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第38話 降伏文書

「これは降伏文書ですな」


 エリファスの第一声は、それだった。


 執務机の上に、A3の基本条件確認書が広げられている。

 沼沢地帯の湿気を吸った紙は、持ち帰る途中で波打っていた。

 端には族長の血判。

 その横には、赤い布の戦士長の血手形。

 クリアファイルから取り出したそれは、かすかに鉄錆のような匂いが残っている気がした。


「基本条件確認書のつもりなんですが」


「表題はそうなっておりますね」


 エリファスは骨だけの指で、書面の上辺を押さえた。

 青い鬼火が、眼窩の奥で静かに揺れている。


「ですが、性質は異なる」


 骨の指が、血判の下をこつこつ叩く。


「署名者の自由意思が見えません」


「見えるものなんですか」


「見えないから問題なのです」


 そこでエリファスは一旦言葉を切り、執務机の端に置かれていた骨壺のようなものを引き寄せた。

 中から何かを取り出してがりりと噛む。


 眺めていたらこちらに壺が差し出された。


「思考が明瞭になります」


 やんわり勧められたので断れない。

 蓋を開けると中には硬質な白い粒が大量におさめられており、やはり骨壺かと思う。

 一粒とって口に放り込んだ。フリスクだった。


 強烈なミントの香りが鼻孔をくすぐる。

 確かに脳がクリアになったような気はする。


 エリファスは、万年筆の尻で文中の一箇所をこつりと叩いた。


「まず、これです」


 そこには、俺の字で「別途協議」と書かれている。


「別途協議。これはこちらでは使わない言葉ですな」


「はあ。しかし、書面で決め切らないこともあるのでは?」


「決め切らないことを書く意味がありません。紙は貴重なのです」


 そう言われると言葉に詰まる。


 確かに、長々と書き連ねて安心を買う以上の意味はない。

 少なくとも現場では。

 厳密に法的にどうかは知らない。


「日本の契約実務では、一般的な表現なのですが」


「存じております。貴国の契約書には、神ならぬ身で未来を丸ごと紙に封じようとする癖がありますからな」


「……なんとも」


「問題はこちらの法律文書としてどう読まれるかです。強いてこちらの一般的表現に訳すならば、これです」


 エリファスは机の端から白紙を一枚引き寄せ、帝国語で短い文言を書いた。

 読めない。


「『追って下命あるべし』。命令書の定型文言です。上位者が判断を保留するときに使う」


「こちらは上位者というわけでは」


「そうは見えませんよ」


 骨の指先が、こつこつと再び血判の下を叩いた。


 族長の血。

 戦士長の手形。

 坂崎が受け取り、俺に渡した紙。

 それらが机の上で妙に乾いて見える。


「ここでいう未定事項は、対価の細目、引渡し数量の調整、輸送負担。いずれも後日協議に回されています」


「それは実際、現地で詰めきれなかったので」


「ええ。事情は理解します。ですが、紙の上ではこう見える。上位者が後で決める。下位者は従う」


 エリファスは書面を少し持ち上げ、裏から透かすように眺めた。


「次に、日本語正本のみというのもよろしくない」


「……やはり、そこですか」


「彼らに読めるわけがないので。意思に基づく署名があったとは言えますまい。これは形式面ですので、御社の審査でも指摘されてしまうのでは」


「一応、通訳は入っています」


「口で聞いた言葉と、紙に書かれた文章が同じものだと、彼らは何によって確認するのです?」


 答えられなかった。


 基本条件確認書は、たしかにすべて日本語で書かれている。

 帝国語ではない。

 その他の現地の言語でもない。

 ヤシマの社名、土瀝青、基本条件、別途協議。

 どれも俺には見慣れた言葉だが、彼らにはただの黒い線だったはずだ。


「そして言うまでもなく、決定的なのは血判と血手形です」


「まあ、それは」


 あちら側が勝手に押したものだ、という言葉が口元で止まる。

 そうは見えない、ということが問題なのだ。

 やはり見た目のインパクトが強すぎる。


「見た目のことだけではありません」


 こちらの心理を見透かすようにエリファスが続けた。


「御社の代表者が血判を押すわけではないでしょう?」


「まあ、普通に朱肉で代表印を押すことになります」


「であれば、降伏文書ですらありませんな。一種の呪詛契約です。血の約定をした側だけが呪術的に拘束され、破約の責めを負う」


 万年筆のキャップの先端が滑るように血手形の輪郭をなぞる。


「まだ屈服の魔素の痕跡がある。族長も戦士長もそこは理解したうえで押捺していますな。だからこそ、少々趣味が悪い」


 調印時の光景が浮かぶ。

 族長が迷いなく血判を押していたので、そこまでのものとは思わなかった。

