも見るような目で眺めていた。


 やがて、坂崎を取り囲むように集まる。

 皆が資料を片手に、時折頷きながら、坂崎の説明に耳を傾け始めた。


 原油の生産量。配分先。水の取り分。このポンプがレベル2の力関係をどう変えるか。

 関心は、もうそちらに移っていた。

 誰も、ポンプそのものを見ていない。


 俺はその輪の末端で、小作農たちの様子をぼんやり眺めていた。

 政治の話は、課長代理には無縁だ。


 しばらくすると、回り続けるポンプの吐き出す水が、溜池を埋め始めた。

 それに気づいた小作農たちの間に、驚きが広がっていく。

 勢いよく流れ出す水を指さし、目を剥き、早口で何かを喋り合っている。手を叩く者がいた。天を仰ぐ者がいた。ポンプに向かって手を合わせる者までいた。


 井戸があるのだから、水を汲み出せること自体は、当たり前だ。

 ただ、それが途切れずに続いていることが、尋常ではないのだろう。


 黒い血を蓄えたポンプが、倦まず弛まず、水を押し上げ続けている。


 やがて、坂崎の説明も終わったようだった。

 歓喜する小作農たちをよそに、セレモニーを終えた日本人たちは、足早にそれぞれの車へ戻っていく。


 最後尾の坂崎だけが、ふと振り向いた。

 小作農たちの様子をしばらく眺め、それから小さく頷く。

 その口角が、少しだけ上がっていたように見えた。


 * * *


 開通式のあと、坂崎から案内のあった「内々の席」へ移動になった。

 

 人々を乗せた車列は、粛々とレベル1へ向かう。

 列を乱す車両はない。車線もない異世界の荒野を、一連なりになって進む車の列は、それ自体どこか異様だった。


 自衛隊の検問を、どの車もあっさりと通過していく。

 変異者には決して開かれないはずのレベル1の門が、どういう法的裏付けで坂崎を通しているのかはわからない。

 車列の中にある限り、わが社のハイラックスも荷を検められたりはしない。窓越しに身分証をちらと見せて終わりだ。名前や顔を照合した様子もなかった。


 宴席の会場は、レベル1の一角にあった。入ったことのない店だ。


 外観はレベル1らしい無機質なコンクリートだが、中は精一杯、日本の料亭を模した造りになっていた。

 板床が貼られ、回廊の脇には枯山水を模した坪庭まである。仲居は日本人で、着物を着ている。

 さながら赤坂か神楽坂といったところか。


 最後のほうで会場入りする。

 宴席は広かった。三、四十人はいるだろうか。

 「内々の席」という言葉から想像した範囲を、ゆうに超えていた。

 要するに、坂崎の権益に連なる者たちの集い、ということだろう。


 坂崎は上座、床の間の正面に鎮座し、気の早い参加者の挨拶を受けていた。

 機嫌がいいわけでも、悪いわけでもない。

 ただ、場の中心にいる人間の顔をしている。

 立場の割に愛嬌のあるタイプだと思っていたので、少し意外だった。


 案内された席は、意外にも、その上座の近くだった。

 目立ちたくもないので、そっと気配を消して、あたりをうかがう。


 開通式では見かけなかった顔が、いくつかあった。

 全員が、深い緑色の制服を着ている。

 自衛隊だ。

 常装、というやつだろう。


 如月二佐の名代だという男が、早々に坂崎へ挨拶に来た。

 後方支援隊の副隊長で、三佐だという。同年代くらいに見えた。


 如月二佐と、坂崎参事官。

 異世界潔癖症と、完全変異者。妙な取り合わせだ。

 だが、三つある隊のうち、後方支援隊だけがこの場に顔を見せている。

 坂崎と如月の間に、パイプがあるということだ。


 なんであれ、坂崎の顔が効くというのは、悪い情報ではない。いざというときに助かるかもしれない。

 ここまで巻き込まれた以上、それくらいの役得はあってもいいはずだ。


 全員が席に落ち着いた頃合いを見て、司会の若い官僚が口を開いた。


「本日はご多用のところご参集を賜り、誠にありがとうございます。主催の坂崎に代わりまして、皆様に厚く御礼申し上げます」


 手元の紙に目を落としたまま、淀みなく読み上げていく。


「本日この席を設けました趣旨は、地域連携・現地資源活用プロジェクトの立ち上がりを祝し、関係機関ならびに協力事業者の皆様の親交を深めることにございます」


 そこまで流れるように言い切ったところで、司会の声が、ふと落ちた。


「一方で本日は、奇しくも、第一波派遣隊三十七名が『偶発的接触』により殉職されてから、ちょうど十年目の節目にもあたります」


 会場の空気が、わずかに沈む。


 そういえば、今朝のニュースメールに、そんな記事があった気もする。

 内地のニュースが七、レベル1がらみの告知が二、レベル2の珍事の紹介が一。およそ読むところのない代物だが、駐在員はメンタルヘルス対策の一環として購読を推奨されている。