 だが、そう考えると、暴れて抵抗した戦士長の反応は、至極もっともなものだったといえる。


「……どうしたら?」


「巻き直すのです」


 俺の問いに、エリファスはこともなげに答えた。

 巻き直す。

 改めて契約書を作り直し、調印をやり直す。


 遠征、襲撃、沼亀。

 嘔吐する安藤、寝付けない夜、腐った魚の干物。

 あれをもう一度やるのか。


「なんとかなりませんか」


 心底うんざりした声が漏れた。


「なに、カトウ殿が現地まで行く必要はありますまい」


 エリファスの歯列が開いた。音のない笑い。


「冒険者を遣って族長の署名だけもらって来させればよい」


「それでうまくいくでしょうか?」


 宴会の場に姿を見せなかった戦士長のことが気がかりではある。

 もう一度訪問したときに、部族としての意向が変わっている可能性は、ないとはいえない。


「そのための基本条件確認書、いや失礼、降伏文書ではありませんか」


 鬼火がすっと収縮した。


「元の文言の範疇に収まる限り、彼らは押印は拒めません。呪詛契約とはそういったものです」


「……それで、その、自由意志があると言えるんですか?」


「あるように見える、そういう体裁を整えることはできる……ということです。

 幸い取引自体は互恵的なものですからな。体裁さえ伴えば、瑕疵を咎め立てる者もおりますまい」


 唸る。唸ることしかできない。

 だがそれで済むなら助かるのも事実だ。


「もちろん、無用な摩擦は避けるべきでしょう。沼沢語版の正本を用意するのです。彼らが読める言語、彼らが理解できる表現なら、通訳付きの説明は不要です」


「沼沢語版、ですか?」


 沼沢語。

 今回の滞在でまともに文字を目にした記憶はない。

 境界に吊るされていた獣の死骸。その下に括り付けられていた赤黒い文字。

 ナイリザも読めないと言っていた。


「簡単なもので良ければ、私が作りましょう。そもそも、沼沢語には複雑な法律文書を作るような抽象語彙が少ない」


「……先生はご存じなんですか、沼沢語を」


「昔、あの辺り一帯を版図に加えていたことがあります」


「版図」


 軽く言う。

 千年の骸骨は、そういうことを軽く言う。


「今はこの事務所だけです。新しいことを学ぶには、身軽でよい」


 余計な情報を聞いた気もするが、深掘りはしなかった。

 生前解脱者であろうと元反帝国勢力の盟主だろうと、現在はヤシマの顧問弁護士である。しかも優秀だ。

 確認すべき点はほかにある。


「沼沢語版の作成をご依頼するとしたら、顧問相談の範囲外になりますか」


「文書作成には別途お見積りをお出ししております」


 やはりそう来るか。


 エリファスはペン先を紙から離し、こちらを見た。

 眼窩の鬼火が、少しだけ明るくなる。


「お見積りは円と銀貨、いずれをご希望ですか?」


 円、と言いかけて口を噤んだ。


 円建てで処理すれば、当然、ヤシマの帳簿に載る。契約書巻き直し費用として。

 本社の法務や統括長で引っかかれば、調印の経緯を根掘り葉掘り聞かれることになる。


「銀貨で」


 裏帳簿の残高を思い出しながら言った。


「初依頼です。お安くしておきましょう。なんなら現物でも構いませんよ」


「現物?」


「取り寄せていただきたい書籍があります」


「法律書、ですか?」


「ええ。民法の注釈書を。できれば古いものがよろしい。魔術も法律も本質は系譜学です」


「探してみます」


 少し肩の力が抜けた。来客用の椅子に深く腰を沈める。


 これで契約書の問題点は洗い出せた。

 巻き直しの方針も決まった。冒険者を使って書面を往復させるだけなら現実的だ。

 沼沢語正本作成費用と冒険者への支払い。裏帳簿への負担は大きいが、出せないことはないだろう。


「ありがとうございます」


 エリファスに頭を下げた。

 厄介な案件だったが、統括オフィスの承認までの目算が立ち、大分、気が軽くなった。


 だが、顔を上げると、エリファスは静かに書面に視線を落としていた。


 万年筆の先が、基本条件確認書の端で止まっている。

 戦士長の手形にかすかに触れるか触れないかの位置だった。


「しかし、サカザキ殿は面白い」


 不意に、そう言った。


「面白い、ですか」


「あなたには彼が何者に見えますか?」


 問いの意味を測りかねる。


「見た目はまあ、あれですが」


「ええ。見た目はあれですな」


「話をする限りは、絵に描いたような優秀な官僚だと思います」


 エリファスが、乾いた笑いを漏らした。

 木の箱の中で骨片が擦れたような音だった。


「スーツを着て、かのような話し方をすれば霞ヶ関官僚ですかな? 日本の方々は、自分たちが見たい幻想だけを見ていらっしゃる」


「……」


「この文書にすら、彼の魔素がべったりと張り付いております」


 思わず書面を見る。

 もちろん、何も見えない。

 赤黒い血判と、手形と、俺の字があるだけだ。


「魔素が」


「ええ。実に放縦だ。ここまで魔素を撒き散らす存在が日本人ということは、私にはどうにも考えにくい」


「お言葉ですが、坂崎参事官は日本人です」


「戸籍上はそうなのでしょうな。ですが、私が見ているのは、こちら側の理にどう結びついているかです」


「……概念を喪失しているようには見えません」


 完全変異者。それで思い出したのは、田村のことだ。


 映画館の暗がり。

 輪郭の薄い老人。

 腕時計を巻く意味さえ曖昧になっていくという話。


 坂崎は違う。

 少なくとも、そう見える。

 行政文書を読み、職員を動かし、冒険者を雇い、現地部族と交渉し、精油所の運用まで図式化していた。

 あれが概念を失った人間の振る舞いだとは思えない。


「概念」


 エリファスは、口の中で転がすようにその言葉を繰り返した。


「概念の喪失とは、なんでしょう?」


「それは」


「例えば、我々にはあなたの世界の概念は理解できない。理が異なるというのは、そういうことです。素養の問題ではない」


 エリファスはデスクの横に積まれた本へ視線を向けた。

 日本の六法全書。

 会社法の逐条解説。

 その隣に、魔術書のような装丁の古い書物が並んでいる。


「しかし、よく知る体系に擬制して理解したふりをすることはできます。例えば、私は日本の民法典を、ギアスの魔術体系として読み換えています」


「民法を、魔術体系として」


「魔術のような形而上の体系を操る者にとっては、実はそれほど難しいことではありません」


 魔術を操る者。

 ナイリザもそうなのだろうか。

 違和感なく複式簿記やらインボイスやらを操っているのは、実はかなり高度な処理をしているのかもしれない。


「精緻化すれば、ほとんど齟齬は生じない。本日、私があなたとこの降伏文書について議論したようにね」


「降伏文書ではなく、基本条件確認書です」


「巻き直した後なら、そう呼んでもよろしい」


 エリファスはさらりと言った。


「優秀な官僚がいたとして」


 そこで、声の調子が少し変わった。


「彼はこちらとあちらの概念を対応させた、完璧な典礼規則を作り上げることができたかもしれない。問いに対し、心のうちで規則集をめくって、対応する部分を読み上げる。彼は傍目には、今でも、日本の行政機構を正確に理解しているように見えるかもしれない」


 骨の指が、また紙を叩いた。


「ある種の政治的嗅覚で弥縫できるのであれば、なおのこと」


「坂崎さんがそうだと?」


「さて」


 エリファスは、万年筆のキャップを閉じた。


「そうだとして、しかしそれは、彼が正しい概念を有していることの証明にはなりません」


 部屋が静かになった。


 窓の外では、通りを行く荷車の音がしている。

 日本租界から離れた西区の昼下がり。

 法院跡地の隣。

 骸骨の弁護士と、血判付きの紙。


 どうにも冗談のような取り合わせだ。


「では、坂崎さんは何なんですか」


「私の目には、貪欲で抜け目のないオークの将軍と映ります。少なくとも、この文書に残った魔素はそういうものです」


「見た目だけでなく、中身も、ですか」


「中身という言葉は難しい。何をもって中身と呼ぶかによります」


 エリファスは、血判部分に触れないよう、繊細な手つきでクリアファイルに入れた。


「だからこそ、体裁が重要なのです。人も、契約も」


 クリアファイルが案件フォルダに収められる。


「巻き直し案は明日までに」


「そんなに早く?」


「紙は早く直すに限ります。書籍の件は後払いで結構です」


「助かります」


 立ち上がると、エリファスもまた立ち上がった。

 骨の手が、いつものようにこちらへ差し出される。

 握る。

 乾いた、温度のない感触。


「カトウ殿」


「はい?」


「サカザキ殿を観察する機会があったら、注目すべきは儀礼プロトコルです」


「プロトコル」


「規則集、と申し上げましたが、要は夥しい置き換えの対応表です。

 意味との関連が薄い儀礼ほど、単純な置き換えが難しい。そして置き換えにしくじったときに最も見えやすいのも儀礼です」


 法律事務所を出ると、空は薄く曇っていた。

 法院跡地の列柱の向こうを、湿った風が抜けていく。


 スマホが震えた。メールの新規着信1件。


 表示された差出人は、坂崎だった。


 明後日に予定している開通式のあとに内々の席を設けるのだという。

 出欠確認の体だったが、要請と読むべきだ。それはいい。


 問題は、こういう案内が直前に送られてきたこと、差出人が坂崎本人であることだ。


 もう安藤はいないのかもしれない。

 休職か、異動か、退職か。どれでも一緒だ。日本租界を去ったということだ。

次話は6月27日(土)21時00分に投稿予定です。

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