 自分の感覚では、現地民の襲撃で自衛隊に多数の殉職者を出したあの事件も、もう風化した出来事だった。

 その頃は日本の中小企業に勤めていて、自分には縁のないニュースとして受け流していた。


「先人たる殉職隊員の方々の尊い犠牲があってこそ、今日の日本租界も、各種の異界事業もある。我々はそれを、決して忘れてはなりません」


 司会の視線が、自衛隊の制服が固まっている一角へ向いた。


「本日は、自衛隊後方支援隊よりご臨席を賜っております。つきましては開会に先立ちまして、三十七名の殉職隊員に向け、哀悼の誠を捧げるべく、献杯の発声をお願いしたく存じます」


 男はそこで一礼した。


「坂崎参事官、どうぞお願いいたします。皆様、恐れ入りますが、お手元のグラスをお持ちのうえ、ご起立をお願いいたします」


 視線が、坂崎に集まる。

 坂崎の「場」になった。

 司会が、そうなるように流れを作ったのだ。


 主催者から、重要なゲストへの配慮。

 坂崎の顔が立ち、自衛隊の参加者も悪い気はしない。

 追従というのは、こうやって形になるのだろう。


 起立し、グラスを緩く手に持つ。


 献杯は予想外だった。慌てて作法を思い出す。

 発声に合わせてグラスを胸元に掲げ、軽く一口だけつける。

 どうということのない作法プロトコルだ。

 遠い昔、親族の葬儀でやった。


 坂崎は、一拍遅れた。


「……献」


 誰にも聞こえないくらいの、小さな声だった。

 献杯。その単語を、口の中で転がすように。

 一瞬だけ、虚ろな顔に見えた。


 それから、ゆっくりと立ち上がる。

 挨拶はない。それが、かえって場を締めた。

 杯を持ち上げる。


「……献杯」


 叫ぶというほどではないが、声量は十分に大きかった。


 そして坂崎は――杯を傾けた。


 口元へ、ではない。掲げたまま、床へ。

 黄金色の飛沫が、畳の上に跳ねた。


 杯の中身がそっくりそのまま、畳に吸い込まれていく。

 染みが広がり、酒の匂いが、急に濃くなった。


 場は、固まった。

 誰も声を出さない。誰も笑わない。

 反応した瞬間に、それが「事件」になる。皆、それをわかっている。


 坂崎は杯を空にしたまま、まだ立っていた。

 表情がない。

 空気の変化が見えているのかいないのか。

 ただ、何かをやり終えた顔つきをしている。


 一拍。二拍。

 その長過ぎる沈黙を、司会が切った。


「……それでは皆様、ご着席ください。引き続きご歓談を」


 妙に明るい声だった。わざとらしかったが、この場では必要な救命措置だったかもしれない。


 空気が戻る。

 今のは「偶然の手元」だった。

 そういうことになったらしい。

 論うのは品位を欠く。だから、何事もなかったように宴席を再開する。


 杯が回る。料理が動く。ようやく、誰かが笑う。

 日本の宴席の、いつもの呼吸だった。


 俺は、坂崎のほうを見た。

 その瞬間だけ、坂崎がこちらを見返した。


 目が合う。

 虚ろな目だった。焦りも怒りもない。ただ――自分が何かを間違えたことだけは、わかっている目だった。

 何を間違えたかはわからない。だから表情にも出ない。焦点も合わない。


 しかし次の瞬間には、坂崎はいつもの笑みを作っていた。

 作った笑みのまま、隣の誰かに杯を勧める。

 主賓の顔に戻っていた。


 エリファスの言葉が、頭の隅をかすめた。

 注目すべきは儀礼プロトコル。意味との関わりが薄い儀礼ほど、単純な置き換えがきかない。そして、しくじったときに最も見えやすいのも、儀礼だ。


 あれは粗相ではない。

 死者を悼む。その文脈で、今の坂崎が引き出せた唯一の作法が、あれだったのだろう。近い記憶に引きずられた誤変換。そう見えた。


 ケ・チタタプゥ。


 グラスに口をつける。

 ぬるくなりかけた泡が、喉を湿らせた。

次話は6月30日(火)21時00分に投稿予定です。

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